石を塚の上に置いた彼は手を払い、自分の服を見て眉を顰(しか)める。
苔生したそれを抱えていたのだから当然だが、苔や泥がくっついてしまっていた。
「げっ、きったねー」
嫌そうに服を叩く彼を余所に女の子達が撮ったばかりの写真を見る。
上手く撮れたらしく、差し出された携帯の画面を覗き込めば、石を抱えた彼が笑顔で写っていた。スライドして他の写真も見せてもらったが、変な顔をしたり、今にも石を落としそうな格好をしたり、どれもお調子者な彼らしいものだった。
僕が呆れ半分でそれを見ていた時、突然彼が悲鳴に近い声を上げた。
「うわぁああっ?!!」
「わっ?!」
「きゃあっ!」
「何っ?!」
吃驚(びっくり)して僕達が顔を上げると、彼は塚の方へ向いて両腕で顔を守るようにしていたが、僕達が声をかける前にくるりと体ごと振り返った。ニッと笑って戻って来る。
「なーんてな! 嘘だよ、嘘! 冗談!」
笑う彼に女の子達が騒ぐ。
「信じらんない! 超ビビったじゃん!」
「本当に幽霊が出たかと思ったのに!」
「はは、ごめんごめん。ちょっと驚かし過ぎたか」
全く悪びれた様子のない彼に僕も脱力してしまう。
「僕も心臓止まるかと思った……」
「ごめんって。それより帰ろうぜ。どうせ何も起きないし、また歩いて戻るんだし、時間かかるだろ? 明日も朝一から講義あるから、そろそろ帰んないとオレ寝坊するかも」
携帯で時刻を確認すると午後の九時半近い。
彼の言う通り、歩いて戻ると十時過ぎになってしまうのでもう帰る頃合いだった。
まだ文句を零す女子達の背を押しつつ彼が歩き出す。
行きとは逆に僕が先頭で、女子二人、彼の順に並んで脇道を抜けた。
そこからは横一列に並んで石畳の敷かれた遊歩道を街へ下って行く。一度来た道を戻って来るのは早い。明日の大学の講義や、今度いつ遊ぶかといった他愛もない話をしていれば、あっという間に山を出た。
ずっと暗い森の中にいたからか、街の明かりを見るとホッとする。
電車を使うと言う女の子達を駅へ送り届け、そこで解散となった。
* * * * *
「それで僕は何ともなかったんですけど……」
昨日の出来事を話し終えて、チラリと横にいる彼へ視線を移す。
僕が話している間、彼は黙ったまま一言も声を発さず、神代先輩も口を挟まなかった。
彼が石を動かした件(くだり)では流石の神代先輩も呆れるかと思ったが、予想に反して眉一つ動かさなかった。その顔には表情らしい表情もなく、何を考えているのかさっぱり読み取れない。
「経緯は分かった。それで、何が起こった?」
神代先輩の問いに彼が話し出す。
最初に彼が口にしたのは昨日の塚でのことだ。
悪戯心で石を動かし、写真を撮った後、僕達がその写真を見ている間にそれは現れたそうだ。僕達の傍へ行こうとしたら服の背中部分が何かに引っ張られたような感覚がして、塚の方に振り向いたら長い黒髪を振り乱した怖ろしい形相の女が襲い掛かられた。それで悲鳴を上げたらしい。
しかし、どういう訳かその女の霊らしきものは一瞬で消えてしまった。
見間違いかと思って彼はその場を誤魔化した。
僕と同様に一人暮らしをしているアパートの部屋へ戻り、一人になって、やはり勘違いではなかったと彼は思い知らされた。講義後に言っていたこと――つまりラップ音や赤ん坊の泣き声、物が動くなど――が一晩中室内で起こっていて彼は恐怖のあまり一睡も出来なかった。眠気に負けてうとうとしようものなら音や泣き声が一層大きくなる。日が昇る直前には、それこそラジオを最大音量で聴いている時みたいになっていたのに、アパートの大家どころか隣近所の誰も文句を言って来ないのが余計怖ろしかったと言う。
神代先輩は顎に手を当てて「ふむ」と何事か考えている風に首を傾げた。
「君が夜泣き石で見た霊は女だけか? 赤ん坊は?」
「いえ、見てません……」
首を振った彼がまた左肩を擦るような仕草をする。
神代先輩は顎に添えていた手を外すと机の端に避けてあった自分のバッグに手を突っ込み、そこから小さな御守りを取り出した。白い布袋で作られた手の平に納まるくらいの大きさで、神社で売っているあの御守りだ。ただし神代先輩が持っているのは上の紐の部分がとても長くて輪になっている。
「これをしばらく首に提(さ)げておけ。それから行かないとは思うが、墓地や葬儀場といった場所も避けろ。そうすれば今起こっている現象は一週間もしないうちに治まるだろうさ。今回の相談料は五千円。無論、これの代金込みだ」
彼は財布から五千円札を一枚取り出して神代先輩に渡す。
代わりに受け取った御守りの紐に頭を通して首へかけた。
「……やっぱりあの霊が憑いてるんですか?」
塚でのことを思い出したのか、彼がぶるりと身を震わせる。
神代先輩は「それらしいものは今はいない」と言う。
「だが君には確かに霊がついている。それが夜泣き石に憑いていた霊なのか、そうでないのかは、実際‘視て’みなければ分からん。私は今からその塚まで行って調べて来る。君は明日、講義を終えたら部室(ここ)へ来たまえ」
バッグ片手に立ち上がった神代先輩に僕も席を立つ。
「僕も行きます!」
勢いが付き過ぎてパイプ椅子が倒れた。
慌てて椅子を立て直すと神代先輩がこちらを見ていた。
「何故君がついて来る?」
それは至極当然な問いだった。
当事者である彼ならともかく、偶然この件に関わっただけの僕が率先して行くなんて言われるまでもなく変だ。それでも僕はどうしてもついて行きたかった。
「き、気になるからです」
神代先輩のことが、と心の中で続ける。口には出せない。
断られるのを覚悟していたのだけれど、神代先輩はバッグを肩に掛けながら一度目を伏せて考えるような仕草を見せた後に「好きにしろ」と言って扉へ向かう。離れて行く背中を僕はまじまじと見てしまった。
それは、つまり、ついて行っても構わないということですか。
「はいっ、好きにします!」
ぽかんと口を半開きにして見上げてくる彼に「ごめん、また明日!」と告げ、既に部屋を出て行ってしまった神代先輩の後を追って僕も同好会の部室を出る。廊下へ出て、少し離れたところを歩く神代先輩の下まで駆け寄り、横には並ばずに二歩ほど後ろをついて行くことにした。
部室の集う建物から大学の敷地へ、大学の敷地から街中へと出る。
腕時計を見れば時刻は午後の五時半を少し過ぎた頃だった。
会社帰りの人や学校を終えて遊んでいる学生達で人通りの多い街中でも、不思議な存在感のある神代先輩のお陰で、擦れ違う人とぶつかりそうになりながらも僕は進む方向を見失わずに済んでいた。自分からついて来た手前、言うに言えなかったのだが、夜泣き石までの道のりが曖昧なので逸(はぐ)れでもしたら困る。いくら昨日行ったばかりでも、たった一回、それも夜の暗い中をお喋りをしつつ行ったから、目立つ店や大きな通りくらいしか覚えていないのだ。
大分日の傾いた空を見上げ、僕は「あ」と立ち止まった。
それが聞こえたのか神代先輩も足を止めて振り返る。
「どうした」
一応僕のことは同行者と思ってくれていたらしい。
僕はすぐ横のコンビニを指し示す。
「懐中電灯買ってきます。遊歩道、結構暗かったので」
昨日は携帯のライトだけでは心許(こころもと)なかった。
もう一度あそこへ行くなら懐中電灯は必須だろう。
神代先輩は納得した様子で「ああ、行って来い」と頷く。
許可をもらった僕は早足でコンビニに入り、棚に置かれていた懐中電灯を一本、予備に乾電池を一つ手に取った。同じ棚に線香とライターもあった。昼間の自分の発言を思い出し、そちらも買って行くことにした。意外と懐中電灯が高かったが仕方ない。コンビニのビニール袋を下げて店を出ると、車止め用のアーチ型をしたステンレスポールに座るように寄り掛かって神代先輩が待っていた。
「お待たせしました」
戻って来た僕を見て、車止めから腰を上げる。
何を言うでもなく歩き出した神代先輩の後ろを僕はまた追いかけた。
山へ近付くにつれて擦れ違う人の数が目に見えて減っていく。気付けば通りを歩いているのは僕と神代先輩の他に数人だけとなり、遊歩道に着く頃にはとうとう僕達のみとなった。空はオレンジ色に染まっていて、あと三十分もすれば夕日が沈んで夜が来るだろう。
遊歩道はまだ懐中電灯を使わなくても歩けそうだ。
木々の隙間から夕日が差し込むその石畳を進んで行く。
昨日と違い、道の真ん中を歩く。真っ暗な中ではあまり分からなかったけれど、遊歩道は小さな山の側面を緩やかに蛇行しながら上っている。歩くことに集中すると他にもいくつか気付いた。山の木々はほとんどが背の高い常緑樹なのに、道の周囲の木々だけは少しだけ背が低く、落葉樹が時折混じり、その低い背丈の木が道の上へ枝を伸ばしてアーチのように左右から覆って日差しを遮っていること。道から一歩森に入ると深い藪になっていること。遊歩道に敷かれている石が実は古いものらしいこと。
そうこうしているうちに脇道までやって来ていた。
丁度足元が見え難くなってきたので懐中電灯を点ければ、LEDの強い光がパッと道を明るく照らす。暗さに慣れ始めていた目には少し眩しかったが明かりがあるのは心強い。
僕が懐中電灯を点けたことで神代先輩も暗さに気付いたのか、バッグに手を入れた。かちり。軽い音がして神代先輩の手元から、僕の持つ懐中電灯よりかは小さいけれど、自分の足元を見るには充分な程度の光が伸びた。
明かりで足元を確認しつつ神代先輩が脇道へ入った。僕もそれに続く。脇道は昨日と同じく頭上も足元も枝や木の根が邪魔をして歩き難く、僕より小柄な神代先輩の方が頭上の枝をあまり気にしなくていい分、歩きやすそうだった。
短い脇道を抜けて小さい広場に出る。まだ日は落ちていないものの、木々に阻まれたその場所は一足先に夜が訪れているようにも思えた。懐中電灯の明かりに浮かぶ石塚は昨日と変わらない。
「これか」
神代先輩は昨日の僕と同様に塚をしげしげと眺めた。
手は触れずに一周見て回った後、塚の上の夜泣き石に顔を寄せる。
夜泣き石は彼が動かして適当に置き直したため、注連縄の位置がズレてしまっている。注連縄を確かめるように指先でなぞり、溜め息を一つ零した神代先輩が石を見たまま僕を手招いた。
「これを見ろ」
言われるがままに石を見た。縦長の、人の頭よりも一回り大きな石。でも昨日と違う場所があった。注連縄の下、生えていた苔が剥がれた石の表面に何か彫られているのが分かった。長年の風雨に晒されて消えかけているが、注意深く見れば、そこには達筆な字体で‘慰霊’と書かれていた。
その文字に僕は背筋が冷たくなった。これは本当に霊を慰めるための塚だったのだ。
「昨日、石を動かしたと言ったな。注連縄はどの方角に向いていた?」
僕は黙って脇道を指差した。神代先輩が石を掴んで動かす。
石と石が擦れる音で我に返って動かすのを手伝った。
昨日、彼が一人で持ち上げられたのが信じられないくらい重かった。
ずり、ざり、と石を動かしている最中(さいちゅう)、視界の端を何かが何度も横切って、どこからともなく赤ん坊の泣く声が微かに聞こえて来た。二度、ズボンの裾も引っ張られた気がした。僕は石を見つめたまま、無心で元の位置まで回す。神代先輩も声を発さない。
時間にすると恐らく五分も掛からなかっただろう。
初めて見た時と同じ、注連縄の正面が脇道に向いた状態に石が戻る。
パズルのピースが綺麗に収まった時のような感覚が手に伝わった。
それと同時に視界を横切っていた何かも、聞こえていた赤ん坊の泣き声も止んだ。石から手を離した途端、疲労感と共にどっと全身に冷や汗が出て、僕はその場に座り込んでしまった。
「い、今のが、噂の……?」
神代先輩は平然とした様子で佇んでいた。
「そう、ここに葬られた母子(ははこ)の霊だ。ただの噂なんかじゃあない。あれは私達が生まれるよりもずっと昔に実際起こった出来事で、これはその母子を憐れに思った人々が建てた墓さ」
僕は昨日彼から聞いた噂を思い出した。
――……昔、男の捨てられて行く宛てもない女が、その男との間に生まれた赤ん坊を石で殴り殺して自分もその石に頭を打ちつけて死んだらしい。
呆然とする僕を余所に、神代先輩は宙を見上げた。
石と、木々に遮られた空との、何もない空間に視線が向けられた。
「……ああ、なるほど。それは随分腹が立っただろうよ」
僕には見えない、しかし神代先輩には‘視えて’いる何かがそこにいるのか。
ほんの少し同情の滲んだ声は淡々としているのに優しげにも聞こえた。
「分かった、あれには灸を据えると約束しよう」
何かと話をしている神代先輩の姿はどこか怖ろしく、それでいてとても美しく、触れることを許さない気高さがあった。怖い。逃げ出したい。でも何故か離れたくないとも思う。神代先輩の視ている景色を僕も視てみたい。もっと近くに行きたい。その世界に僕も触れさせて欲しい。
がさりとビニール袋が擦れる音で我に返ると僕は立ち上がっていた。