ぼくとわたしとあなたの日々

飼い犬のきもち

 いい子ね、なまえ。私、あなたみたいに素直な子はとっても好きよ――司先輩の声が鼓膜にこびりついたまま、俺は先日の熱帯夜から未だ抜け出せないでいる。
 あの夜以来、俺はベッドに思い切り潜り込んでは悶々と考え込むという困った習慣を身につけてしまった。こんなふうにどうしようもない夜は果たして幾度目になるか、こもる熱と同じように心の中はぐちゃぐちゃと渦巻いて膨れ上がり、すぐにこの手には扱いきれないほどになるのだろう。
 良くも悪くも夢のような時間だった。都合の良い夢のごとく幸せで、無責任に覚めろと願うほどに夢であってほしかった。司先輩の細く麗しい指先からよもやこの身をつらぬかんばかりの衝撃が与えられるなんて、果たして誰が考えられただろうか。
 何も手につかない。何にも、身が入らない。授業中は丹頂先生に、稽古中には基絃先輩に何度も注意を受けておいて、けれども近頃の俺は散漫になった意識を現世につなぎとめるだけで精いっぱいなのだ。
「……司先輩。俺、どうしたらいいんですか」
 絞り出すような懇願はシーツのなかでくぐもって消える。
 今夜も俺は、何を発散することもできないまま無益な夜を過ごすしかなかった。



 ロードナイトの組長兼アルジャンヌ兼トレゾールである忍成司先輩は、俺にとって憧れの人だ。
 俺はあの人に恋をした。去年の夏、ひょんなきっかけでユニヴェールの夏公演を見に行くことになり、そこで出会った運命の人。劇場すべてを歌劇で満たし、心を揺さぶってやまない歌声を響かせた司先輩にこの胸をひどく高鳴らせた俺は、またたく間に幼気な恋慕を募らせた。
 不純な動機ではあるが彼とお近づきになりたくてユニヴェールの門を叩いたし、ロードナイトに選ばれた際には生まれて初めておのれの見てくれに感謝するほど感極まる始末であった。それまではこの顔を鬱陶しいとすら思っていたのだけれど、今はこの顔に産んでくれた母親を拝む勢いである。
 中学時代から仲の良かった中もオニキスであるが無事に合格していて、組こそ違えど未だに交流がある。深く関わったことはないが世長という懐かしい顔まであるのだ。ゆえに俺はまるで絵に描いたような、文字通り順風満帆この上ないユニヴェール生活を送っていた。
 そう、送っていたはずだった。あまりにも華々しすぎるスタートを切った俺の学園生活は、よりによって誰よりも憧れている、入学動機にすら掲げる司先輩によって一気に形を歪められた。
 あの人が一体なんの意図を持って俺に手を出したのかはわからないけれど――それでも俺は拒むことができない。司先輩が好きなのだ。どれだけ顔が綺麗でも、どれだけ伸びやかな歌声をしていても、どれだけ思いをつのらせても司先輩は男なのに。こんな場所にいては性別の概念が狂ってしまいそうでもあるが、それでも俺はただの一度も司先輩を女として見たことなどない。
 わかっているのだ、ちゃんと。司先輩が、綺麗な顔に圧倒的な雄の香りを隠している、ある種のモンスターであることを。
「いらっしゃい、なまえ。今日はどうしたの?」
 ロードナイト寮、司先輩の部屋。俺は震える手でドアをノックし、返事をもらってからこの場に足を踏み入れた。男子高校生とは思えないほど綺麗に片づいていて、なおかつ芳香に満ちたこの部屋は、まるで友人の姉の部屋に招かれたような錯覚を起こさせる。……否、ある意味で間違っちゃいないのかもしれないが。
 けれどなんと言うべきか、そんなふうにのんびり構えていられたのはほんの先週までの話だ。俺の心はざわついている。じくじくと腹の奥がうずくような感覚をおぼえ、この期に及んでとうとう司先輩の顔を見ることすらできなくなってしまった。稽古中ですらその傾向は顕著であるのに、つまるところ密室に二人きりというこのシチュエーションにおいて、この俺が司先輩の気配に抗えるわけがなかったのだ。
「ふふ……ほんと、あなたったらとってもいい子ね。私のこと、もう覚えちゃったのかしら?」
 司先輩の指がするりと俺の頬を撫でる。滑らかな指の腹の感触に俺の肩が大げさに揺れる、そんな情けない動作にすら司先輩は優しげに微笑んでみせた。
 震えた俺の唇はもはや言葉を成すことも困難であったが――なんとか歯の根を噛み合わせて、必死に言葉を紡いでみる。司先輩、と呼ぶ声は思いのほか弱々しかった。
「俺……もう、忘れられないんです。司先輩の指も、言葉も、香りも、全部」
「あら……そうなの?」
「ずっと先輩のことばっか考えてて……いやまあ、それは前からなんですけど。……とにかくこのところ稽古にも身が入らないし、もう、どうしていいかわかんない、です……っ」
 ――助けてください、せんぱい。
 俺が泣きそうな声でそう言うと、司先輩はとても優しく、けれどもやや力強く俺をベッドに押し倒した。背中にある感触はあの日と同じ柔らかさで、その自覚が芽生えた途端に俺の心臓はどくりと跳ねる。
 彷徨うような右手が袖を掴むと、司先輩はほの明るいライトを背負いながら俺をぐっと見下ろした。落ち着かせるように頭を撫でてくれる手はやはり誰よりも優しくて、慈愛の女神のようである。
「大丈夫よ、なまえ。忘れられないなら忘れなければいいの。……ふふ、私に任せてちょうだい」
 制服の襟をくつろげ、シャツのボタンを外してくる司先輩は……壁の向こうでは見せない顔で、妖しく微笑んだのだった。


20210409

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