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赤に濡れたティーカップがどうなったのか。
その行く末を知るのは固く閉ざされた扉の向こう、以前より少し埃っぽくなった生徒会室の中に立ち竦む大河以外に知る由はなかった。




「ふあーあ。」

白いベッドに沈めていた身体をゆっくりと起こせば、遊は傍らに置かれていた自分のブレザーを拾い上げて一つ大きな背伸びをした。
いつも表情を一転二転とコロコロ変える遊にしては珍しく、その顔に感情の籠らない表情を浮かべている。

「…っほんとみんなおもしれぇんだから!」

普段の自由奔放な声色で面白い、だなんて言葉を溢しながら、それでも未だ表情は平淡なまま。
いや、何処か憂いを含んだような、それはどうとも表現し難い色を醸し出していて。
頭を二度三度と揺らした後、足元にきっちりと並べて置かれていた上履きを履きすくっと立ち上がった。
履き潰された踵がぎゅっと悲鳴を上げてもお構い無しだ。
拾い上げたブレザーを着るのは少し億劫で、暫く思案した後片腕に抱えてそのまま保健室を出ると、ほら。
消毒液のにおいから解放され、ほうと一つ溜め息をついて床を見つめた先、やはりあった。
恐らく上履きが引きづられて出来たであろう廊下に続く二本の線。
今でも目を凝らさなければ見えない程度だが、確かに誰かが誰かを連れていった跡。

「ははっ、なんてグーゼンなんだよ。」

遊は乾いた声で笑う。

大河が自分を保健室へ送り届けてから、直ぐに隣の教室へ入ったのは物音で分かった。
抱き抱えられたときに身体が熱かったから、多分熱があるというのも。
そうして予想していなかったのが、ひよりの登場だった。
杏里や誠の声が遠くに霞んで、直ぐに何やらガタガタと鈍い物音が聞こえたのはやっぱり、保健室を避けて別の場所へ大河を避難させたのだろう。

「あー、疲れる、もう!!!
杏里と誠呼んで遊んで来るか!」

ひとりぼっちの廊下で誰に向けてでもなくそう叫んで、漸く歩を進めたかと思えば、はたり。

「ああ、でも。」

遊は廊下をぼんやりと眺めて、履き潰していた上履きをとんと綺麗に履き直すと、保健室の前から立ち去った。




「俺だって、必死なんだよバカ…」

遊が最後に溢したのはそんな呟きひとつで、その表情は生徒会の一席を手に入れた幸せな生徒が見せるようなものではなかった。
寂しい、苦しい、悲しい、悔しい。
今にも叫び出しそうな表情だった。

もっと歩を早めよう、早く事を進めよう。
大事にしたいものを手に入れて、早く、



「下崎か。」

保健室から少し離れたところだった。
自然と早いリズムを刻み始めた足音が、ついに駆け出す寸前だった。
ひとりぼっちだと思っていた廊下に、凛とした声。
たっ、た…た、と切れ悪く足を止めて、同様にゆっくりと声のした方を見上れば冷たい視線とかち合った。

「…ふ、風紀…!」

風紀、と役職名を呼ばれた男はむっと顔をしかめる。

「露骨に嫌そうな顔をするんだな。
まあ勿論俺だってお前の事は好かないが、様子を見てこいと頼まれたのでな。」

進藤は、そう一息に言い放って、訝しげに遊を見た。
風紀委員長と書かれた委員証は、身体の動きに合わせて僅かに揺れて、音を立てる。
足元から揺れる瞳までゆっくりと視線を辿ってため息をついた。
この場を取り繕おうと遊は声をあげる。

「あっ、え、お、俺のこと!!
心配してきてくれたん」

「ひとつ聞こう。」

ぴしゃりと、放った。
動揺していたのかわざとらしく話していた遊は途端に口をつぐんで、自身のズボンを握り締める。
一方の進藤は、何かを言おうとして、それでも言葉を選んでいるのか何度かそれを繰り返して、漸く口を開いた。

「何を、企んでいる。」

「…な、んも企んでなんかねぇよ!!」

「教える気はないんだな。
…教師には貧血だったようだと伝えておく。」

もう用はないと言わんばかりに遊を一睨みして、進藤は直ぐに背を向けた。

保健室に運ばれたのはついさっきだ。
もう歩いている所を見れば、仮病の類いだと言うのは一目瞭然だった。

不味い所を見られてしまったと遊は思わず頭を抱えようとして、ぴたり。

背を向けた筈の進藤が、此方を振り返っていたのだ。
何処まで見透かされているのか分からなくて、遊は動きを止めて固まる他なかった。
口を開くことさえ許されない、そんな空気だった。

「…まんまと乗せられて、羽原を傷付けていたんだろうな、俺は。」

「…っ!」

それだけ残すと、進藤は今度こそ早々とその場を去っていった。
残した一言は遊を責めるわけでなく、まるで、そう。
自分自身を責めるような言葉。

立ち竦んでいる間に、進藤の足音さえもついに聞こえなくなって、再び廊下には遊一人。

「っはぁ、」

詰まった息を大きく吐き出して、その場にガクンと膝を付いた。

頭の中に巡るのは、ひよりを傷付けたというそのワードで。
初めてしっかりとそれを言葉にされて、漸く実感が湧いたのだ。
その重さがずしりと背にのし掛かって、息が詰まる。

「なぁ、ひより。
お前今どんぐらい傷付いてるんだろうな…」

息を吐くように静かに、聞き慣れない落ち着いた声を溢した。
膝に力を入れて、ゆらりと立ち上がる。

後戻りは、しない。

強い視線を真っ直ぐ前だけに送って。


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