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「顔が、よく見えなくて。」
廊下に取り付けられた予備灯のスイッチを入れると、やはり目の前にいたのは杏里だった。
見えなかった、というのはどうやら事実なようで、いつもの黒フレームの眼鏡は掛けていない。
首でも締められるのかと思った…。
悪意さえ感じるネクタイの乱暴な掴み方。
今は信用ならない杏里に、ひよりは訝しげな視線を送った。
「ごめんね、痛かった?」
「んーん、大丈夫だよぉ。」
予備灯の仄かな明かりの下で、申し訳なさそうな表情の杏里。
「で、杏里はこんな時間にどこ行くのー?」
気になったことを聞いてみた。時刻は11時過ぎ。
規則正しい生活を好んでいた杏里だから、この時間には部屋で寝る支度をしていた気がするんだけど、とひより。
「ひよりこそ、帰りが遅くない?」
望んだ返答は帰って来なかった。
逆に質問をされたひよりは、意表を付かれたみたいで落ち着かなくなる。実はこの学園の消灯時間は11時で、それを過ぎて帰寮した手前、強く出れないのだ。
「ちょっと風紀室に用事があってねぇ。」
ひよりの言葉に杏里は顔をしかめた。
「学校ってこと?
とっくに下校時間は過ぎてるよね。
無人の風紀室に忍び込んだの?」
少し刺々しくなった杏里の口調。
普段は眼鏡に隠れている冷たい視線がひよりを捉えた。
「んー…、進藤先輩も一緒。」
杏里の声のトーンが変わったことに、動揺はしたが、ひよりは大して驚くこともなく、いつも通りの緩い声を返す。
悲しいことに、もう慣れてしまっているのだ。
「遊にあんなに酷いことを言っておいて、
自分は風紀委員長と仲良くしているの?」
とうとう直接的な言葉を放った杏里。
はて、俺って遊ちゃんにそんな酷いこと言ったっけ。
ひよりは首を傾げた。言ってない。酷いことなんて。
だけどもう反論するのは面倒だし、どう思ってくれてもいいかな、と諦めに入ったひよりは手に触れた予備灯のスイッチを切る。
暗闇に戻った空間で杏里が小さく驚いた声だけが聞こえた。
「もーいいよ。
杏里は遊ちゃんだけ見てたらいいじゃん。」
俺に構わないで、と呟いたひよりは、そのまま自分の部屋に飛び込む。あくまでゆるやかに歩みを進めたが、内心は杏里の言葉をこれ以上聞きたくないと、焦っていた。駆け出したいくらいだったけど、そうしたら、まるで逆に構って欲しいって言っているみたいだと思ったから。だからゆっくりとドアを閉じた。
ぱたりと閉じたドアにひよりは気持ちを落ち着ける。
杏里のことはとても好きだった。杏里の側は、いつもいい香りがして、落ち着ける場所で。
優しかった杏里に自分があんな攻撃的な言葉を吐かせてしまったのだと思うとすごく、かなしい。
そして翌日。
「りょーちゃーん!
いっけぇ、シュート!」
きゅ、きゅ、とバッシュが地面を鳴らす音と、ボールが跳ねる重い音、歓声。
ひよりは予定通り、月宮学園で行われる、バスケットボール部の試合観戦に来ていた。
「……っ!」
ダン、と一層大きな音に、更に大きな歓声が巻き起こる。中学の時なんかは、ひよりも涼と一緒にお遊び程度にバスケをしたものだが、こんなに上手くなってるなんて。思わずひよりも大きな声を上げて応援していた。
「ナイスシュート!」
軽々と続く、ダンクに3P。
コートの中で踊るようにボールを弄ぶ涼に、試合相手でさえ目を奪われていた。
「ひよりー、まじで来たのか。」
一試合終わって、ひよりの元へ駆け寄る涼。
「あは、来ちゃった。
こんなバスケ上手になったんだねー。」
ひよりはわしゃわしゃと汗が付くのも構わず涼の頭を撫でた。ため息を吐きながらも、まるで抱きしめるような形に体を預けた涼だった。
「こら、涼!」
突然二人の頭上から聞こえた声。
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