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やばい。思っていたのと違う。
帰宅して、それから成り行きに任せていた隼人は、終わりのない機械的なコールを聞きながら、心底慌てていた。
休みの間くらいはと実家へ帰省する生徒が多い中、隼人は寮が完全締切となる八月半ばまでは寮で過ごす予定で、水族館からの帰り道、そのまま寮へ向かった。整備されたコンクリートの道をつま先で弾く。そうして寮に向かっている最中、ちらりとなんとなく校舎の方に目をやって、気になる人物がいるのに気がついたのだ。ほんの少しだけ思案したあと、大きく手を振る。
「…那智坂やーん!なにしとん!」
「あ、ども」
大きな声に気付かないはずもなく、遠くに見える大河は軽く頭を下げたように思う。その拍子にひらりと手からなにかが落ちて、慌てて拾い上げていた。どうやら書類の束のようだ。走ることもなく、ゆったりとした動作で近付く隼人を待つ間に、大河は一度書類を抱え直した。
「仕事?」
「部屋でしようと思って」
「んー、手伝う?」
いや、と首を振った大河に構わず書類を半分その手からさらう。パラパラと何枚か捲れば、時折提出期限の過ぎたものが見てとれた。これはちょうどよいタイミングかもしれない。つい先ほど決意した気持ちが薄れることのないうちに、話してみるべきか。離さないままに足を一歩進めれば、諦めたように大河がため息をはく。隼人は振り返らないままに口を開いた。
「去年は夏休み入ってすぐ、実家戻ってへんかった?」
「今はためこんだこれがあるんで」
ばさりと書類を振る。自嘲気味な笑いをひとつ添えた。隼人がそう信じたいだけかもしれないが、心底呆れた様子に見えた。お互い続ける言葉もなく、ただコンクリートと靴のぶつかる音だけが聞こえて、暫く。
「何か用でもあるんですか」
その、と続けて、大河は隼人の背中に問いかけた。ひよ、りのことですか、と。一度ひよ、とそう呼びそうになった唇が止まって、慌てて取り繕うようにひよりと呼んだ。隼人は少し意地悪く、さあと返す。またため息が聞こえた。その間にも少しずつ二人は歩みを進めていて、気がつけば寮のエレベーターの前だった。
「俺の部屋だと多分、遊が来るんで。ひよりの話なら、別でする方がいいと思います」
言いながら、エレベーターに乗り込んで、現生徒会専用のフロアでなくその一つ上、つまりは前生徒会のメンバーが暮らすフロアのボタンを押した大河。隼人がちゃっかりしとんな、とそう呟いたところで、ドアが閉じた。ぶぉんと微かな音をたてて、床ごと上へと登る。
「コーヒーでよかったっけ」
「あ、別にいいですよ」
「いや、さすがに飲みもんぐらい出すわ」
大きな瓶に入ったインスタントのコーヒーを、スプーンも使わずにざらりとカップの中へ落とす。隼人自身はあまり生徒会室に入り浸ることもなかったから直接見たことはなかったが、ひよりから何度か大河の甘党っぷりを聞いたことがあったので、砂糖もその要領でたっぷりいれた。ぎりぎり賞味期限の切れていない牛乳があったから、それも一緒に流し込んでかき混ぜると砂糖がじゃりじゃりと底で音を立てた。
すみません、頂きます。手渡されたそれに一度だけ口をつけてすぐに、大河の目が瞬いた。あまい。そう一言。
「ひよりに聞いとったから」
「…そうですか」
どうも切り出しにくい。気まずさに一瞬テレビのリモコンに指先が触れたが、すぐにやめた。唇を何度か揺らして、それでもなにも声になることはない。そんな隼人を見かねてか、持ってきた書類を自分の脇にきちんと重ねて置いた大河が口を開く。
「ひより、元気にしてますか」
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