暗闇に乗じて一つの影が島に降り立った。
ゴツゴツとした岩肌の海岸を抜け、木々が鬱蒼と生い茂る森の中へと足を踏み入れる。
足元を照らす月明かりは木の葉のせいで微かに降り注ぐだけだったが、男は慣れた様子で獣道のような場所を進んだ。
そうして唐突に視界が開けてそびえ立つ断崖の前まで来ると歩調を緩める。
壁に出来た大きな穴の脇で壁に寄りかかりながら空に浮かぶ月を見上げている己の船長に声をかけた。
「すんません、待ちましたか?」
振り返った黄金色の瞳の鋭さに一瞬ヒヤリとしたものが男の背を伝い落ちる。
しかしその後すぐに鋭さは掻き消えた。
「いや、待ってねェ。」
「ならイイんですがね。さて、何から報告すればイイんでしょーか?」
暗い森の中から姿を現した男――海軍に潜入させている部下だ――の言葉にヴェルノは逡巡してから、海軍の動向はどうだと問いかける。
男はそれに対して「かなり苛立ってますよ。」と愉しげに返した。だろうな、と返事を返すヴェルノの顔にもニヒルな笑みが浮かんでいる。
何十隻もの軍艦を出し、何百何千という軍人を使って、それでも海賊を見つけ出せないだなどという事態は、あの軍師にとっては屈辱だろう。
だからと言って簡単に捕まるほど海賊も馬鹿ではない。
己の身を隠す島の一つや二つ、それなりに名の知れた海賊であれば有しているのだ。
それらを見つけること自体困難であるのだから闇雲に探した所で無駄に金と時間を浪費するだけである。
苛立つ軍師の姿を思い浮かべてヴェルノは喉の奥で低く笑った。
「アイツは何時も肝心な所が見えてねェからな。」
ある程度笑いが収まってから、男はヴェルノに最も伝え難い事柄を言う。
「それで、旦那のお気に入りの仔兎ちゃんの件なんですけどぉ…ちっとばかし怪我してるみたいなんですよね。」
「……怪我?」
「あ、いや、本人は平気らしいですが、こう腹の辺りをナイフでザックリ切られてるっぽいみたいで。ウェルダンの弟からの情報ですけど。」
「そうか。」
先ほどまでは機嫌が良さそうだったヴェルノの雰囲気がグッと落ち込むのが分かる。
冷え冷えとした殺気にも似た空気に男は(こういう時、報告すんの嫌なんだよなぁ。)と冷や汗を隠しながら内心でぼやく。
暫く考えるような素振りを見せた後にヴェルノが溜め息混じりに壁から背を離した。
不機嫌さは消え去り、怒りなども見られず、どちらかと言えば呆れたような声音で口を開いた。
「…目を離すとすぐにコレか。面倒臭ェな。」
言葉のわりに表情は穏やかなもので、男は目を見開いて驚いた。
「旦那…?」
「おい、頼んでおいた物は集まってるか?」
「え?えぇ、何時でも使えますけど。」
「持って来い。それから野郎共に準備をさせとけ。」
ヴェルノの指示に更に男は驚く。準備、ということは予定を繰り上げるつもりなのだろうか?
男の視線を受けてヴェルノは黄金の瞳を細めて笑う。
「明日の夜、決行する。」
「了解。」
「お前は明日の夜までに戻ってウェルダンに伝えろ。」
「うぃーっす。んじゃ今夜はこっちで酒でも楽しみますかぁ!」
男は嬉しそうに洞窟の中へと入っていく。
それを横目にヴェルノはまた空へと視線を向ける。月はほぼ丸に近い。明日は満月だろう。
懐から取り出したパイプを口に銜え、マッチで火を付ける。
甘いキャラメルのような香りが煙と共に仄かに広がった。
ふぅと煙を吐き出し、パイプを口元から離す。途端、バキリと音がして艶のある美しい木製のパイプは真っ二つにヘシ折れてしまっていた。
壊れたパイプになど目もくれずにヴェルノは苛立ちのこもる瞳で宙を睨み付ける。
――…怪我、だと?
先ほどは男の怯えた空気を感じ取り、一応怒りを腹の中に押さえ込んでいたものの、ヴェルノはかなりの苛立ちを感じていた。
ただでさえ手元から離れているというのに、己の目の届かぬ場所で傷を付けられたなど不愉快極まりない。
己以外の者が手を出した事が最もヴェルノの機嫌を損ねさせる。
感情のままに折れたパイプを岩壁に叩き付け、粉々になる様を眺めた。
「…ふざけやがって…!」
唸るように呟いて、上着を翻して洞窟の中へと戻る。
カツコツと足音を響かせながら考えるのは、軍師と呼ばれる男のプライドをどう叩き潰してやるかという事だけだ。
洞窟の最奥にある騒がしい部屋へ来たウェルノに気付いた者は少ない。
ヴェルノは酒瓶を掴み、勢いよくテーブルの縁へ叩き付け、派手な音が洞窟内に木霊する。
その場にいた海賊達は誰もが口を噤んでヴェルノを見た。
「聞いただろうが、明日の夜までに準備を終わらせておけ。遅れは許さねェ。」
突然予定を変えたヴェルノにアイヴィーが歩み寄る。
「真白ちゃんの件ね?」
「あぁ。手ェ出されて黙ってる程、俺は温厚じゃねェからな。」
「そうね、アタシも苛々してたもの。」
「…酒持って来い。」
両者共に静かながらも怒りを露わにするヴェルノとアイヴィーを見ながら、中にいた半分ほどの海賊たちは繰り上がった予定を実行するべく己の船へとそれぞれ戻っていく。
残った半分は先ほどよりもやや声を落としながら遠目に二人を眺めている。
報告に来た男――イアン――はその様子を眺めながら、小さく呟いた。
「…楽しく酒を酌み交わしたかったんだけどなぁ。」
狩りの時期を待つ狩人のような船長と副船長を眺めながら、傍にあった酒瓶をイアンは一気に仰った。