腕時計を見ると時刻は午後七時五十分だ。
生い茂る草のせいか、外を回るだけでも予想以上に時間が掛かった。
けれども本番はこれからだと僕達は玄関へ向かう。
家の向かって左側、トタン板が張り出したその下に玄関があり、扉は昔ながらの曇り硝子(がらす)が入った二枚組みの引き戸だった。足元に敷かれたタイルは欠けて皹(ひび)割れていたが草の進入はまだない。
羽柴先輩が引き戸を横へ動かそうとすると小さくガシャンと音が鳴った。
「あれ、この前来た時は開いてたのに……」
ほんの少ししか動かない引き戸を羽柴先輩が見上げる。
「アンタが聞いて回った後に誰かが閉めたのかもね」
羽柴先輩の彼女の言うことは尤(もっと)もだった。話し振りから察するに、既に下見で一度入ったはずだ。あれこれ聞いて回ったり勝手に立ち入ったりする者がいることを、家の鍵を保管している誰かが知れば当然様子を見に来た後に窓や玄関を施錠して行くだろう。
「割れた窓もありませんし、どうします? 裏口っぽいところも鍵掛かってましたよ?」
二年の先輩が玄関横の窓を懐中電灯で照らしながら覗いてみる。
薄汚れた硝子越しにカーテンのような物が見えたけれど、それ以上は暗くて判別出来ない。窓と玄関の距離は一メートル半といった具合だが、伸び放題の雑草を掻き分けて行くのは難儀(なんぎ)しそうだ。辿り着いたとしても鍵が開いてるとは到底思えない。
「羽柴さん、ちょっと扉を見せてください」
それまで静観していたいつき先輩が口を開いた。
声を掛けられた羽柴先輩は横に退いて場所を譲り、いつき先輩は引き戸へ近付くと、引き戸と壁との隙間を懐中電灯で照らしながら覗き、次に引き戸同士が重なる中央部分の鍵、最後に上下のレール部分を見る。
手を触れないまま尊先輩に振り返って一言「あれで開くんじゃないか?」と問う。
尊先輩も何か気付いたのか「ああ、あれか」なんて返事をする。
僕を含む他の人々には全く分からないが二人には相通(あいつう)ずるものがあるらしい。
下がるいつき先輩の代わりに、今度は尊先輩が引き戸の前に立ち、両方の扉の格子を掴んで揺らす。外側と内側とに小刻みに動かしているようだ。静かな山の中でその音は一分以上響いた。
唐突にカチャンと何かが落ちる音がした。引き戸がガラリと開く。
「おお、みこっちゃんすげえ。今のどうやって開けたんだ?」
開いた引き戸の内側を興奮した様子で羽柴先輩が覗き込んだ。
羽柴先輩の彼女と二年の先輩も同じように中へ入って鍵を見た。
「掛かっていたのは中央の鍵だったので外しました。この手のものは内側から留め具を差し込むだけですから、その留め具さえ落とせば開きます」
「昔は家(うち)もこれ使ってたんで、ちょっとした裏技ですよ。コツが要りますけど」
小刻みに動かしていたのは鍵の留め具を落とすためだったのか。
屋内へ入るついでに引き戸の内側を見れば、鍵部分に長方形の細い棒がぶら下がっている。多分これが留め具なのだろう。引き戸を閉めた状態で中央の鍵部分にある穴へ留め具を差し込むと棒で左右の戸が固定される単純な作りだ。
「お邪魔しまーす」
律儀に羽柴先輩の彼女が小さく一声掛ける。
床や玄関横の棚などは白く埃を被っていて、靴を脱いで歩いたら、あっという間に足の裏が汚れてしまうだろう。靴に付いた土を軽く払ってから土足で上がることにした。
狭い廊下は左手に扉があり、開けると広い居間に繋がっていた。
正面に窓、左側に四角く厚みのある古い大きなテレビとそれを見る時に使っていたのか長座布団がL字に置かれている。玄関横の窓はどうやら左側の壁のものらしい。右側には正方形の座卓と座布団が床に三枚、壁際に食器棚、更に奥は台所らしく冷蔵庫も見えた。入り口のすぐ右には電話機の乗った小さな棚もある。
荒らされた様子はないものの、床には僕達以外の誰かの足跡が幾(いく)つも残っていた。
室内は人の生活痕だらけだった。長座布団の傍には毛布が適当に丸めてあったし、座卓の上には中身は空だけど硝子コップが座布団のある位置に一つ置かれていたし、食器棚の硝子戸の中も茶碗やら皿やらコップやらが仕舞ってあった。埃がなければ、まだ人が暮らしていると言われても納得するくらい生活感が漂う。
「そっちに二部屋、奥に一部屋、んで反対側が風呂場とかトイレな」
羽柴先輩の大雑把な説明を受けつつ、玄関に近い方から一箇所ずつ見て回る。
まずは和室だ。四畳半の中央に丸い小さな卓袱台(ちゃぶだい)と座布団が一枚、右側の壁に仏壇と椅子付きの化粧台、左側の壁に木製の古い箪笥が二つ並んでいる。折り畳まれた敷布団と掛け布団、枕が部屋の片隅に重ねられていた。
「化粧台があるから女性が使ってたのかな?」
尊先輩が化粧台を覗き込み、閉じてある鏡を開けた。三面鏡だ。僕も尊先輩の横から鏡を覗くと、僕達の背後をスッと人影らしきものが通り過ぎたのが鏡越しに見えた。慌てて振り返ったが箪笥や布団の方には誰もいない。他の人達も既に隣の部屋へ行こうとしているところだった。
「今の見た?」
尊先輩の問いに僕は大きく頷いた。
「見ました。人影が通りましたよね?」
「うん。あれが孤独死したおばあさんなのかなあ」
「……尊先輩は‘視る’ことは出来ないんですか?」
「そうだよ。いつきと違って、残念ながら俺は全然‘視えない’し、欠片も感じないんだ」
軽く肩を竦めて苦笑し、尊先輩が和室を出る。
兄妹でも体質が似るとは限らないんだな。
僕も和室を出ると、いつき先輩が隣の部屋の入り口に腕を組んで寄り掛かっていた。目が合うと視線だけで室内を示す。他の三人は中にいるようだ。
「あ、返すの忘れてました」
いつき先輩を見て自分の手にある懐中電灯の存在に気付く。
玄関の鍵を開ける際に手渡されたまま、ずっと僕が持っていたのだ。暗い中、不便な思いをさせてしまったかもしれない。
しかし、差し出したそれをいつき先輩は受け取らなかった。
「いや、見て回るなら君の方が必要だろう。私は精々ついて行くだけだ。用があれば言うから、それまで君が持っていろ」
そう言われて、僕はありがたく使わせてもらうことにした。
いつき先輩は本当に見て回る気がないのか、部屋を出て来た三人が奥へ向かうのに合わせて壁から背中を離し、その一歩後ろをついて行く。明かりがないのによく躓(つまづ)かないものだ。
僕と尊先輩とで三人が出て来た部屋を覗くと洋室だった。正面に窓があり、右側の壁に椅子と机、ベッドがあって、左側に和室のものと同じ木製の古い箪笥が同じく二つ並んで置かれていた。
プルルル、と電話の呼び出し音が聞こえて来る。
二人して自分の携帯を確認して顔を見合わせた。
どちらの携帯にも着信履歴はない。
また、プルルルと音がして心臓が止まるかと思った。音の発信源は携帯ではなく僕の背後からだ。確か、僕の後ろにはこの家の電話機がある。羽柴先輩の、電気が通っていないのに電話が鳴るという言葉が頭を過ぎった。呼び出し音は鳴り続けている。
僕は振り返り、数歩先にある電話機の受話器を持ち上げ、耳に当てた。
雑音が酷い。テレビの砂嵐みたいな音がする。
【――、――】
一瞬、人の声のようなものが聞こえた気がした。
恐らく男性だろう、低くて聞き取り難い声だ。
よくよく耳を澄ませれば、一つの単語を繰り返している。
「……とおく?」
単語を口に出すと雑音も声も消えた。
暫(しば)らく待ってみても、もう何も聞こえてこない。
受話器を戻して顔を上げると尊先輩が傍に立っていた。
「遠くがどうかしたの?」
問われて、僕は首を傾げた。
「分かりません。雑音で‘とおく’としか聞こえなかったです」
「どういう意味だろうね」
二人で首を傾げたが、考えてもどうしようもない。
尊先輩もそう思ったらしく傾げていた首を戻した。
「それにしても、電話を取るなんて陽介君は度胸あるなあ」
「でも電話が鳴った時は心臓止まるかと思いました」
「あはは、そうは見えなかったよ」
受話器を取った右手が埃まみれになっていることに気付き、叩いて払う。
とりあえず四人がいるであろう奥へ尊先輩と共に向かった。
律儀に閉めてある扉を開ければ目の前の壁にいつき先輩が寄り掛かっていた。
左の部屋は洗面所だ。洗濯機も洗濯カゴも残され、カゴには衣類らしきものが雑多に丸め込まれたままだ。右では羽柴先輩と彼女、二年の先輩の三人が辺りを懐中電灯で照らして見ている。いくら扉が開いていると言えども、暗い廊下に明かりも持たずに一人でいて怖くないのだろうか。
「羽柴さんが言っていた通り、さっき電話が鳴ったよ」
尊先輩の囁きに、いつき先輩が眉を顰(ひそ)めた。
「私は何も聞こえなかったぞ」
「扉が閉まってたからじゃないかな?」
「そうだとしても、これだけ静かなら多少なりとも聞こえるはずだが……」
訝(いぶか)しげな表情をしたので僕も言葉を重ねる。
「本当ですよ。電話を取ってみたんですけど、雑音が酷くて上手く聞き取れなくて、何とか‘とおく’って言ってるのは分かりました」
僕の横で尊先輩が「陽介君、凄いよね」と言う。
いつき先輩が呆れた顔をした。
「電話を取ったのか?」
しかしすぐに、得心の行った風に無表情に戻る。
「そうか、君は問題ないのか」
「うん? どういうこと?」
「宿木だ。聞いたことあるだろう」
「ああ、なるほど、そういうことか」
玄関の時と同様に二人が何か理解し合って話をするので僕はまた除け者にされた気分だ。
このままだと説明されなさそうだったため、問い掛ける。
「どういうことですか? 電話を取ったの、もしかして不味かったりします?」
呼び出し音が続いて怖かったし、取るとどうなるのか気になったし、あのまま放っておいても戻って来た誰かが気付いてどちらにしろ電話を取ることになっただろうけど、無視すべきだったのか。
いつき先輩が緩く首を振る。
「いや、大丈夫だろう。以前言ったが君は霊障を受けない。他の人間なら別でも、君であれば特に問題は起こらないさ」
「……他の人だったら?」
「さてな。霊に憑かれるか、恐怖のあまり精神的に弱るか、まあ稀(まれ)に何ともない者もいるが、普通の人間にとって良いことはないな」
それを聞いて、僕は安堵(あんど)した。
もしも羽柴先輩達が電話を取って何かあるよりも、僕がちょっと怖い思いをする方がマシだ。
先輩達ほどオカルトや怖い話が好きな人なら恐怖より好奇心の方が勝りそうだが、やっぱり何もないのが一番良い。電話のことを話したら羽柴先輩はその場にいなかったことを悔しがるかもしれないけれど。
「じゃあ僕が取って正解でしたね。他の人に何かあっても嫌ですし」
「それはそうだが、考えなしに行動するな。何事にも例外はある。霊障は受けずとも、霊の起こした事故や異常な状況に巻き込まれたりしたら、君だって怪我を負うかもしれないぞ」
僕が「はい、気を付けます」と返事をすれば「何が?」と声が聞こえて来た。
顔を向けてみると羽柴先輩が右側の部屋の出入り口から顔を覗かせていた。
「いえ、何でもありません。何か面白いものは見付かりましたか?」
いつき先輩がするりと話題を変える。
羽柴先輩は問い掛けられてニッと口角を引き上げて笑った。
「面白いっつーより、うわーって感じのは見付けた」
擬音語の表現にいつき先輩も尊先輩も、そうして僕も首を傾げた。
手招きされて奥の部屋に入る。六畳の洋室だが六人も入るとやや狭い。
右手に本棚と机、椅子、角にベッド、左手に姿見が立てられていて、左手はクローゼットがあるらしい。位置からして、いつき先輩が寄り掛かっていた壁の向こう側がクローゼットだろう。
あまり物が少なく、ベッドには布団と枕が残っている。
「ほら、ここ見てみ」
羽柴先輩がベッドの布団をそっと捲(めく)って中を見せた。
「うわっ」
「うわあ」
僕と尊先輩は揃って声を上げてしまう。いつき先輩は無言で一歩引く。
捲った布団の下には人の形の茶色い染みが広がっていた。枕も真ん中辺りが薄っすら汚れている部分がある。布団の下の染みと同系統っぽい汚れだ。そして何かが饐(す)えたような臭いもする。
思わず後退(あとずさ)った僕達に羽柴先輩が小さく笑って布団を元に戻した。
「どう?」
「どうって、どう見ても人が寝ていた跡ですよね?」
「ばあさん、このベッドで発見されたからな」
確かに二重の意味で声を上げたくなる代物(しろもの)だった。
つまりこのベッドで老婆が孤独死した上に、白骨化するまでに腐敗して滲んだり漏れたりした体液やその他の口に出すのも憚(はばか)られる諸々(もろもろ)のもので染みは出来ているのだ。
そこまで考えて黙って鼻を摘まむ。饐えた臭いも恐らくは……。
羽柴先輩の彼女は「これはエグい」と出入り口の方に下がっていた。
その気持ちは凄く分かる。人の形というのが余計に薄気味悪い。
「そういえば、写真撮るの忘れてました」
ふと二年の先輩がデジタルカメラを構えて室内を撮って回る。
ベッドとその染みも若干嫌そうな顔をしつつもカメラを向けた。
フラッシュの眩しさに僕は目を細めて、二年の先輩の背中を見ていた。
「おおっ?」
突然、羽柴先輩が驚いた声を上げたので全員が振り向いた。
「どうかした?」
「今、あそこに誰か立ってた! 俺くらいの大きさの黒い影!」
彼女の問いに、羽柴先輩が部屋の入り口を指差した。
六人全員が室内にいるから誰かが悪戯するのは無理だ。
全員で顔を見合わせる。
出入り口に一番近い場所にいた、いつき先輩が廊下を覗く。
「人の姿はありませんね」
羽柴先輩は「きっと霊だ!」と興奮冷めやらぬ様子で言う。
先ほど和室で背後を通り過ぎた影や鳴り出した電話を考えれば可能性は高い。