ぼくとわたしとあなたの日々

はじまりかしら、終わりかな

「――ん、美味い。やっぱなまえさんのつくる和菓子は別格だな」
「あはは、ありがとうございます。でも、おだててもおまんじゅうが一個増えるだけですよ」
「マジ? やったね。じゃあ新作もう一個ください」
「はいはーい」
 冬の新作、「雪だるまんじゅう」に舌鼓を打つ更文さんは、独特の色香を持つ目元をうんと緩ませてそう言った。
 彼はわたしが新作をつくるたびに買いに来てくれていて、ご実家にいるときからの特別のご贔屓さんだ。色々と思い悩むことの多い彼であるけれど、少しだけ似たものを持っているわたしは、昔から彼の相談を受けることが多かった。彼がユニヴェールに入学してからその機会は少し減ったものの、今年度から中小路の支店で修行をすることになり、物理的な距離が近づいたことで顔を合わせる機会は戻って――否、むしろ前よりも増えたのではないかと思えるほど。
 ここ数年、年末年始くらいにしか会えなかった更文さんは、少し見ないあいだにとても大きく、そして色っぽい男の人になっていて……わたしは、正直戸惑っている。
「……なあ、なまえさん。ひとつ訊いていい?」
 店先の床几台、番傘の下。追加で持ってきたおまんじゅうを頬張る更文さんは、おもむろにそう呟いた。
 さっきまでのゆったりとした空気はどこへやら、ひどく真剣な面持ちをする彼に、わたしはどうにも圧倒される。怯むわたしの手首を掴む力は年頃の男の子相当の――むしろ成人男性よりも強く感じて、とうとうびくともさせられないまま更文さんの隣に座らされた。
 わたしの目をじっと見つめる更文さんは……真紅の瞳を少しだけ潤ませて、言葉を紡ぐ。
「俺がさ、なまえさんのこと好きだって言ったら……どうする?」
 ――そのひと言を聞いた途端、周囲の音が一瞬で消え去ってしまうほどの空気が立ち込める。
 この人は舞台役者だ。わたしも学生時代に演劇部に入っていたから、うまい人は空気だろうとなんだろうと簡単に操って、日常のスペースですら「舞台」に変えてしまえることをよく知っていた。
 真剣な顔も、張りつめた空気も。ちょっとしたことで、作り出し、そして壊してしまえること。
 ……その切り替えとギャップに、自分がいつだって振りまわされてきたことも……半ば無理やり、そしてひどく鮮明に思い出してしまった。
「あ……あー? 更文さん、そういう冗談はちょっと、モチーフに問題が」
「本気なんだけど」
「うぇー? え、ええと……成人女性のわたしが、未成年のきみとそういう関係になるのはさすがにちょっと、世間様の目が……」
「じゃあ、卒業したら相手してくれんの?」
「ええ!?」
 予想外の追撃にわたしが肩をはねさせるも、更文さんは熱っぽい視線をまったく逸らそうとしない。
 掴まれた手首は指が食い込みそうなほど捕らえられていて、わたしが何をどうこうしたところで離してくれそうにないこともわかる。
 更文さん……? と弱々しく名前を呼んでも返ってくるのは視線のみ。わたしの答えを求めているその視線は、きっと何人ものファンの胸を焦がし、そして欲しがってたまらないものであるのだろうと思われた。
 それは……わたしのような一般人に向けられてはいけないものだ。決して思い上がってはいけない、調子に乗ると身を滅ぼす、そんな警鐘じみた考えがわたしの頭をぐるぐるとまわり、とうとう言葉をなくしてしまう。
 そんなわたしの様子を見かねたのか、はたまた他に理由があるのか――更文さんは打って変わっていつも通りの笑みを浮かべ、重い空気を払拭した。
「――なんつって」
「はぃ!?」
「なまえさん、ほんとに昔演劇やってたの? アドリブには弱いタイプ?」
 ぱ、とあっけなく離された手首を、更文さんはどこか痛ましそうに見た。ごめんね、気持ちが入りすぎちゃったかな。そう言って撫でてくる指先は優しくて、まるでさっきまでの張りつめた空気などなかったのだと、まったくの作り物だと言っているようで、わたしは再び頭のなかを掻きまわされた気持ちになる。
「げ……現役のユニヴェール生に比べたら、わたしの演劇経験なんてかじったとすら言えないレベルだよ……」
「そう? いやー、一回くらいなまえさんの演技見てみたくってサ。そんでちょっといじわるしちまった、ごめんね」
 お客さん来たよ、と更文さんが店内を指差す。その指先に操られるかのごとくわたしは店のなかに戻り、熱いままの手首をさすって接客に勤しんだ。
 カウンターから見える入り口の隙間、ゆっくりと店を後にする更文さんの背中を横目に見ながら……わたしは、彼の言葉を何度も反芻してしまうかたわら、胸の奥にある記憶に蓋をしようとしている。

20210329

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