―二人で会えないだろうか―

かつての想い人からそんなことを言われて、嬉しい気持ちが込み上げてくるのを否定できなかった自分が居た。
戸惑いながらも受け入れる態度を示すと彼は特徴のある眉を下げ、微笑んだ。
その表情に胸が高鳴ったのも事実だった。
矢継ぎ早に、日時と場所を告げられて足早に立ち去って行った彼の背を見つめ、これは夢なのではないかと自分の頬をつねってみた。しかし、僅かな痛みを感じることはできた。そして、気付いたら家にたどり着いていた。

それからは、あっという間だった。
彼の指定された場所、桟橋に佇んでいる自分がいた。
おかしなところはないだろうか。家で何度も確認をしたし、お気に入りのワンピースを着て、化粧も普段よりも念入りに行ったつもりだ。緊張でろくに食べ物が口に入らなかった。
やはり、自分はまだ彼のことが好きなのだろうか。


すでに約束の時間が過ぎていた。
周囲を見渡しても、彼と思われる人物は見当たらず、もしかして―と良くない思考が過った。
からかわれていたのだろうか。そんなことを思ってしまった自分が嫌になる。
彼はそんなことをするような人じゃないから好きになったのに―


彼を信じて待ち続けることしか自分はできなかった。それでも、彼を嫌いになることなんて考えられなかった。
気付くと待ち合わせの時間から2時間が経とうとしていた。学生時代の彼のことを思い出していたら時間はあっという間に過ぎていった。
遠くから慌ただしい足音が聞こえ、その音がする先には彼が居た。来てくれた―そう思っただけで、姿を見ただけで、泣いてしまいそうな、胸が締め付けられるようだった。

名前の姿を見つけた時、普段は好きで好きで仕方がない兄弟達に対して初めて憤りを感じた。
彼等にさえ、足止めをされなければ彼女にこんな表情をさせることはなかったはずだ。
息も切らしながらも松野カラ松は、足を止めることなく彼女のもとへ急いだのだった。

「…ッ、はぁはぁッ。ほ、本当にすまないっ!!!」
そう言った彼はとても汗だくで、息も苦しそうで一生懸命自分のもとに来てくれたんだとすぐに分かった。
きっと事情があったのだろうし、連絡先を交換していなかった自分がいけないのだ。
何よりその昔と何も変わらない誠実な態度を昔よりも間近で感じることができて名前は嬉しく感じた。
しかし、何と返せば良いのか分からず、ありきたりなどこかで聞いたことのあるフレーズしか口から出てこなかった。

「ぜ、全然平気だよ。私も今来たところなの。」
―明らかに嘘だ。
普段イタい発言をぶちかまして、兄弟達にも無視され続けるカラ松にも分かった。
彼女は2時間も遅刻をするような女性じゃない。
その証拠に長時間佇んでいた彼女の肩は、赤くなっていた。

普段であれば、昼近くまで起きない自分が今日だけは日が出始める頃には起床していた。
待ち合わせ時間まで念入りに準備をし、テレビを点けて流していると、お天気お姉さんの本日は快晴―日差しが強く、夏本番さながらの暑さとなるでしょう。という夏ならではの台詞を聞いてカラ松は今日は最高のデート日和だと意気込んで居たのだ。
しかし、まさかそんなデート日和な日に兄弟達からの奇襲に遭い、彼女を日差しの強い時間帯に長時間立たせることになるなんて。
カラ松は、彼女の優しい嘘と彼女の白い肌が痛々しくなっていることに申し訳なく、そして自分の不甲斐なさに唇を咬んだ。

会えたことに嬉しく思いつつ、どこか辛そうな彼を元気付けたかった。
何か彼を元気にさせる方法はないのだろうか。
そう考えたところで、彼のことをほとんど知らないことに気付いた。
好きな食べ物や嫌いな食べ物、趣味や特技。そういったことすら知らないのだ。
彼のことを知りたい、自分のことを知ってもらいたかった。
昔のように、陰から見ているだけなのではなく、できることなら彼のとなりで、傍で彼を感じたいと思う。
そんな図々しい所が自分のなかに存在しているとは、内心苦笑した。

「カラ松くん、て…呼んでもいいですか?」
恐る恐る発した震える声に恥ずかしく思いつつ、彼にそっと声をかけると、信じられないものを見たとでもいうような表情をしてこちらを見た。
目が合ってしまった、でもずっとそう呼びたかった。

「俺の名前を…知っているのか」
一瞬何のことか分からなかった。ふと彼には親友のおでん屋でそっくりな兄弟がいることを思い出し、間違えられることも多いのだろう、と思った。
―でも、私にとって松野くんは貴方ひとりなの。そう伝えたかった。

「勿論だよ。私が知ってる松野くんは、カラ松くん…だけだから」
少しは、伝わっているだろうか。否、伝わっていないだろう。

しかし、カラ松にとってこの一言は心が踊り出してしまうようなくらい嬉しく、自分の存在を認めてもらえた気がした。しかも、彼女が言ってくれたから余計に。
彼女に触れてみたい。もっと知りたい。笑ってほしい。傍にいてほしい。色んな欲望が湧き出てくる。


これからどうしよう、二人ともそれぞれの心のなかで思っていた。
これからというのは何を指しているのだろう。
予定よりもかなり過ぎてしまっているデートのことなのか、二人の関係性についてなのか、それはまだ誰も知らない。


回り始めた恋の歯車 U


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