ぼくとわたしとあなたの日々

君のみぞ知る

 時計の針は、そろそろ夜の七時を指し示そうとしている。カチ、カチ、規則的なそれに耳を傾けながらカーテンの隙間に目を向けると、あたりの景色がもうすぐに真っ暗になりそうな、ひどく複雑な色合いをしているのが見えた。
 ――これ、次の絵に使おうかな。自然界の織りなす色の混ざりは、いつもみょうじに確かな刺激を与えてくれる。
 時の流れのままゆっくりと変わる、空の色が好きだった。暁のひらけた空気も、静かでおだやかな朝も、淋しい宵の口も、心を揺さぶる東雲も、いつだってみょうじの感性をくすぐってたまらない。そんなふうにいるからこそ、こうして限りなく空に近い場所から、遠い景色を見るくせがついてしまったのだろう。
 ぼんやりと日没を眺めていると、まるでみょうじの意識を引き戻すかのようにインターホンが鳴る。無機質な音は誰が押しても変わらないはずなのに、みょうじにはその主が誰なのかなんて、モニターを見なくてもわかっていた。……否、そうであればいいという、希望的観測が半分だろうか。
 みょうじが住む高層マンションはエントランスにオートロックが施されているので、すぐに彼女を迎え入れることができないのがもどかしい。インターホンを出て、彼女が何か言う前に解錠のボタンを押した。呆れたようなため息と、「私じゃなかったらどうするつもりだったのよ」という苦言が耳に入ったが、そんなことはもはやどうでもいい。
 リビングから廊下を駆け足で通って、すぐに玄関まで。もつれる足と慌てる指はうまく動いてくれなくてじれったいが、それをなんとか制してチェーンとロックを外した。深呼吸を挟んで、さあ彼女を迎えに行こうとドアを開ければ、そこにはちょうど今来たところ、といった様子の愛おしい人のすがたがあった。

「わっ、びっくりした。タイミングぴったりじゃない」
「絵名――」
「ていうか、そんなに血相変えてどうしたわけ――って、ちょっと!?」

 言う前に、みょうじは力いっぱい彼女を――絵名のことを抱きしめる。あたたかくて、柔らかい。ふわふわの彼女の体を抱くと、何よりも心が落ち着いた。
 けれど、みょうじの感極まった愛情表現は他でもない絵名の手によってさっくりと終わりを告げる。ほんのりと頬を染める様子は、いつにも増して愛らしく見えた。

「ば、ばか……っ! せめて、玄関のドア閉めてからにしなさいよ」
「ごめん……絵名が来てくれたのが嬉しくて」
「う……も、もう。仕方ないんだから――」

 言われたとおり、絵名を家の中へと招き入れてから抱きしめなおす。もちろん、彼女が両手いっぱいに引っさげていた袋のたぐいを床に置かせてからだ。きちんと順序立てたせいか否か、今度はいっさい拒絶されることなく、むしろ絵名のほうからも抱き返されて、心が跳ねるような心地になる。
 落ち着き払ったみょうじとは裏腹に、絵名はなんとなく落ち着かなそうな調子で体をもぞもぞと動かしていたが……こんなふうに愛情たっぷりで抱きしめられることに慣れてないせいだと、つい先日教えてもらった。だから、特に気になることではない。

「なんか、ずいぶん情熱的じゃない? 顔見るなりハグしてくるなんて」
「それは……絵名が、最後にわたしのところに来てくれたのが嬉しくて」
「べっ……別に、わざわざあんたのために来たわけじゃ――」

 言いかけて、絵名はうう、と唸る。そうじゃないでしょ、と次ぐ言葉には反省の色が滲んでいて、みょうじはそっと耳を傾けた。

「……そうよ。私、今日はあんたに会いに来たの。あんたのためってわけじゃなくて、ただ、私があんたに会いたかったから」

 面食らったみょうじが、思わず絵名から体を離す。いつもきりりと冷たい風合いの彼女とは打って変わった、幼くもきょとんとした表情に果たして絵名は何を思ったのか――やがて絵名は盛大なため息を吐いて、ほんの少し声を荒げながら言った。

「せっかくの誕生日なんだもん、最後にあんたと……なまえと一緒にいたいって思うのは、当たり前でしょ!」

 言わせないでよね、ばか――そんな二の句が続きそうな物言いだが、みょうじはもはや何も言えなくなってしまった。
 絵名が自分のところに来てくれただけでも嬉しいのに、こんなふうに求めてもらえるなんて。一年に一度しかない特別な日の最後を飾らせてもらえる喜びは、みょうじの心に深刻なキャパシティ・オーバーをもたらす。それは、まるでマンガのような硬直として表に出てきた。
 これにはさすがの絵名もいささか訝しんだ様子で、案じたようにみょうじを見る。

「ちょ……ちょっと、なまえ? 大丈夫……?」
「え――あ、うん。多分……」

 みょうじの顔を覗き込むような絵名と、その優しい声によって、なんとか意識を連れ戻してもらえた。やがて心にわきあがるポカポカした気持ちは、きっと、「嬉しい」や「幸せ」といった感情だ。

「えっと……すごく嬉しくて、ついぼうっとしちゃった。絵名がわたしを選んでくれたことも、今日はもう、わたしが絵名を独り占めできるんだってことも、わたし、すごく幸せで」

 思ったことをきちんと言葉にするという行為の意味を、みょうじは絵名に教えてもらった。
 それゆえのまっすぐな言葉は、少しだけひねくれた絵名にどんなふうに届いたのか。真相は神のみぞ知るところであるけれど、照れ臭そうに笑う絵名のそれが、何よりもの答えであった。
 釣られるようにみょうじも笑って、そして、ふと我にかえる。せっかくのお客人を玄関口で突っ立たせていたことに気づき、慌てて彼女を解放した。謝罪も兼ねて荷物のたぐいを持ち上げる。

「ごめんね、玄関口でこんな。……あがって。今日はとびきりのパンケーキ焼くよ」
「やった! ……えへへ、私、なまえの焼いてくれるパンケーキ大好きなんだよね」
「嬉しいな。……それと、絵名。誕生日おめでとう」

 言いながら、視線の少し下にある絵名のつむじに口づける。
 どこのスパダリがやることよ、なんて文句が飛んできたけれど、その声色はまんざらでもなさそうで。素直じゃなくて、けれどもとても可愛らしい恋人を前に、みょうじは再び胸をいっぱいにするのだった。


絵名お誕生日おめでとう
2022/04/30

- ナノ -