鳥が枝に留まっている木の絵の横に‘宿木(ヤドリギ)’の文字。
細くて達筆で、でも全体的に円みのある女性らしい字体は少し意外だった。
口調から窺える豪胆そうな性格の神代先輩が書いたにしては可愛かったのだ。
あと、絵も上手い。デフォルメされた木と鳥は一目でそれだと分かる。
「例えるなら君はこの木のようなものだ」
宿木の文字が赤ペンでぐるぐると丸く囲まれる。
意味がよく分からない僕は首を傾げてしまった。
「鳥に懐かれたことは一度もないですよ?」
それどころか近付くと一斉に逃げられる。目が合っただけで飛び去られる時もある。
悲しいかな、鳥だけでなく犬や猫といった他の動物にも懐いてもらえないくらいだ。
僕の言葉に神代先輩が「そうじゃない」とメモ帳に‘霊’の文字を書いた。ぐるりと丸で囲い、そのまま枝に留まっている鳥へ矢印を引く。
「例えと言っただろう。この図に当て嵌(は)めると鳥は‘霊’、人間が幽霊だの妖怪だのと呼ぶモノだ。そして‘霊’である鳥が休むのに適したこの木が‘君’。要は‘霊的なものの一時的な拠(よ)り所’という体質を君は持っている」
なるほど、僕が木で、霊が鳥か。分かりやすい。
そこで別の疑問が湧く。
「ちょっと待ってください。もしそうだとしたら僕には幽霊とか妖怪とかが寄って来る訳ですよね? でも昨日は別として、今まで一度もそういったものは見てないんですけど……」
もし僕がその体質ならば近くにいる霊の類を何度も目にするはずだ。
だが神代先輩には否定された。
「見えないのは君の本能が無意識のうちに認識しないようにしているからだ。霊を‘視る’というのはそれだけで心身に負担が掛かる。昨日、夜泣き石で‘視た’時に奇妙な疲労を感じなかったか?」
「……あ」
そういえば、僕は石を動かした後に冷や汗と疲労感で座り込んだ。
言われてみるとあそこまで疲れを感じるのも変な話だった。
石だって二人掛かりで動かしたのだし、座り込むほど疲れるなんて普通はない。
「動物は‘視える’と言うが人間も本来なら‘視える’はずなんだ。ただ文明の発達に従って本能的な部分が退化してしまい、感知する器官は残っていても、動物ほど‘視る’ことは出来ないのではないかと私は考えている。代わる代わる霊が憑いて離れてを繰り返している君には、認識出来ない方が生きる上で都合が良いのだろうな」
納得しかけて、僕ははたと思考を止める。
「代わる代わるって、僕にはどれだけ憑いてるんですか?!」
「私が記憶している限り、長くとも一週間、短ければ日替わりで君の周りには違う霊がいる。たまに全くいない日もあったが、逆に多過ぎて君が見えない日もあった。付け加えるなら人に限らず動物の霊もいるぞ」
「そ、そんなに……」
僕は自分の周りに人や動物の霊が寄って集(たか)る場面を想像して、げんなりした。
そこまでだと見えない方が良いかもしれない。
一人暮らしの部屋の中で幽霊にうろつかれるのも嫌だ。
「憐れと思って多少は目を瞑ってやれ。現世を彷徨(さまよ)う霊にすれば、君はまさしく砂漠の中のオアシスだ。見つければ休むのは当然さ。全く、宿木(そういう)体質の者がいるのは知識として知ってはいたが、君ほど霊障(れいしょう)を受けない者を見るのは私も初めてだよ」
「レイショウ? レイショウって?」
「霊が憑くことで受ける障害。障(さわ)り。先ほど出て行ったのが言っていたラップ音やポルターガイスト現象、霊の声が聞こえる、見える、襲われる、原因の分からない体調不良、突然別人のように性格が変わったり凶暴になったり、何をやっても上手くいかないなど内容は多岐に渡る。単に本人がそう思い込んでいるだけの場合も多いがね」
同好会の先輩達が話す霊に憑かれて〜になったとか、霊のせいで〜したとかも霊障の部類に入るのか。よく霊が憑くと不幸になるなんて聞くが強(あなが)ち間違いでもないみたいだ。でも思い込みってのも結構ありそうだ。普通の人には霊障なのか思い込みなのか分からないし、原因不明の体調不良で病院に行って‘霊障ですね’と診断してくれる医者なんかどこを探したっていないだろうし、そもそも幽霊が見えない人はそんなこと考えもしないと思う。
トントン。ペンの先でメモ帳を叩く音に視線を戻せば‘霊障’の文字。
僕が思考を巡らせている間に書いたらしい。
「ここまでは理解出来たか?」
問われて僕は若干首を傾げそうになりつつ頷いた。
「うーん、全然実感はないんですけど、僕は霊の休憩所みたいなもので、霊が寄ってくるけど僕には害はないってことは分かりました。それが‘宿木体質’で合ってますか?」
「大雑把な解釈だが、まあそうだ」
メモ帳に宿木とされた木の周囲に何本かの別の木と、何羽かの鳥が描かれる。
新しく描かれた木は鳥につつかれたり、枝が折れたり、元気がないようだ。
「この周囲の木は君以外の他の人間だ。鳥は‘宿木’の君には害を及ぼさない。しかし周りの木は違う。ただの木で、中には鳥の嫌いな木も混じっているかもしれない。問題は‘宿木’で休んでいる鳥達が周りの木の枝を折ったり、花を散らしたり、まだ種の出来ていない実を落としたりと荒らすことだ」
僕はその例えを霊と人とに置き換えてみた。
宿木の僕には害がない。でも周りの人はそうじゃない。僕のところへやって来た霊が、僕に何をしなくても、僕の近くにいる人へ悪さをする。神代先輩の言った色んな霊障に見舞われる。
そこまで想像して背筋がゾッとした。
たった一晩二晩霊障を受けただけでも彼は憔悴(しょうすい)していた。
もしかしたら気付かないうちに僕のせいでそんな風になった人がいるとしたら。
「そう悲観するな。霊だって手当たり次第に取り憑いたり霊障を起こしたりする訳じゃあない。君のご家族は健在か? 誰かの葬儀に参列した経験は?」
「父も母も、祖父母も元気です。ええっと、葬儀も出たことはないと思います」
家族もそうだけれど、僕が親しくしている親戚も大病になったという話は聞かない。
通夜や葬儀に出るほど近しい人が亡くなった経験もない。
神代先輩は「ふむ」と顎に手を当てた。
「親類縁者(しんるいえんじゃ)や親しい者には影響が出難(でにく)いのか、あるいは一族の成り立ちの初期に‘宿木’が混じって血筋全体がそれに近い体質を持つことで影響を受けていないのか。戸籍を遡ったとしても精々明治まで。書面上の名前を見ただけでは流石に体質は分からんし、親類縁者もどの程度血が薄くても有効なのか、縁続きでも血の繋がりのない者はどうなのか……」
段々思考の海に沈んでいく神代先輩を呼び止める。
「先輩、神代先輩、話が逸れてますよ」
「ん? ああ、すまん、少々不謹慎だった」
こほん、と仕切り直すように神代先輩が一つ咳をする。
「突然変異にしろ先祖返りにしろ、君の体質はそれほど周囲への害もないようだ。しかしながら全くないとも言い切れん。親しくした相手に元から‘霊が憑いている’場合、その霊に障りを起こす力を与えてしまうこともある」
ここまで色々と説明してもらえればもう分かる。
僕は無関係ではないと言った理由も、どうして僕の体質を話したのかも。
「今回はまさにそれだったって訳ですね。僕が近くにいたから……」
きっと僕と親しくならなければ彼は霊に怯えることはなかっただろう。
知らなかったとは言え、怖い思いをさせてしまったのには代わりないし、これから出会う人々の中にも同じ被害に遭う人が出るとしたら僕は一体どうすればいいのか。神代先輩は最初に生まれ付きのものだから改善は見込めないと言った。他人との関わりを極力減らすくらいしか思い付かなかった。
「いや、その考えは当たらずと雖(いえど)も遠からずだな」
俯いた僕の眼前に神代先輩の持つペンが真っ直ぐに向けられる。
「相手が霊に憑かれるような‘何か’をしていない限り、早々霊障が出ることはなかろうよ。その体質は所詮きっかけに過ぎない。現(げん)に君は親しい者の葬儀を経験したこともなく今まで平穏に過ごせて来たじゃあないか。今回は相手が悪かっただけさ」
「……幽霊に良いとか悪いとかあるんですか?」
「無論あるとも。人の霊、それも大人なら尚良い。話は出来るし、無闇に霊障を起こさないし、無害なものが多い。守護霊は憑いた人間の厄を遠ざけてくれる良い霊の代表だな。良くないのは言葉の通じないものだ。特に赤ん坊は手強い。物事の道理も善悪も分からないまま本能で生を渇望し、親へ執着し続け、自分の存在に気付いて欲しくて後先考えずに霊障を起こす。オマケに邪魔者には容赦がない」
「だから供養しろって言ったんですね」
「それが最も穏便で親にも子にも良い対処法だからな」
メモ帳から図の書かれた紙が破り取られた。
神代先輩の力強い双眸に射抜かれ、背筋が伸びる。
「怯えるな。宿木体質(それ)は君の個性だ。上手く使えよ」
私のように、と二つ折りにされたメモ用紙を差し出される。
僕はメモ用紙を暫し見つめた後に受け取った。
これが僕と神代先輩の縁を結んだ最初の物語である。