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「あー、今日は俺んち泊めるかなあって思ってたのに」
「えっご、ごめんねぇ、りょーちゃん」
「まあ、相垣さんは暫くしたら海外戻るんだろ?久しぶりなんだし、楽しんでこいよ」
涼が柔らかく笑ったのを見て、ひよりはほっと息を吐く。柔らかな笑みは、とても久しぶりに見た気がした。この間から涼の様子が妙に気になるのだ。心ここに在らずというか、なんというか。
笑っているのに笑っていないような表情で、こっちを見てる気が、するんだよねぇ。
だから久しぶりに柔らかく笑んだ涼に、胸を撫で下ろした。いつからだっただろうかと思い返してはみても、いまいちはっきりとはわからなくて。ぼんやり、夏休みに入るすぐ手前からだったように思う。
ねぇ、りょーちゃん。なにかしんどいことでもあった?
最初に気が付いたとき、思わず頬に触れてそう聞けば、何もねぇよとあっさりはぐらかされてしまってそのままだ。触れた指を弾かれたのは初めてで、あの時の指先がすっと冷える感覚まだ忘れられない。
「おい、そろそろ次のショーの為の清掃があるらしい。出よう。」
進藤のその声で、慌ててバタバタとイルカたちの水槽を後にすることになったので、今はまだ再び問いかけることはよしておこうと結論づけて腰をあげる。水槽の向こう側に見える太陽は、僅かに沈みかけていた。
揃ってイルカショーを見終えたひよりたちは、すぐ近くに商店を見つけて、なんとなく立ち寄った。きらきら光る粒の中に、イルカやペンギンが入ったスノードーム。硝子細工で作られた海の生き物たち。おおきなぬいぐるみ。楽しかった思い出にと、子供でなくとも足を止めてしまうのは仕方がないと思う。
小さな土産屋さんの中でぎゅうぎゅうと肩をぶつけながら、楽しかったと言い合って笑う。
クラスメイトが、ひとつ、硝子細工のストラップを見て、かわいいと声を上げた。ぶさいくな顔をした翻車魚のものだったけど、それが妙に愛嬌を感じさせて、つられて何人かが手に取る。
「どうせならさ、みんなで買わない?」
どこからか、そんな声があがった。
「わぁ、かわいいねー」
遠巻きに見ていたひよりもそう声を返した。それが一番の決め手になって、人づてにきらきらと光を反射させるそれが回ってくる。涼や隼人、進藤、それにいずみにまで回されたそれは、やっぱりいくら眺めても不恰好な姿をしていた。
「ひよりのはピンクなんだな?」
手元を覗き込んだ涼にそう言われて、ひよりも自分の手の中に視線を落とす。うっすらと桃色の差し込まれた透明に明かりが反射して、少し目が眩んだ。そうして隣の涼の手元に視線を移して、深い青の煌めきを見た瞬間にぐらりと足元が歪んだ。じとりと下ろしたままの片手が汗をかく。
お揃い、色違い、みんなで。
こわい。
感じたのはたったひとつ、それだった。逃げようと視線を彷徨わせても、隼人だって、進藤だってそれを持っている。緊張のせいで、汗がひどくて、それでも首筋は驚くほどにひんやりと冷たかった。
どうしよう、どうすればいい。息の吸い方はどうだったっけ。おれは、
「おい、ひより…っ?」
肩を叩かれた瞬間、肺に勢いよく空気が入ってきて思わずむせ込んだ。けほけほと苦しげに咳をするひよりの背を涼が撫でる。漸く落ち着いて、ぎゅうと握りしめてしまっていた両手を開けばそこには変わらず、硝子細工あった。
「っあは、ごめんね。ちょっとむせちゃっただけ」
「…ならいいけど」
少しだけ悩んで、もう一度ぎゅうとそれを握りしめた。
「レジ行こっかぁ」
次は失わないように、自分で大切に守り続ければいい。一度失うことを経験したから、今度はもっとちゃんと、守れる。
もうすっかりと治ったはずの指先の傷が、じくりと痛んだ気がした。
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