翌朝の八時半過ぎ頃、エリスは己の黒い携帯電話を片手の内で弄びながら少女へ送信するメールの内容を考えていた。
ただ一言‘今から向かう’と送れば良いだけの話なのだが、送ろうとした手前、以前部下に自身のメールは要件のみで素っ気無いと言われた事を思い出してしまったのである。
要件のみを伝えるのは一番簡潔で分かりやすいじゃないか。
そう思うものの少女に送るとなると、やはりあまり素っ気無さ過ぎる文面では良くない気もする。
何度目かになる打ち直しを終えて朝の挨拶と今から向かう旨、何時頃アパートの前に出ていて欲しいかなどを書いたメールを一度読み直し、これなら良いだろうと送信ボタンを押した。
それから程なくして少女から了承の返事が返ってくる。
そこには朝の挨拶と雲行きが怪しいので傘を持って来た方が良いかもしれないと書かれていた。
意外にも少女からのメールには若者が好んで使う絵文字や顔文字はない。
話している時と変わらない礼儀正しい文面に知らず笑みが口元に浮かぶ。
自動車の鍵とビニール傘を掴むとミリタリーコートを羽織って部屋を出た。私生活では自動車よりもバイクを運転している事が多いため、久しぶりに自身の車に乗る気がする。
地下までエレベーターで下がり、自動車にかけてあったカバーを引き剥がす。
普通の一般サラリーマンではそれこそ手も出ないようなスポーツカーはピアノブラックで統一されて地下駐車場の薄暗い壁を反射させていた。
滑らかな曲線を描く優雅な車体に乗り込んで鍵を差し込んで回し、CDプレイヤーを取り外してからわざわざ付けさせた指紋認証に触れれば漸くエンジンがかかる。
滑るように発進させつつ胸ポケットに手を伸ばしたが少女が後で乗るのだと思い出して、ギリギリで喫煙衝動を押し留めた。
一応消臭剤なども定期的に入れ替え、煙草を吸う際には窓を開けて臭いがこもらないよう気を付けているものの多少臭いはついてしまっているだろう。
せめてもの足掻きで窓を開けて車内の空気を一気に換気しながら車を走らせる。
そうこうしている内に少女が住むアパートの前に到着すると、既に小さなバッグと傘を持った少女が道路脇に佇んでいた。
此方にはどうやら気付いていないようだ。
空に薄く立ち込める雲を見上げて少し不安そうな顔をしている。
目の前に停車してやっと少女が視線を落としてきた。
ハザードを点けたまま運転席から出てみれば「あ、」という表情をして、穏やかに「おはようございます。」と挨拶をしてくる。
メールでもしたというのに少女は本当に律儀だ。
返事を返して助手席のドアを開けてやれば「すみません」と頭を下げて座席に座る。
運転席に戻って乗り込み、車を発進させようとすると少女が口を開いた。
「あのっ、途中でお買い物をしたいんですが…!」
何をそんなに勢い込んでいるのか。手元のバッグを握り締めるように持つ少女に頷いた。
「何か買うのか?」
「はい、菓子折りを買いたくて…突然辞めるのに、何も持っていかないのは失礼ですし。足りないですけど、今まで色々とお世話になったお礼をしたいんです。」
「成る程。」
…菓子折りとは考えなかったな。
それならばと菓子折りを専門に取り扱っている店へ車を走らせる。その間、まるで初めて電車に乗る子供のように少女は流れて行く車窓の景色に食い入っていた。
十分程で着いた店はこじんまりとしているが品揃えが豊富で味も良いと有名だ。
運転席から降りて助手席の扉を素早く開けてやれば――モタモタしていては少女は自分で開けてしまいそうだ――店を見てから振り返る。
「一度来てみたかったんです!」喜色の色が濃く滲む笑顔に店の選が間違っていなくて良かったと内心ホッと胸を撫で下ろして少女を店へ促した。
自動ドアを潜るとふんわり香ってきた甘い匂いに釣られたのか少女が足早に商品が並んだガラス棚を覗き込む。
色取り取りに詰め込まれた菓子を黒い大きな瞳を輝かせながらじっくり吟味している様を、エリスは壁際に寄りかかって眺めることにした。
一つ一つの箱の中身を確認しては店員にあれは何だ、これは何だと事細かに聞いている。
ガラス棚の商品を端から端まで見終わると検討を付けたらしき商品の辺りで更に他の物と比べたり、詰まった菓子の種類と量を偶に指折り数えて確認したりしている様子は見ていて飽きない。
忙しなく動く様はハムスターやリスなどの小動物を容易に連想させた。
最後には随分大きな紙袋と少し小さな紙袋を提げて満足そうな表情で戻って来た少女に、思わず噴き出してしまっても仕方が無いだろう。
当の本人はキョトンとした顔で見上げてくるのだから余計に笑いが込み上げてくる。
「え、どこか可笑しいですか?」
キョロキョロと自分の服装や周囲を気にする少女に「いや、違う…」と返事をしたが笑いは未だ治まり切らず、ほんの少し声が震えてしまった。
少女は不思議そうにしたが特に気分を害した風もなく紙袋を抱えて困り顔で立っている。
何でもないと背を軽く押して車へ戻し、助手席で大事そうに紙袋を抱える少女に今度は苦笑した。
アルバイトの件に関しては少女が入院する際に事の次第は説明してあるので、恐らくそれほど酷い事にはならないだろう。緊張した面持ちで脇の車窓から正面へ視線を移した少女の横顔は先程と違って硬い。
そんなに離れていない少女のアルバイト先の小さなカフェは開店する前だからか人気もなく、入り口にclosedと書かれた小さな看板が下がっている。
勿論働いている人々はもう中で忙しく動き回っているだろうが。
その前の専用駐車場に車を止めて少女を降ろせば完全に顔が強張ってしまっている。
それがあんまりにも頼りなく見えてしまい、気付けば低い位置にある小さな頭を撫でてしまっていた。撫でる、とは言っても数回軽く叩くような感じではあった。
「落ち着いた方が良い。君にあった事は話してあるんだ、そう大騒ぎにはならないだろう。」
言い訳めいた言葉になってしまったが少女は数度目を瞬かせると小さく頷く。
すぐに気合を入れるように体の前で小さくガッツポーズをしてカフェの扉を開けた。
涼やかなベルの音に急かされてエリスもその後に続く。Prev Novel top Next