そうこうしているうちに軍人さん方が部屋を出て行ってしまい、残ったのはカルヴァートだけ。
棚の上から見つめていると「クソッ…!」と綺麗な顔にとても似つかわしくない悪態を吐いて、部屋を出て行ってしまわれました。
扉の向こうの足音が遠退き、聞こえなくなってから私は棚からそーっと降ります。
何とか机の脚に掴まって上に上って、何かヴェルノさんかウェルダンさんのためになるような物を探してみました。
だけど残念なことに私は文字が読めないようなのです。
…どうして今まで気付かなかったのでしょうか?
ゴソゴソと机の上を探っておりましたら、いきなり体が宙に浮いてしまったのです!
「無重力!」
「…ねぇ、君、一応捕まってるんだって分かってる?」
「あ、ジークさんでしたのですね。」
ゆったりとした口調と声に首だけで振り返りますと、ジークさんが私の服を後ろから掴んで持ち上げているではありませんか。
急に体が浮いてしまったのはジークさんのせいでしたか。
何故かジークさんは私を机の上ではなく棚の上に戻してしまうのです。
「人形のフリしてろって言ったよね?」
「はっ!そ、そうなのでした…。」
「気持ちは分からなくもないけど、静かにしていなよ。軍師にバレたら君、ナイフを刺される程度じゃ済まないんだからさ。」
「……はいです…。」
ちょっとだけ呆れを含んだジークさんの注意にしょんぼりなのです。
私が動かした書類をジークさんが纏め始めてすぐにカルヴァートがいきなり部屋の扉を開けたのです。
ビックリでした。もしもジークさんがいらっしゃらなかったら、机の上で書類を漁っているところをバッチリ目撃されてしまっていたでしょう。
カルヴァートは一瞬‘何で此処に居るんだ’と言いたげな顔でジークさんに視線を投げかけましたが、散らばったままの書類を整理している様子に寄せていた眉間の皺を消します。
そうして机から数枚の書類を取り出すとまた足早に部屋を出て行ってしまいました。
「こういう事もあるから、もう止めてよね。」背を向けたままのジークさんに、私は素直に従う他ありません。
書類をきっちり重ねて整理したジークさんは最後にチラリと私に視線を投げかけ、それから相変らずのんびりとした様子で部屋を出て行かれてしまいました。
「って訳。ちょっとあの危機感が欠片もない子、なんとかしてよ。…兄さん。」
食事に混ぜた薬で眠りこけている軍人を押し退け、長椅子の端に腰掛けながらジークは呆れを多分に含んだ声音でそう言った。
目の前の独房にはウェルディーノ=ダンガルド――彼の腹違いの兄が、渡された食事を食べながら苦笑を浮べて格子越しに弟を見る。
「ふふっ、流石ヴェルノのお気に入りですね。予想もしない事をしてくださいます。」
そこが面白いのかもしれませんね。と穏やかに言うウェルダンに、手の内で折り畳みナイフを弄っていたジークが僅かに目を見開いて顔を上げた。
のんびりとスープを飲む兄をマジマジと見つめる。
「え…、あれってウルフ船長のお気に入りなの?」
「えぇ。言っていませんでしたか?」
「聞いてない。あーぁ…怒られないといいけど。」
「…何かあったのですか?」
かの有名な海賊であり兄の友人でもある男に殴られる自分の姿を想像しつつ、ジークは溜め息を零す。
それを見たウェルダンは笑みを引っ込めて弟の顔を見た。
友人の大切なものを預かっているのだから何かあっては困る。何よりウェルダンもあの真っ白なうさぎのヌイグルミの事は気に入っていた。
殺るか殺られるかという荒んだ海賊の世界に長く身を置いていたせいか、あの妙に緩い雰囲気を醸し出すヌイグルミの傍は酷く心地良い。
…あの空恐ろしい友人から奪う気など毛頭ないが。
「軍師がさぁ、ナイフで机に磔(はりつけ)にしちゃったんだよね。もう外せたけど、この辺がザックリいってる。」
この辺、とジークは自身の腹部の辺りを縦向きに指でなぞる。
…それはかなりの大怪我では?
ひくりと口の端を引きつらせたウェルダンに気付いたジークが「でも、本人は何ともなさそうだった。切れた所は少し気にしてたけど。」と付け加えた。
これは早急にヴェルノへ伝えなければなりませんね。
何も知らずに彼女のそんな姿を見たら――…
そこまで考えてウェルダンは小さく身震いした。
青い髪の友人は普段は良い男だが、一度機嫌が悪くなってしまえば手がつけられない。
「そうですか…。その件は私が何とかしておきますよ。」
「うん、お願い。俺この年で死にたくないし。」
「そこまで言いますか。」
「だってあの人手加減しないじゃない。」
他を纏め上げるだけの才があり、他者を退ける技量を持ち、己の邪魔をする者や気に入らない者には何の容赦も無い。
ウェルダンも以前、送った使者が使い物にならなくなって帰って来た事が何度かあった。
その時の光景は未だ鮮明に思い起こせる。ジークも昔は一度と言わず二度も三度も殺されかけたことがあり、その際は弟だからとウェルダンが止めて何とか助かったのだ。
お気に入りのあの真っ白なヌイグルミに手を出されたと知ったら、一体どれ程気分を害するだろうか?
想像してみても、全く予測がつかない。
少なくとも軍師は無事では済まされないだろう。
助けが来る事は嬉しいものの、助けに来てもらいたくないような形容し難い思いを胸の内に押し込めながらウェルダンは苦笑した。
「その辺りは彼女も助けてくれますよ、きっと。」
「希望的憶測は期待すべきでないよ、兄さん。……それじゃあ俺は戻るから。」
カシャンと軽い音を立ててジークは独房の中から空になった食器を引き下げた。
「えぇ、ありがとうございます。」
背に届いたウェルダンの声に空いた片手を上げ、ジークは薄暗い独房を出て行ってしまう。
その少し後に薬の効果が切れて目を覚ました監視役の軍人は、やや眠そうな目を擦りながらウェルダンを見た。