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「逃げ続けるのはだめだと、思う」

暫くなんの反応も示さず下を向いていたひよりが、かすかに首を縦に振った。くしゃくしゃになった毛先がふわりと揺れる。
掛けられた白いカーテンの向こう側、窓の外はもう真っ暗で、深い藍の中に、いくらか星がきらめいていた。半分程欠けた月は、そっぽを向いてただただ、暗闇の中に居座っている。

「何もかもあいつらに非があるし、まあぶっちゃけ、オレならずっと逃げ続けて、罪悪感で押し潰してやるんだけど」

はは、といずみが笑う。

本当はそんなことしないくせに。

前髪の隙間から覗き見た優しい表情のいずみには、到底そんなこと、できるはずないとひよりは心の中だけでそう言った。
でもさ、といずみが首を後ろに倒して、窓を覗き見る。真っ逆さまの四角い夜空のキャンバスは、時間が経つにつれ、どんどんと深く色づくばかりだ。

「羽原には、そんなことできないだろ」

「…っ」

「あいつらみんな、後悔してる。それに気付いてるお前は、感じる必要のない罪悪感を感じちゃってるんだ」

お前は優しいから。
そう付け加えて、ついでに手を伸ばして頬を軽く持ち上げれば、意外にもあっさりとひよりは顔を上げた。頬には涙の筋をいくつも作って、それでもまだ足りないと言わんばかりに、ぼろぼろと涙を溢れさせている。次から次へと流れてくるそれを乱暴に拭って、今度は首を横に振った。

「…っそんなこと、」

「違わないだろ。傷付くのを怖がって逃げるたびに傷付いてたら意味ないの、わかるか?」

今すぐにでも腫れてきそうなくらい、ひよりの目は真っ赤だった。
いくら拭っても涙は止まらなくて、ぼやけた視界の向こうでいずみがそっと腕を開くのがわかる。おいで。そう唇が動いた気がして、そのまま胸に飛び込んだ。
いずみがぎゅうと抱きしめてやると、ひよりは負けじとばかりにぎゅうと腕に力を込め返す。

「お前の周りも優しい奴ばっかだもんなぁ」

「…、はい。みんな、優しくしてくれて、だから、」

「だから余計に、那智坂たちを許しにくくなっちゃったよな。今まで庇ってくれた気持ちを無碍にはし辛いもんな」

ぐず、とひよりが鼻をすすった。頷いてなんていないのに、その通りだと訴えるその瞳だけが涙の奥でしっかりと光って、もっと濡れる。ついには嗚咽まで上げて、それを抑え込むようにいずみの肩口に顔を埋めた。

「ごめんな、泣かせちゃって。でも、これ以上優しさばっかり貰ったらどんどん罪悪感でいっぱいになって、苦しくなるだろ」

こくこくと肩越しに二度、揺れを感じて、いずみは笑う。鼻を寄せれば、潮の香りがする。

「今すぐにってわけじゃないけどさ、ゆっくり、話してみるべきだよ」

「…ぅぅ、は、い…っ」

しゃくりを上げながら頷いたひよりはまだ、とめどなく涙をこぼしていたが、少しだけ晴れやかな顔をしていた。おーし、といずみの声があがる。

「いい返事!説教おーわり!いっぱい泣いたし、風呂にするか?」

「えっ…と、先にどうぞ…、!」

気まずそうにそう言った視線の先を辿れば、びしょ濡れになったいずみの肩がある。いずみもすぐにその視線に気がついたようで、小さく笑った。

「んじゃ、てきとーに寛いでて!」

そうしてすぐに風呂場で服を脱いで、シャワーをつけたいずみには、すりガラスのドアの向こう側、洗濯機の上に放った携帯が振動していることに、気付けるはずもない。
ディスプレイは春日井隼人。留守番サービスに繋がれるまで、何コールもの間ずっと、表示され続けていた。

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