十月の初め。日が落ちると漸(ようや)く秋めいた涼しさを感じるものの、昼間は未(いま)だ名残惜しげに夏の尾を引いている。今夜は少し冷えると聞いて羽織ってきた薄手のカーディガンの袖を軽く捲(ま)くる。
時刻は日付を跨いで土曜日の午前一時になるところである。
僕はふと真っ暗な車窓から視線を外して車内へ向けた。
左側には腕を組んだまま目を瞑って微動(びどう)だにしないのはいつき先輩。僕といつき先輩は車の後部座席に並んで座っている。運転席には尊(みこと)先輩。助手席には別の大学に通う富島(とみじま)という男性。富島さんと尊先輩は高校時代からの友人だが、いつき先輩との面識はほぼないらしい。言わずもがな、僕は今日が初対面の見知らぬ人だ。
この奇妙な組み合わせで集まったのには訳がある。
それは隣りの市にある地元ではそれなりに有名な岬(みさき)の話が発端だった。
変な言い方になるが、そこはオカルト同好会の先輩達が数ある県内の心霊スポットの中で最も新しい場所だと名前を挙げていたのを聞いた覚えがあった。
地元や噂を知る人々の間では‘身投げ岬’と呼ばれている。
投身自殺を行う者が後を断たないため、その名が付いたそうだ。
海に面した断崖の岬は昼間は見晴らしが良くてドライブに訪れる者もいる。
そんな岬は五年ほど前くらいから頻繁に自殺者が出ており、大抵の心霊スポットにくっついて話される噂も存在する。自殺者達の霊に誘われるから投身自殺が止まらないのだとか、見えない何かに崖下へ引き摺(ず)り落とされるだとか、写真に生きた人間とは思えないような青白い手が写り込むだとか、何番煎じかも分からないようなありきたりな内容ばかりであった。
講義を終えた僕に、その岬へ出掛けるのでついて来ないかと声を掛けたのは尊先輩だった。
何でも尊先輩の友人――これが富島さんだ――の知り合いが身投げ岬から落ちて亡くなったので現場を見に行くという話で、線香か花の一つでも手向けるつもりなのかと思いきや、どうにもそういう風ではない。
とりあえずいつき先輩も来ると聞いた僕は二つ返事で頷き、そうして一旦帰宅して仮眠を取った。午後十一時にアパートへ迎えが来て、夜の国道を岬へ向かい走り続けて今に至る。
簡単な自己紹介を済ませて以降、誰も一言も口を利かないので車内は静かだ。
一体何の目的で岬へ行くのか僕は気になっていた。
しかし言葉を発するのを躊躇(ためら)うほど沈んだ空気の中で、それを聞くのは勇気が要る。
二時間近い無言に耐え兼ねて口を開きかけた時、横に座るいつき先輩が目を開いた。
「それで、そろそろお話を聞かせていただけませんか?」
口振りからして、いつき先輩も詳細は知らないらしい。
富島さんは助手席でフロントガラスをジッと見つめたまま頷いた。
「ごめん。どう話そうか考えていたんだけど、上手く説明出来ないかもしれない。俺も何と言うか、信じられないし、訳が分からない話なんだけど――……」
そう前置きをしてから富島さんはポツポツと話を始めた。
亡くなった知り合いというのは彼の母方の従兄弟で、従兄弟は一人で廃墟や心霊スポットを巡るのが好きな人だったという。その日も、従兄弟は近くの心霊スポットに行くと富島さんに話していて、午後十一時頃に従兄弟から電話がかかって来た。心霊スポット先から電話を掛けて来るのも何時(いつ)ものことだったそうだ。最初は岬の様子や特に何も起こらないことなどを話していた従兄弟だったが、途中から雑音のようなものが混じり、声が聞こえ辛くなったと思った途端に電話越しに従兄弟の悲鳴が聞こえ、そしてすぐに通話が切れてしまったという。徒(ただ)ならぬ様子に慌てて岬へ行ってみたものの、あるのは従兄弟の車だけで、従兄弟自身は見付からず、従兄弟の家に連絡して警察にも通報した。翌日、警察が崖下を捜索すると手に携帯を握り締めた従兄弟の遺体が発見された。
「警察は転落事故だって言うけど、最後に聞いた心底怯えたあいつの‘離せ! 助けてくれ!’って叫び声が耳から離れないんだ。あれは絶対に事故なんかじゃない。何かがあいつを崖に落としたんだ」
怯えと、怒りと、遣り切れない悲しみとが綯(な)い交(ま)ぜになった声で富島さんが言う。
ふと富島さんが何かを両手で握り締めていることに気が付いた。
僕の視線を感じたのか、振り向いた富島さんが悲しげに握っていた物を見せてくれた。
「従兄弟の遺品だよ。俺が誕生日にあげたヤツ。これだけは崖の上の岬に落ちてたんだ」
手の平には丸い金縁の時計が乗っていた。手首に回すベルト部分は黒い革製だ。
まだ真新しいそれはシンプルだけどお洒落な腕時計だった。
「あの岬って色々と噂があるだろ? あいつの声も尋常じゃあなかったし、もしかしたら幽霊とかが関係してるかもしれないって思ってさ。尊の妹は‘視える’って高校でもわりと有名だったの思い出して、それで尊に相談したんだ」
「私が行っても何も分からないかもしれませんよ。それに、もし従兄弟の方が霊によって死んだとしても、その霊をどうにかすることは私には出来ないと思います」
「ああ、分かってる。あいつの死が本当に事故死なのか、それとも違うのか、俺は真相を知りたいんだ」
富島さんは手の中の腕時計を酷く大事そうに握り締めた。
亡くなった従兄弟というのは富島さんにとっては家族のような人だったのかもしれない。
ただの興味本位でついて来たことに僕は居心地の悪い気分になった。しかし今更帰りますとも言えないし、事情を聞いてしまった後では好奇心のままに首を突っ込もうなんて気持ちは欠片も湧かないしで、事情を知っていながら尊先輩はどうして無関係な僕に声をかけたのだろうと疑問に思ったがここで問うのは憚(はばか)られた。
そうして更に十五分ほど国道を走り、僕達は問題の身投げ岬へ到着した。
真夜中の岬は暗く、道路の白い照明灯(しょうめいとう)がカーブにある待避所に二つほど立っていた。
全員が無言で車外へ出る。外は肌寒かった。
カーディガンの裾を戻しながら改めて辺りを見渡した。
待避所はアスファルトだが、赤や黄色の丸い反射板のついた白いガードレルが待避所と岬とを分けており、ガードレールより先は雑草が生えた剥き出しの地面が六十センチくらい続いて、唐突に切れている。恐らくその先は崖なのだろう。ガードレール越しに覗いてみたが真っ暗だ。でもかなり下の方から波の音と共に、海独特の磯臭さが風に乗って鼻腔(びこう)を掠めていった。
富島さんも僕の横に立ってガードレールの先の崖を見つめていた。横顔は無表情だったが口元が真一文字に引き結ばれているので、従兄弟の最期について考えているのだと分かる。
尊先輩はガードレールの支柱の根元へ小さな花束を一つ置き、線香に火を点けるとその場にいた全員に均等に渡し、雑草が周囲にない土だけの場所を少しだけ掘り、その穴に煙の立つ線香を重ねて行く。
全員で手を合わせて富島さんの亡くなった従兄弟の冥福を祈った。
それが済むと、いつき先輩は待避所に沿って設けられたガードレールの奥を覗き込みながら、端から端へ向かって歩いて回る。途中、何度かフラッシュが焚(た)かれ、写真を撮ってるのだと気付く。一往復すると戻って来て、並んで立っていた僕達のことも二回撮った。フラッシュに眩んだ目を瞬かせて見たいつき先輩の手元には、最近めっきり見掛ける機会の減った使い捨てカメラが一台。
「……あのさ、ここって本当に幽霊いる?」
富島さんがぐるりと周囲を見渡していつき先輩に問う。
暗い待避所を照らす白い照明灯の明かりは頼りない。
崖の先から聞こえて来る波の音だけが不気味に闇に響く。
いつき先輩は道路にも向けていたカメラのシャッターを切った。
「ええ、いますよ。ガードレールの向こうに」
カシャリという音に重ねて返された言葉に富島さんの肩がビクリと跳ねる。
僕は恐る恐る背後のガードレールを振り返った。何も見えない。
「ああ、やっぱり何かいるんだ? 何かさっきから落ち着かないんだよね」
のんびりとした尊先輩の声に顔を戻す。
「あれ、尊先輩って‘視えない’んですよね?」
「うん、視えないし聞こえない。でも良くない場所は不思議と分かるんだ」
僕と尊先輩の会話に富島さんがジリジリと後退(あとずさ)りしながら車の方へ寄る。
それを見たいつき先輩が構えていたカメラを下して歩いて来る。
富島さんは若干青い顔で微かに震えていた。
幽霊が視えると有名な人に‘後ろに霊がいますよ’と言われたら当然の反応だった。その手の話題が駄目な人だったら、悲鳴を上げたり逃げ出したりするかもしれない。僕も一瞬ゾッとしたけれど、僕には幽霊が見えないし、オカルト同好会に入ったことで多少なりとも鍛えられたのか恐怖よりも好奇心の方が強かった。
横を通り過ぎざま、いつき先輩にカメラを押し付けられる。
これは預かっていろということだろうか?
いつき先輩はガードレールを乗り越えるとこちらに背を向けて立つ。
何かの拍子に転んだり体勢を崩したりしたらと思うと、カメラを持っていない方の手でいつき先輩の服の裾を咄嗟(とっさ)に掴んでしまっていた。それに気付いたいつき先輩はチラと振り返ったが闇へ顔を戻す。
そこにいるのだろう霊を視ているとは思うのだが、一言も喋らず、立ち位置の関係でいつき先輩の表情を窺うことも出来ないため、その背中が崖下に落ちてしまわないかと僕は冷や冷やしながら黙って待った。
数分闇を見遣っていたいつき先輩が不意に足元を見下ろした。
ショルダーバッグから取り出した小さな懐中電灯で地面を照らす。
暗くて気が付かなかったが、剥き出しの土には人の足跡と何かが引き摺られたような跡があった。足跡はガードレールの傍にあり、何かが引き摺られた跡をいつき先輩が懐中電灯の光で辿れば、予想した通り崖の先へ向かって伸びている。
「富島さん、こちらへ来てください」
呼ばれた富島さんが青い顔でのろのろとガードレールに寄る。
いつき先輩は懐中電灯の光で足元の足跡と何かが引き摺られたような跡を示した。
「恐らく、これを残したのは貴方の従兄弟です」
明かりの下の跡を見た富島さんの顔がくしゃりと歪む。
「事故じゃ、ない……?」
「はい。ここの噂は真実だったようです。これは私の推測になりますが、このガードレールは‘境界’に近い役割を果たしているのでしょう。見た所、霊はガードレールを越えては来ません。従兄弟の方は何のためかガードレールを越えてこちらに出てしまい、運悪く引き摺り込まれたのかと」
「霊を……ここにいる霊を祓うことは?」
「それは難しいです。数も然(さ)ることながら殆(ほとん)どが自縛霊としてこの場所に強い未練や執着を持っているので、例え今いる霊を祓えたとしても、今後も自殺者が出続ければ何(いず)れは元に戻ってしまいます」
言いながら、いつき先輩がガードレールを越えて戻って来る。
僕はそれにホッと胸を撫で下ろしてカメラを返した。
「……そっか」
ぽつりと呟いた富島さんが顔を俯(うつむ)ける。
ガードレールの向こうにある地面を見ているのだろう。
震える手で従兄弟の形見だという腕時計を握り締めていた。
「自縛霊ってやつは殺したいくらい憎いけど、でも、あいつがどうして死んだのか分かって良かった。……せめて俺だけでも本当のことを知っていてやりたかったんだ。そうじゃなきゃ、あいつも浮かばれないだろ」
今にも途切れてしまいそうなほどか細い息を吐き、富島さんが顔を上げる。
「付き合ってくれてありがとう」
泣き笑いを浮かべた富島さんは囁(ささや)くような声で僕達に頭を下げた。
帰りの車内もやはり御通夜みたいにシンと静まり返っていた。
アパートまで送ってもらい、走り去る車を僕は遣り切れない気持ちで見送る。
せめて、富島さんが少しでも救われる何かがあれば良いのにと願わずにはいられなかった。
* * * * *
「この間の写真が返って来たぞ」
あれから数日後、オカルト同好会の部室で僕はいつき先輩にそう声を掛けられた。
挨拶をしないなんて珍しい。というよりも、初めてかもしれない。
特に接点のない部員でも、部室に来ると一言挨拶の言葉を口にするいつき先輩らしからぬ様子に内心で首を傾げながら差し出された白い封筒を受け取った。あまり厚みのない封筒を開けて、中身を手の平に出す。
「あ、これってあの岬の……?」
暗闇にぼんやり写る白いガードレールは身投げ岬のものだった。
あの時に撮った写真は使い捨てカメラだったので現像に数日掛かったのだろう。
一枚ずつ見るが、どれも暗く、景色なんてあってないような写真ばかりである。
何故こんな写真を撮ったのか疑問に思いながら捲くる。
やがて、一枚の写真で手が止まった。
その写真だけは他と違い、写ってはいけないものが写り込んでいた。
白いガードレールを背に左側から富島さんと尊先輩、僕の順で三人が佇んでいる写真。本来は暗闇が広がっているはずの背後は夥(おびただ)しい数の人間の腕で埋め尽くされており、どれも青白く血の気の失せたそれがまるで千手観音のようにカメラへ向かって手を伸ばしている。
いや、位置的に僕達の体を捕まえようとしたのかもしれない。
あんまりにも鮮明な心霊写真に僕はつい眉を顰(しか)めてしまう。
生理的な嫌悪感とも本能的な恐怖感ともつかないものが背中をぞわりと這(は)って、鳥肌が立つ。
「うわあ、こんなにいたんですか」
少なく見積もっても十人以上の人間の腕があるのは確かだ。
しかも腕はよく見比べれば、それぞれ太さや長さなどが異なっている。千手観音は大体どの腕も同じ長さと太さで揃って美しいと思うのに、この写真に写る腕は全てバラバラでより一層不気味さが増して見える。
あの暗闇の中、これだけの腕と対峙して平然としていられるいつき先輩の胆力(たんりょく)も凄い。
もしも僕に見えていたとしたら、きっと腰を抜かすか情けなく悲鳴を上げたと思う。
「この腕って全部あの岬で亡くなった人のものなんですよね?」
写真から顔を上げて問うと、いつき先輩は緩く首を傾げた。
「さあな。そうかもしれないし、違うかもしれない」
「あそこにいるのに?」
「近くで死んだ者の霊が、岬に留まる霊達に引き寄せられて集まっている可能性もある」
いつき先輩の言葉になるほどと得心した。
「ところでこの写真、富島さんに見せるんですか?」
手の中の写真の束を軽く持ち上げて示す。
これを見れば霊のことは絶対に信じるはずだ。
昨日の時点で富島さんがいつき先輩の話を信じているのは分かっていたが、幽霊の存在が目に見える形であった方が信憑性も増す上に、今後不用意に彼があの岬に近付くこともなくなるんじゃあなかろうか。
「ああ、それでも多少の慰めにはなるだろうよ」
「慰め?」
こんな心霊写真のどこが慰めになるのだろうか?
聞き返すと、いつき先輩がやや呆れた顔をして自身の右肩を指差す。
「富島さんの右肩の辺りをよく見ろ」
言われて、写真をもう一度見下ろす。
一番左側に立つ富島さんの右肩付近にある腕は他と違う。肩を掴むために伸ばされた腕の手首を、別の腕がしっかりと握り、少しでも富島さんから引き離そうとしている風にも見える。
先ほどまで薄気味悪いと思っていた写真にまじまじと顔を近付けてその腕を観察した。
腕の太さは僕と同じくらいか、多分男性のものだ。手首には腕時計。腕時計は黒い革製のベルトで、目を凝らせば丸い文字盤が金縁なのも何とか分かった。どこかで見た覚えがあった。
「……あ!」
まだ新しい記憶の中に残っていた腕時計と同じものだった。
「この腕時計、富島さんの亡くなった従兄弟の形見と同じですよ!?」
僕が興奮して写真を指差せば「やっと気付いたか」と溜め息混じりに返される。
それでも構わずに写真を見直す。
うん、やっぱりあの腕時計だ。間違いない。
「きっと自分と同じ目に遭わせたくなかったのさ」
それが誰のことかは聞くまでもなかった。
嬉しいような、悲しいような、言葉にならないもどかしい気持ちで胸が締め付けられた。
死んだ従兄弟を大切に思う富島さんと、そんな富島さんを死んでも大切に思う従兄弟。こんなにもお互いを思っているのに、二人はもう二度と笑い合うことも言葉を交わすことも出来ないのだ。
大事な人と死別するなんて想像もつかないけれど、少しだけ羨(うらや)ましい。
ふと視線が合ったいつき先輩の黒い瞳に宿る感情の名を、その時の僕はまだ知らずにいた。