たん、とキーボードを叩いた。ディスプレイの中にいるキツネがシカに話し掛ける。決して顔が見えないその相手を、アタシは知っている。


始まりは些細なことだった。友人に誘われ、特に断る理由もなかったアタシは言われるままにふらふらとこの場所に入り込んだ。今思えば、彼女はきっと、アタシを心配してくれていたのだ。目つきが悪くて口数も多くないアタシは、周囲から煙たがられていたから。だから、顔が見えないこのチャットは、アタシにとって最高の場所になりえたのだ。

「どう? チャット」
「どうって言われても……どうとも」

煮え切らないアタシの返事が不満らしい彼女は口を尖らせた。子供っぽいその仕草が彼女の癖だということは、アタシを含め周知の事実だ。紙パックのいちごみるくにストローをさしながら、彼女は不満げに呟く。アンタ、誤解されやすいんだから。聞き慣れてしまったその言葉を空気に溶かして、席を立つ。どこ行くの、という問いに、トイレと答えれば、彼女はふうんと言っていちごみるくを口に含んだ。

「会長なんだっけ? トリ?」
「シカだよ。トリは石川くんだ」

廊下を歩いていると、男子生徒の会話が耳に入った。シカ、トリ……何のことかと思えば、どうやらチャットのことらしい。へぇ、意外と皆やってるんだ。そのまま通り過ぎようとした時だった。

「会長、最近よくキツネの子と喋ってるよね」
「ん? まぁ」

……キツネ?アタシはキツネだ。最近始めたチャットではよくシカと話している。偶然、だよね?そんなまさか、ねぇ?悶々と悩みながらその場を去る。途中、彼らや他の生徒と視線が合ったかと思えば、すぐに逸らされる。ひそひそとした話し声。身に覚えの無い悪評。もう、慣れた。何だか全てがどうでもいいように思える。そう、どうでもいいことなのだ。それなのに、男子生徒のあの会話は、ずっとアタシの心に引っ掛かったままだった。


『どうしたの?』
『ううん、なんでもない。打つの遅くてごめん』
『大丈夫。最初は皆そんなもんだよ』

日を重ねるごとに予感は確信に変わった。彼はシカで、宮村というカメや石川というトリと会話をして、そして最近はキツネのアタシとよく喋る。宮村伊澄、石川透、そして仙石翔。いい意味でも悪い意味でも有名な人たち。アタシが関わっていいような人じゃない。分かってる。分かってる、のに。仙石翔は、彼は、きっと何も知らない。知らないから、こんなにも優しい言葉をくれる。もし、キツネがアタシだと分かったら、彼はアタシから離れていくのだろう。それは、とても、

『ごめん、疲れたから落ちるね』
『そっか。それじゃあ』
『うん、また』

パソコンの電源を落として寝転がる。アタシは悪い人だ。それはとても寂しい、なんて、傲慢だなぁ。顔を埋めた枕は、ただ沈んでいくだけだった。


そんな日々が続いて、そしてまだチャットも続いていた。アタシは文字を打つのが速くなって、彼はそんなアタシに優しい言葉をかけた。すごいね。何がだろうと思いながら、そんなことないよと謙遜を返す。当たり障りのないやり取り。いい加減やめないと迷惑だ。でも、やっぱり続けたい。ぐるぐる考えて机に伏せた。教室に人影は無い。その静寂を破ったのは扉が開く音だった。

「……あの、下校時刻、過ぎてるんだけど……」
「え、ああ……うん」

扉を開けたのは仙石くんだった。アタシを見る瞳は暗く、恐怖で揺れている。悲しいけれど、それでも逃げ出さないキミは偉いね。立ち上がってカバンを肩にかける。もう一度、彼の顔を見る。疲れたような顔色、怯えた瞳、微かに震える手。

「無理しなくていいよ」
「え」
「恐いなら、逃げてくれても、やめてくれても構わない」
「……?」
「それと、疲れてるなら休んだ方がいいよ。それじゃあ、また」


「仙石くん?」
「レミ」
「今の子……4組のあの子でしょ? 何もされなかった?」
「……いや、何も」
「ほんと?」
「ほんと。優しい子だったよ」


やめようと思って1週間が経った。パソコンも1週間電源を入れなかった。それなのに、ふと、あの優しさに触れたくなった。チャットに入り、シカを探す。数分してやっと見つかり、意を決して話し掛けた。これが、最後。

『久しぶり』
『久しぶり。大丈夫?』
『うん』
『無理しなくていいよ』
『ありがとう』
『疲れてるなら休んだ方がいいよ』

キーボードを叩いていた手が止まる。キツネは何も語らない。それでもシカは喋り続ける。ああ、それは、以前アタシが言った言葉。

『それと、恐くないから、逃げたりやめたりしない。大丈夫』

大丈夫、その言葉はすとんとアタシの中に落ちた。ずっと引っ掛かっていたものが無くなった。じんわり世界が滲む。最後にしようと思ったのになぁ。やっぱり、だめだ。アタシは彼の優しさに触れていたい。アタシを救ってくれたその優しさは、彼そのものなんだろう。涙を拭ってディスプレイを覗けば、シカは柔らかに微笑んでいた。キツネは、それに笑い返した。優しさに満ちた暖かな世界は、確かにここに存在していた。

たん、とキーボードを叩いた。ディスプレイの中にいるキツネがシカに話し掛ける。決して顔が見えないその相手を、アタシは、そしてきっと彼も、知っている。



インターネットシティ



『ありがとう』



Song : インターネットシティ / すこっぷ feat. 初音ミク



 
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