六畳の長方形をした室内にクローゼットとチェスト、パソコンデスクとその横に並んで置かれた低い収納棚の上には薄型テレビが一台、折り畳み式のビーンズテーブル、ベッドがある。玄関側の方に擦り硝子の扉を挟んでキッチンと洗濯機。その向かいに浴槽、洗面台、トイレが詰め込まれた三点ユニットバス。ベランダ付き。
入居してまだ二ヶ月そこそこしか経っていないアパートの僕の部屋だ。
部屋は暗く、街灯の光でカーテンに窓が四角く浮き上がっていた。
僕は買ったばかりの真新しいパイプベッドに眠っている。
正確に言うと‘体’はそこにあったが、僕の意識は体から離れて、自分自身や部屋全体を斜め上から俯瞰(ふかん)している。天井の角にカメラを取り付けたらそう見えるであろう景色だ。
漸(ようや)く慣れた部屋の中に一箇所だけ普段と違う点があることに気が付いた。
ベッドの枕元、僕の頭からほんの三十センチも満たない場所に男性が立っている。
丈が長い上に若干大きいのか着ているスーツの上着はむしろコートに近く、同じ無地の濃灰色(のうかいしょく)のズボンも何だか似たり寄ったりで、白いシャツと靴下、袖から覗く両手などの肌部分が妙に際立って見える。短い髪は後ろへ撫で付けているものの、前髪の数本が纏まり切らずに額へ掛かっていた。身長は僕よりも低い。小柄な印象を受けた。スーツ姿だけど鞄も何も持っていない。
そんな男性が眠る僕の傍に身動ぎ一つせずに佇んでいる。
異様な光景だ。そもそも一人暮らしの部屋に見知らぬ男性がいること自体おかしい。
男性はまるで泣いているかのように両手で顔を覆っていて表情は窺えない。
壁の丸い掛け時計は午前二時四十二分を示していた。
* * * * *
「そこで目が覚めるんです。見回しても誰もいないんですけどね」
ぐだっと机に伏せて僕は溜め息を零す。
六月。梅雨の真っ只中だ。窓の外は暗く、しとしとと雨が降っている。
オカルト同好会の部室には僕と神代先輩の二人だけしかいない。他の先輩達は‘地元民の間で有名な自殺の名所巡り’なる小規模な旅行に出ていた。前以って調べておいた、地元民なら知っている県内の自殺者が多い場所を金曜日の夜――つまり今日――から日曜の午後までという二泊三日のうちに出来るだけ多く回って来るという内容である。オカルト好きな人々らしい大変不謹慎な旅だ。
一年生の何人かは講義の関係で不参加。僕もその一人だった。
神代先輩は「雨が降るから」という理由で断ったそうだ。
これが先輩達の間でこっそり凄いと話題になったことを多分本人は知らないだろう。
旅行の企画が出たのは五月の半ばで、まだ梅雨前だったのだが、その時点で神代先輩は上記の理由で行かないと言ったらしい。先輩達は梅雨入りする前に行く予定だったので天気もこまめに確認した上で、晴れ続きと予報の出ていたこの三日間に旅行を組んだ。結果は見ての通りの雨だ。天気がズレ込んだのだ。
先輩達はさぞがっかりするだろうと思っていたら、神代先輩の予言が当たったと逆に大喜びのメッセージをLINEに残して意気揚々と出掛けて行った。雨程度では先輩達の好奇心は止められないようだ。
不参加だった同じ一年は雨もあり、さっさと帰ってしまった。
ちなみに前回の彼はあの翌日にオカルト同好会を辞めて別のサークルに移ったそうだ。僕が連絡をしても返事はなく、見掛けても気まずげな顔で逃げられてしまい、疎遠状態だ。一緒にいると彼の心霊現象が酷くなるので、どちらにせよ僕は自分から声をかけるつもりもない。彼が辞めたと聞いても神代先輩は特にこれといった反応は見せず、ただ一言「だろうな」と言ったので、もしかしたら彼の行動は予想済みだったのかもしれない。
本棚の前のパイプ椅子に座って膝の上で本を広げている神代先輩は手元を見たまま言う。
「それは愚痴か? それとも私への相談(いらい)か?」
私物なのか、文庫本にはペーパーブックカバーが掛けられている。カバーは初めて神代先輩を見掛けた時に持っていた本のものと瓜二つなので同じ書店で買ったことが窺えた。ただし今日読んでいる方が厚く、神代先輩は既に三分の二ほどまで読み進めていた。記憶が正しければ、一昨日(おととい)は部室の片隅に追いやられた一抱えもあるオカルト雑誌の山を下から順に読んでいたはずだが、あれは読み終えたのだろうか。
些細な疑問をこっそり考えながら僕は答えた。
「愚痴です」
依頼だと最低でも五千円は支払うことになる。
出せない額ではないが、払うに値(あたい)するほど困っている訳でもない。
夢の中だからということもあるかもしれないけれど、見知らぬ男性が部屋にいるという状態は怖くも何ともないのだ。朝起きて物が動いてるとか、男性が立ってた場所が濡れていたとか、怪奇現象もない。
「あ、いえ、愚痴でもないです。何だろう。世間話? ただ三日も連続で同じ夢を見たのと、段々枕元に立ってる人の顔が近付いてるのがちょっと気になるっていうか――……」
「顔が近付いてる?」
本を読んでいた神代先輩が顔を上げた。
僕の話に興味が湧いたのか神代先輩は手元の本を閉じる。
それを見て、僕も机から体を起こす。
「ええ、最初は真っ直ぐ立ってたのが、二日目にはこう、ちょっと軽い会釈を途中で止めたみたいになって、三日目の昨日は眠っている僕の顔を覗き込む感じでした。何でか目が覚めてから‘ああ昨日と違うな’って気付くんです。まあ、よくある夢の話ですよ」
椅子に座ったまま、真っ直ぐに背筋を伸ばし、少しだけ前へ上半身を傾け、そこから更に傾ける。神代先輩の方からだと完全に僕はお辞儀をしている風に見えるだろう。
それでも怖くないのは、その男性の小柄さと、泣いているような格好のせいかもしれない。
傾けていた体を戻せば神代先輩が僕の左斜め後ろへ視線を動かす。
「それはただの夢じゃあない。恐らく霊が見せているんだ。事実、その男は数日前から君に憑いている」
「……え?」
思わず神代先輩の視線を辿って左後ろを振り返る。
幽霊の代わりに、どこぞの祈祷師が死に際までつけていた霊力が宿っているお面と目が合った。無機物なので本当に目が合った訳ではないが、そんなような気がして僕はそろそろと顔を正面へ戻した。
「憑いてるなら憑いてるって言ってくださいよ」
「見えないのに言って何になる。認識出来なければいないのと同じだ。そもそも日替わり定食みたいに毎日違う霊が憑いているのに、いちいち説明なんてしていられるか。君だって顔を合わせる度に‘今日はどういう霊がいるな’なんて言われたくないだろう?」
「日替わり定食って……」
神代先輩に会う度に今憑いている霊の説明をされる場面を想像してみた。
確かに僕としても落ち着かないし、言う側の神代先輩も面倒臭いだろうな。
それにしたってもっと別のものに例えて欲しい。分かりやすいけど、これから先、どこかのお店に入って日替わり定食の文字を見る度に思い出してしまいそうだ。
僕は軽く首を振って頭の中から日替わり定食を追い出した。
「でも幽霊が夢に出るなんて本当にあるんですか? 金縛りじゃなくて?」
微妙に逸れた話を軌道修正する。
「睡眠中の生き物は無防備だ。起きている間は大なり小なり張っている気も眠れば緩む。そこを狙えば簡単に悪夢を見せたり、意識に介入して夢に出て来たり、取り憑いたり出来る。金縛りも部類的にはそうだが睡眠障害で起こる場合も多いのでな、霊のせいかは本人が眠っているところを見ない限り何とも言えん」
「じゃあ御先祖様や親が夢に出て来て何かを教えてくれた〜っていうのも本当なんですかね」
「さあな。しかし夢に出て来るということは何かしら理由があるんだろうよ」
チラリと神代先輩の視線がまた僕の左斜め後ろを見た。
どうせ振り返ってもあのお面と顔を合わせるだけなので、僕は見ないことにした。
「そうだ! 神代先輩には視えてるんですし、直接聞けばいいんだ」
こんな簡単なことに何で今まで気付かなかったのか。
ぽんと手を打つ僕に神代先輩が首を振る。
「無理だな」
提案は即座に一刀両断された。取り付く島もない。
「ええ? やっぱり依頼しないと仲介してもらえないとか?」
「違う。その霊には答えるための口が、もっと言えば顔がない。頭部はあっても‘顔’と呼ぶべき場所が潰れてしまっている。故意によるものか、それとも事故か――……ああ、事故らしい。問い掛けに頷くか首を振るかくらいは出来るようだ」
顔が潰れてる。僕は結局、また振り返ってしまった。
見えなくても、そこにいるのだろうと思うと夢に見た男性の姿が脳裏に浮かぶ。
両手で顔を覆っていたのは潰れた顔を見られたくなかったのか。
だけど神代先輩には顔が潰れているのが視えているということは、今は隠していないのだろう。もしかして僕に顔を見せないよう、枕元に立つ時にだけ両手で顔を隠していたのだろうか。
「物は動かせないんですか? ペンで文字を書くのは?」
振り向いたまま、男性に話しかけるつもりで聞く。
「それも無理だろう。大分弱っていて、君に憑いて何とか現世に留まっているに過ぎない。物を動かすなんて不可能だ。そんな状態で三日も他人の夢に干渉するとは恐れ入るよ」
後半は感心した様子で神代先輩は言った。
僕はその言葉を聞いて、上手く表現出来ないけれど、何とかしたいと思った。相手はどこの誰かも知らない幽霊だし、姿も見えないから放っておくという選択肢もある。きっと普通ならそうするだろう。
でも僕は夢の中とは言えども男性の姿を見てしまった。スーツ姿の小柄な男性で、恐らく僕に何かを訴えようとしたのだが顔が潰れて喋ることも出来なくて、両手で顔を隠して静かに枕元に立っていた寂しげな背中が頭から離れなかった。顔が見えずとも、雰囲気から歳は僕の父とそう変わらないような感じだった。
「……僕にも視えたらいいのに……」
そうすれば、もっと何か出来るかもしれない。
左斜め後ろを向いたままの僕に、神代先輩が溜め息を零す。
「必要経費を出すなら協力してやろう」
僕は驚いて顔を正面へ向けた。
「本当ですか?」
必要経費分を僕が出したとしても、依頼料がなければ労力を使うばかりで神代先輩に差し引き後の利益はない。前に‘金額をまけることも、タダにすることもしない’と言われていたので意外だった。
神代先輩は顔を横へ向けて雨が降る窓の外を見ていた。
「無意味な嘘は吐かん。ここまで首を突っ込んでおいて止めるというのも、小骨が喉につかえたみたいで落ち着かないしな。君に霊の存在を教えてしまった責任も多少は感じている」
神代先輩にどのような心境の変化があったにせよ、渡りに船と僕は頷いた。
「出します」
「そうか。前回同様、経費は解決後に請求する。構わないか?」
「はい、それでお願いします」
「商談成立だな。……では少し待て」
顔をこちらへ戻した神代先輩はずっと持っていた本をバッグへ仕舞う。
代わりに無地のメモ帳と多機能ボールペンを出して机に置く。表紙を捲り、そこに黒のボールペンで何かを書き始める。僕の左斜め後ろへ視線を向けては書く。その動作を何度か繰り返した後、メモ帳が差し出された。
そこには僕に憑いているという霊の特徴が書かれていた。
性別は男、身長約百六十センチ半ばから後半、中年、細身、後ろへ撫で付けた黒い短髪、濃灰色のスーツ、事故で潰れた顔、白いワイシャツ、紺色のネクタイ、焦げ茶色の革靴。会話は不可、氏名住所不明。僕が夢で見た姿のまま神代先輩にも視えているようだ。
「夢で見たまんまです」
「よし。では霊に幾(いく)つか質問をする。私が言った内容を書き出してくれ」
「分かりました」
多機能ボールペンも渡されてメモを取る体勢になった。
神代先輩の視線が僕の左斜め後ろへ焦点を合わせる。
空気がピンと張り詰め、全身の神経が僅かに強張るのを感じた。
「貴方に質問をするが、肯定なら頷き、否定なら首を横に振り、分からなければ動かなくていい。数を答える場合は指を立ててくれ。まず、貴方は何年前に死んだ? ……三、十、三十年前だな。事故死で合っているか? ……事故死か」
僕はメモに【三十年前に死去、事故死】と書く。
「事故は家か? 外か? ……外か。見たところ、ほぼ前面に衝撃を受けているな。何かとぶつかったのか。電車にしては損傷が少ないが、自転車やバイクにしては大きい。自動車か? ……そうか、運転中? 違う? では貴方は轢かれた側か」
神代先輩が頷くので、僕は事故死の横に【自動車に轢かれた】と付け加えた。
「彼に憑いた理由は何か未練があるからだな? やり残したことでもあったのか? ……違う? なら気に掛かることがあったのか? ……そっちか。 歳を聞いていなかったな。年齢は? 二、十、五……二十五歳か。三十年前でその歳なら結婚していそうだが……ああ、やはり結婚済みか。家族が気に掛かるのか? ……ふむ、気にしているのは親か? 妻か? 子供か? ……子供だそうだ」
男性の特徴の方に】年齢二十五、死因の下に未練あり、家族、子供】と記入する。
思っていたよりも男性の霊が若くて僕は内心で驚いた。
死人を悪く言う訳ではないけれども、着ているスーツが何だか野暮(やぼ)ったいというか、地味というか、とにかく垢抜けない感じで若い人向けのものではなかったからだ。思い返せば、僕が幼い頃に父が着ていたスーツに似ているような気がしないでもない。