足元を見下ろすと、何時落としたのかも覚えていないビニール袋がある。
大きく開いた口から細長い箱が顔を覗かせていて、僕はすっかり忘れていた線香のことを思い出した。不思議なことに、その存在を思い出したら胸の内に巣食っていた恐怖心は蝋燭の火の如くふっと掻き消えた。
そうだ、噂を知った上で線香をあげると言ったのは他でもない僕自身だった。
こういう可能性もあるなんて分かり切っていた話じゃないか。
僕は足元に落ちていたビニール袋を漁って線香の箱とライターを取り出し、箱を開けて束になっているものを一つ掴むとライターで火を点け、全体に広がったところで軽く手を振って火を消した。煙の立つ線香を夜泣き石の前の空いた場所に置く。両手を合わせ、目を閉じて、口を噤む。毎年実家の先祖が眠る墓にするように、それでいて今まで生きてきた中で一番心を込めて、僕は静かに黙祷を捧げた。
死んで、塚を建ててもらって、それでも尚(なお)成仏出来ない親子の霊を想った。
そして遊び半分で石を動かしたことと、冷やかしで騒ぎ立てたことも謝っておく。
自然と詰めていた息を吐き出しながら目を開ける。
顔を上げれば神代先輩がこちらを見つめていた。
「線香も買っているとは良い心掛けだな。……私にも少し分けてくれ」
断る理由もない僕は線香の箱とライターを差し出した。
神代先輩も束を一つ取り、慣れた手付きで火を付け、振って消した。
先に僕が置いた線香の横へそれが並べられて立ち上る煙の量が倍に増える。線香の煙が森の中に広がって、日が沈んだ濃紺の世界に溶けて混じり合うと、得(え)も言われぬ匂いになって僕達を包み込んだ。
暫(しば)し塚へ手を合わせた神代先輩がそっと目を開ける。
「さて、用は済んだ。帰るとしようか」
そして来た時と変わらない無表情さで脇道へ戻って行く。
何がどうなったのか全く分かっていない僕は今日何度目かの「え?」を口にした。
急いで後を追うと神代先輩はまだ脇道の途中に居たので、夜の山の中――それも霊が出る場所――に一人取り残されるなんて事態は免れたものの、また沈黙が僕達の間に重く圧し掛かって‘どういうことですか’と問う機会を逃してしまったことに気付く。
山を下りて、街へ戻り、大学まで来てやっと神代先輩が立ち止まった。
「聞きたいことがあるのは分かるが今日は帰れ。どうしても知りたければ明日の講義後に部室へ来い。今回の件は君と全くの無関係という訳でもないし、言っておいた方が良いかもしれないことも出来たしな」
矢継ぎ早(ばや)にそう言って、犬でも追い払うみたいに追い払われた。
僕は渋々言われた通りにアパートへ帰ったが、結局その日はあまり眠れなかった。
* * * * *
翌日、睡眠不足で重い瞼を擦りながら僕は講義を受けた。
講義後に彼から「昨日はどうだった?」と聞かれたけれど、一晩記憶を辿って考えてみても訳が分からないのは変わらなかったので「何が何だかさっぱりだよ」と正直に答えて残念そうな顔をされた。
逆に「昨日の夜は大丈夫だった?」と聞いたら「まだラップ音とかはするけど、夜泣き石から帰って来た日に比べたらマシだった。御守りって本当に効くんだな」と胸元を軽く叩きながら返された。多分そこに御守りがあるのだろう。顔色も昨日よりか多少良くなっていた。
兎にも角にも神代先輩に話を聞くために僕と彼は同好会の部室へ行った。
しかし部室は誰も居らず、どうやら神代先輩はまだ講義を受けているらしい。
彼と僕は昨日と同じ席に座って、携帯を弄ったり居眠りをしたり、それぞれ時間を潰す。僕は机に伏して足りない睡眠時間を少しでも補おうと目を閉じていたが、うとうとすることは出来ても眠りには落ちれなかった。
大体講義一つ分ほど経った後に待ち人は部室へやって来た。
扉を三回叩く音で僕は飛び上がりそうな勢いで体を起こした。
多分垂れてないとは思いつつ、口元を袖でこっそり拭っていると扉が開く。
「すまない、待たせた」
一言謝罪の言葉を述べて神代先輩は机を挟んだ向かい側の椅子へ腰掛けた。
「それで何か分かったんですか? オレに憑いてる奴、追い払えますか?」
身を乗り出した彼が縋るような声音で問う。
やっぱり、お守りでマシになっても怖いのだろう。
神代先輩は椅子に深く座り、両腕を組んで彼を見遣った。
「追い払うのは無理だが成仏はさせられる」
「どうすればいいんですか?」
「まあ待て。順を追って説明しよう」
組んでいた腕を解いて神代先輩が右手の人差し指を立てた。
「一つ、君が夜泣き石で見たのは君が予想していた通り、あの場所に憑く霊だった。これは昨日行って確認もしたので間違いない」
右手の中指が次に立てられる。
「二つ、君に憑いているのは夜泣き石の霊ではない。悪戯半分に石を動かした君には大層ご立腹だったが、あれはもはや自縛霊となっていてあの場所からは離れられないのさ」
右手の薬指が続けて立てられる。
「三つ、しかし君には今も霊が憑いている」
一度握り込まれた指は、人差し指だけで彼を指し示す。
神代先輩の言葉に彼はビクリと体を震わせた。
「そんな、夜泣き石の霊じゃないんですかっ?」
「ああ、違う」
「それじゃあどこで――……」
「残念ながら、その霊は君自身が生み出したものだ」
彼の言葉を遮った神代先輩の声は強い口調だった。
荒げられてもいない淡々とした声のはずなのに責めていると分かる。けれども神代先輩の顔に表情らしい表情はなく、ただ静かに彼を見据えているだけだ。
「申し訳ないけれど少し調べさせてもらったよ。君は男女関係なく誰ともすぐに親しくなれるそうだね。それこそ、初めて会ったその日のうちに女子をお持ち帰りしたことも一度や二度じゃあないらしいな。特に高校時代は火遊びに余念がなかったとか」
僕は彼の知られざる一面を聞いてつい隣へ顔を向けてしまった。
明るく、お調子者で、話しやすい。そんな彼は友達もかなり多い。何時も誰かと連絡を取り合い、同性に限らず女子とも一緒にいて、彼の話には性別を問わず知らない名前が頻繁に挙がる。
彼は口を開けたり閉じたりしているものの、余程(よほど)驚いたのか声が出ていない。
「人の交遊関係に口を挟みたくはないが、社会人として自身の行いに責任が取れるようになるまでは控えるなり気を配るなりした方がいい。男任せにする女も問題だけれど、何もしないのも如何(いかが)なものか」
直接的な言葉は避けているが神代先輩の言わんとしていることが何なのか僕は理解した。
彼自身が生み出した。女子のお持ち帰り。火遊び。自身の行いに対する責任。
これだけ揃えば大抵の人はピンと来るだろう。
「な、何言ってるんですか。そんなこと、今は、関係ない……」
言われた彼が一番分かっているはずだ。
その証拠に声が上擦って、膝の上で握り締めた手が震えている。
「本当に関係ないと思っているのか」
神代先輩の声に責める色が増した。言葉の端に鋭ささえ感じられた。
隣から、ひぐっと呼吸を失敗したような音がした。
無理もない。それぐらい今の神代先輩は怖いのだ。昨日感じた‘恐怖’とは部類の違う‘怖さ’だ。
美人が怒ると怖いって、顔が整っていて迫力があるから怖いんだと知った。
「言葉にしなければ分からないのか? それとも理解したくないだけか? 君に憑いているのは‘生まれることが出来なかった君の子供’だと私は言っているんだ。妊娠に気付くのが遅れたのか、あえて出産を選んだのかは知らないがな、君に憑いた赤ん坊は人と分かる程度には育っていたようだ。……可哀想に。産声を上げることも叶わないまま亡くなったのだろうね。そんな子供が君には二人もいるんだぞ」
そこまで言って神代先輩は小さく息を吐いた。
責め苦に耐えられなかった彼がとうとう立ち上がり、扉へ向かう。
その背中に朗々とした言葉が投げかけられる。
「言い忘れていたが、君に渡した御守りはその場凌(ばしの)ぎに過ぎない」
それは一種の脅しに近いもののように僕には思えた。
扉に手を掛けたまま立ち止まった彼へ追撃が飛ぶ。
「無関係と言い張るなり、また火遊びに興じるなり好きにしたまえ。これからも自分の子供を背負って生きるがいい。けれど、もし少しでも赤ん坊を憐れに思うのなら供養をしてやれ。君に出来るのはそれだけだ」
彼は最後まで聞いて、そして無言で出て行った。荒々しく扉が閉められる。
僕は彼を追う気にもなれず、重苦しい空気の残る中、椅子から動けなかった。
神代先輩がチッと大きく舌打ちを零し、椅子の背に完全に寄り掛かって踏ん反り返った姿はそれまでの神代先輩らしからぬ粗野な行動で、僕はちょっと驚いた。見ると忌々しそうに眉を顰(しか)めている。
「何なんだあの態度は。自分に都合が悪くなると聞こえない振りなんて子供か? ……未成年者は子供か。あれで私の一つ下とは笑えない冗談だ。たった一年程度生まれるのが遅いだけでああも違うのか。金を取っていなかったら危うく張り倒していたぞ。くそっ、どうせなら一万にしておくんだった。こんな胸糞悪い依頼は久しぶりだ」
憤懣(ふんまん)遣(や)る方(かた)ない様子で愚痴を漏らすものだから不覚にも笑ってしまった。
美人で、堂々としていて、何でも出来そうで、視える人で、先輩で、凡庸な僕とは比ぶべくもない人だと思っていたのに、今はどう見ても口の悪い拗ねた子供である。組んだ腕は右手の人差し指が左の二の腕を落ち着かなげに叩き続けている。彼の態度はかなり神代先輩の機嫌を損ねたようだ。
僕が小さく笑ったことで神代先輩のぼやきの矛先が向けられた。
「何を笑っている。男の君も他人事(ひとごと)ではないんだぞ」
こちらに来るとは思っていなかったので思わず「うわ、流れ弾……」と言うと神代先輩は押し黙った。口は噤んだけれど明らかに御機嫌斜めな表情は、オカルト同好会に入ってからの一ヶ月の間で一番感情的な顔だった。初めて神代先輩の歳相応な姿を見た気がした。
「君は存外、はっきり物を言う性質(たち)だな」
神代先輩が大きな溜め息を吐いた。やや億劫そうな動作で椅子に座り直す。
「まあ良い。昨日も言ったが君にも話すことがあったし、丁度人払いになったと思えば悪くない」
「そう、それですよ。気になっちゃって昨日は全然眠れなかったんですけど、今回のことが僕にも関係があるってどういうことですか? 一緒にいたってだけじゃなくて?」
僕が前のめりになって聞くと神代先輩は緩く首を振った。
「同行していた点で言えば関係している。けれども私が言いたいのはそういうことではなくて、もっと根本的な、君自身の問題だ。問題と言って良いものかも判然としないのだが。正直、私は君に説明するべきなのか迷っている。世の中には知らない方が幸せな事実というのもあるしな」
本当に迷っているらしく、どことなく歯切れの悪さが感じられた。
でもそんな風に言われたら余計に気になってしまう。
「それって僕の命に関わるとか?」
「いや、君には害はないだろう。そういった事例も聞かん」
「それでも知りたいです。自分のことなのに分からないって嫌なんです。何より、ここまで引っ張っておいて‘やっぱ止めた’なんて言われたら僕は今日も眠れなくなってしまいます。ただでさえ昨日だって色々考えて寝不足気味なんですから」
お陰で講義中も眠くて仕方なかったんですよ。
気を抜くと上と下の瞼がくっついてしまいそうな目を指で示せば神代先輩が苦笑を浮かべた。口角を微かに引き上げるだけの小さな笑いだったけれど、呆れも混じっていたけれど、確かに笑ったのだ。
すぐに笑みは消えてしまったが僕の記憶に強くそれは残った。
「それもそうだな」
神代先輩の声に半ば惚(ほう)けていた意識が戻る。
僕は慌てて同意するように頷いて見せた。
「そうです、教えてください」
神代先輩に頷き返される。
「分かった。これからする話は君の体質についてだ。恐らく生まれ付いてのものだろうから改善は見込めない。しかし君自身には無害で、事によれば有益な面もあるが、間接的に不利益を被(こうむ)ることもある。包丁や鋏(はさみ)と同じで使い方には気を付けろ。それを忘れずに聞いてくれ」
前置きをして、神代先輩は自分のバッグからメモ帳と多機能ボールペンを取り出した。
メモ帳は無地のシンプルなもので、ペンは黒、青、緑、赤のボールペンにシャープペンシルが一緒になったやつだ。どちらもコンビニで売っている量産品だ。机の上に開いたメモ帳が置かれる。
「君はヤドリギを知っているか?」
黒のボールペンでメモ帳に絵を描く神代先輩に問われた。
「他の木に寄生するやつ、でしたっけ?」
「ああ、あと鳥が羽を休めるために留まる木もそう呼ばれる。私の言うヤドリギはこっちだな」