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きらりと小さな翻車魚を揺らして、ひよりはいずみと夜の道を歩いていた。随分と間隔を開けて設けられた電灯の薄明かりの中、道端の草木が足首をさわさわと擽る。駅で他のみんなと別れてから5分も歩けば、いずみの家はすぐだ。

「おじゃましまーす」

玄関で靴を揃えていずみに続く。立派な三階建ての家には誰もいなくて、まっくらだった。ぱちりといずみの指先がスイッチを叩いて、ようやく電球がうすいオレンジ色の光を灯す。

「俺の部屋、二階。一回来たことあったっけ。つっても昨日帰ってきたばかりだから、ほんとなにもないけど」

そう笑ういずみの部屋は本当にがらんとしていた。いずみがまだうちに通っていた頃にも一度来たが、その頃は部屋の隅に本や漫画が積み上げられていたし、壁に取り付けられた木製のラックには、小物が所狭しと並んでいたのを覚えている。
なんにもなくなった部屋でいずみは窓際に唯一置かれたベッドの上、ひよりはその下の絨毯の上で、ベッドを背にして座り込んだ。

「前に来た時も、お母さんとかいなかった気がします」

「んー、おれんち共働きでさ!仕事大好きな人たちだから、そうそう帰ってこねぇ!」

そう答えたいずみがなんだが寂しげだったから、少し気まずくなって視線を逸らしてしまう。そうすればすぐにがらりと隙だらけになった背中側から髪を撫でられた。海の近くにある水族館だったから、潮風を浴びてしまったようで、きしきしと引っかかる。少し乱雑な手つき。それでも大人しく撫でられていれば、ごろんと隣にいずみが落ちてきた。
足をベッドにひっかけて、ひよりの顔を覗き込むように降りてきたいずみが優しく眉をさげる。

「おれのことはよくて、今日はお前のこと!」

「おれのこと、ですかー?」

「そう。おれはもう今週末にはフランスに戻らなきゃなんねぇから。だから、今まで、おれがいなかったあいだ。つらかったこととかさ。吐き出していいんだぜ」

よっと。
ついに足先まで床に降ろしたいずみは、頭をひよりのひざの上に乗っけてじいとひよりを見つめた。見つめられたひよりはといえば、驚いて一度目を見開いたあと、視線をさ迷わせて、それから目を閉じる。一秒、二秒。瞬きにしては長い時間、ひよりは瞼の裏で何を考えたのか。ゆっくりと目を見開いて、それからへらりと笑った。

「だれにも、言いませんか」

笑わなくていい、そう声を掛ける。泣きはしなかったが、ひよりはぐずりと一度鼻を大きく啜ってから、ぽつりぽつりと話し始めた。

「遊ちゃんっていう、一年生がいるんですけどね、」

その出だしから始まって、時折言葉に詰まりながらも吐露していく。遊が生徒会のみんなと仲良くなったこと、自分は仲良くなれなかったこと。そうしてぎくしゃくしたまま、生徒会を去ったこと。それと、いずみが買ってくれたカップを粉々にしてしまったこと。
ごめんなさいと深く頭を下げたひよりに、いずみは大きく首を振った。気にすんな、とその声に、更にその角度が深くなる。
表情がわからなくなるまで俯いて、いつの間にか隣にきちんと座り直したいずみに、とても密やかな声で言葉を紡ぐ。

「おれも、遊ちゃんを好きになれればよかったなぁ」

それはいっとう、小さな声だった。
今までひよりの吐き出す過去には一度も言葉を返さなかったいずみが唇を開く。ほんのすこしだけ迷ったようにすぐに閉じて、それからまた開いた。

「無理だろ」

俯いたままのひよりは何も答えない。ですよね、ともそんなことない、とも。

「お前はその、遊ってやつを好きになれないよ。お前はその子のために、大事な場所を空け渡しちまったんだから」

ぽろり。
栗色の髪の隙間から、雫が落ちて絨毯に滲んだ。
ひよりは相変わらず顔を上げない。足の指先を丸めて、ただ下を向いている。

「なあ、でもさ、羽原」

いずみはゆっくりと手を伸ばす。

少しばかり大きな瞳が目立って、それ以外は平凡な顔つき。そんなおれが、生徒会長に選ばれるくらいに、人を、その、惹きつけた理由。
多分おれは恐らくものすごく、とんでもなく察しがいい。他人が求めている言葉が簡単にわかる。

羽原には説教を垂れるつもりなんて、なかったんだけれど。

今頃携帯を片手に慌ただしく動いているであろう今日の相方を思い浮かべて、いずみは口を開いた。

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