物心がついたとき、既に父はいなかった。気付けば母の姿も見なくなった。それでも、臣くんだけは、ずっと私の隣にいてくれた。
「あ、臣くんおはよう」
「おはよう」
「また遅くまで起きてたの?」
「テスト作ってたからな」
「お疲れさまです」
くるりとお味噌汁をおたまでかき混ぜてからお椀へと入れる。焼き鮭と卵焼き、ほうれん草のおひたしに炊きたての白ご飯。和食派の私と臣くんの朝ごはんの定番メニューを机に並べ、いただきますと手を合わせてからそれらを頬張った。
「うまくなったなぁ」
「10年近くやってるからね」
「化学も苦手っていってたのに90点もとってくれちゃって」
「苦手だから頑張ったの。今回も頑張るから、覚悟しておいてね」
はいはい偉い偉いと私の頭を撫でる臣くんに、子供扱いしないでと言えば、まだ子供だろーがと一蹴された。それは正論なんだけど、納得はいかない。けれども言い返す言葉は見つからなくて、私は結局諦めて卵焼きを頬張った。ゆっくりと咀嚼してから飲み込む。同時に、彼への想いも少しずつ、奥へ押し込める。
「ごちそーさま。洗濯機回した?」
「お粗末さまでした。うん、もう止まってるだろうから後は干すだけだよ」
「じゃあ干してくるかー。水祈はゆっくり飯食ってろよ」
「うん、ありがとーございます」
へら、と笑うと臣くんも笑い返してくれる。私にはよく分からないけど、家族ってこういうものなのかな。私は、臣くんとどういう関係なのかも知らない。本当に家族なのかもしれないし、もしかしたら赤の他人かもしれない。どちらにしても、私は今のこの関係に不満はないし、心地よいこの環境が好きなのだ。
「行ってくるな」
「はい、行ってらっしゃい」
私がご飯を食べ終えた頃には、臣くんは洗濯物を干し終えて家を出る直前だった。いつものように先に行く臣くんを見送ってから食器を洗う。掃除機は帰ってきてからかける。今日はお買いものに行かなくてもいい日だから早めに帰ってこれるし、いつもよりゆっくりできるだろう。忘れ物がないか確認、身だしなみの最終チェックをしてから家を出る。確か、今日は夕立に気を付けてと天気予報のお姉さんが言っていたから傘も持っていかなくちゃ。鍵をかけて学校へ向かう。どんよりと曇った空からは太陽の光など一筋も射さなくて、なんだか自然と気分も沈んでしまう。来週からまた天気は下り坂だとか、まぁ梅雨もまだ明けてないしなぁ。
「七摘さん!」
「十時さん、仁王くんも。おはよう」
歩き慣れた道には昨日と同様に、十時さんと仁王くんの姿があった。仁王くんはまだ眠いようで、何度も欠伸を零している。十時さんはそんな仁王くんには目もくれず、私の隣に並んだ。
「あの、七摘さん!」
「なぁに?」
「ええっと、あの……あ、ら、来週からテストだね!」
「そうだね。十時さん勉強すすんでる?」
「……そ、それなり」
ずーんと沈んで答える十時さん、そしてそれを愉快だと言うように笑う仁王くん。……私、何か言っちゃいけないことでも言ったかな?うーんと考えてみても答えは見つからない。
「七摘」
「うん?」
「携帯持っちょる?」
「うん、持ってるよ」
「メアド教えて」
「は!?」
私が答えるよりも早く口を開いたのは十時さんだった。どうしたんだろう?私なんてそっちのけで、十時さんは仁王くんに詰め寄っている。
「ちょっと仁王どーいうつもりなわけ!?」
「七摘と仲良くなろーと思ってのう」
「うそくさっ!」
「七摘、教えて?」
「七摘さん、断った方がいいよ!」
「え、そうなの?」
何か駄目なことでもあるのだろうか。クラスメイトにアドレスを教えるくらいならなんてことはないという私の考えは甘いのだろうか。そう思ってしまうくらいに十時さんは必死で、私は取り出した携帯をしまうべきか悩んでしまう。
「こいつ、すぐ嘘つくし、女遊びするし!」
「酷い言い様じゃのう」
「そっかぁ……じゃあ、十時さんのアドレス教えて?」
「……へ?」
「仁王くんに何かされた時、十時さん助けてくれる?」
「も、もちろん!」
慌てて携帯を取り出した彼女がなんだか可愛くて、自然と笑みが零れた。アドレスを2人と交換し、電話帳に登録する。登録数が増える、関係が深まる、世界が広がる。そんな素敵なことが当たり前に起こるこの世界は愛しいね、と私は心中で呟いて、ゆっくりと携帯をしまった。
イノセントグライダー
(ふわふわ、幸福感に浮かれて溺れていたい)