ぼくとわたしとあなたの日々

キュートな笑顔に首ったけ?

「なまえってさー、マジびっくりするくらいお兄ちゃんのこと好きだよねー」
 ある休日の昼下がり、学食のスープをごくりと飲み干したときだった。俺の正面でお上品にパンをちぎっている稀が、いささか訝しむような調子で俺に話しかけてきたのである。
 さすがロードナイトの学食と言うべきか、量も少なくてさらっとしているこのラインナップには未だに慣れない。慣れないというか足りないのだ。基絃先輩もコンビニで色々買い足したり、はたまたキッチンを借りて料理に励んだりしているらしいが、確かにこれは何かしらの工夫が必要になるだろう。たまに男子校らしくがっつりとしたメニューも出るらしいのだが、食堂にすら組ごとの色が出るだなんて、さすがはかの有名なユニヴェール歌劇学校といったところか。
「司先輩は俺にとっちゃ憧れの人だからな」
「知ってるよ、去年の公演でお兄ちゃんに一目惚れしてユニヴェールに入ろうって決めたんでしょ?」
「そうそう。いやほんと、あのときの司先輩マジで美しかったんだって……見た目も歌声も所作も、なんかもう美麗が服を着て歩いてたっていうか」
 鼻息荒くそう話し出す俺を見て、稀はあからさまに嫌そうな顔をしながらスプーンを握り直している。けれど、今の俺はこいつの不躾な態度なんて気にならないほどあの日の思い出に浸っていた。
 今もまぶたの裏に焼きついて離れない記憶。透き通って伸びやかな声を劇場いっぱいに響かせていた司先輩は、もはや精霊のごとき麗しさであの瞬間に存在していた。決して狭くない舞台のうえ、端から端まで目いっぱい支配しながら華麗に舞う司先輩に、当時中学生だった俺はひと目で恋に落ちたのである。
 ……そう、恋に落ちてしまったのだ。あの場がユニヴェール劇場――男子校であるユニヴェールの専用劇場であることも忘れて、つまり男以外の何者でもない忍成司という人間に、幼気な俺はまんまと心を奪われてしまったのである。
「お兄ちゃんが人に好かれてるのは嬉しいけど……なんか、なまえのその感じちょっとキモいかも。ガチでお兄ちゃんのこと好きみたいじゃん」
「うっ……うるせえな、別にいいだろ? 司先輩は俺の人生を変えてくれた人だし、ていうか俺はあの人が男でも女でも同じようなことを言うと思うぜ」
「あ、またキモポイント貯まった」
「お前マジ口悪いな!」
 俺の隣で暴言の限りを尽くす稀は、他でもない司先輩の、正真正銘の実弟である。奇しくも俺とこいつは同い年、そして同じ組、さらには出席番号も前後なので何かと縁がある相手だったりする。
 司先輩の弟らしくビジュアルは文句なし……というか、司先輩に負けず劣らず声も体も女っぽい。もっと言うと性格や口調も完全に女子で、着替えは個室でやらせろとか覗き見するなんてサイテーだとか宣って、もはや女よりも女らしいことばかり言っていたりする。
 別に人として嫌いなわけではないし、むしろ気安く接せられるから隣にいて居心地が良い相手ではある。あくまで友人としてだが、俺は稀のこともなかなか好ましく思っていた。
「……よし、ごちそうさまー。あー美味しかった、やっぱり一緒に食べてくれる人がいるとごはんって美味しくなるわよね。例えそれがなまえでも……」
「寄ってきたのはお前のほうだろうが」
「なによ、寂しいひとり飯やってる同期を慰めに来てあげたんじゃない!」
「あーはいはい、孤独な少年を助けてくださってありがとうございますー。……あ、」
 稀との口喧嘩……もといじゃれ合いの途中、ふと食堂のカウンターに並んだスイーツを見て俺は反射的に席を立った。
 出し抜けに動いた俺を稀は少々怪訝そうに見ていたようだが、俺が両手に携えてきたそれを目に入れた途端、司先輩と同じ色の瞳をきらきらと輝かせて食いついてくる。やだやだ、なにそれ、超かわいい――そう言ってはしゃぐ声はやはりただの女の子のようだった。
「片方やるよ」
「えっ……いいの?」
「もちろん。食いたいんだろ?」
 本日限定という文字とともに並んだそれは、ロードナイトという組の特色を理解してのものだろうか、猫やパンダのかたちをしたとびきり可愛いドーナツだった。いかにも女子が喜びそうな見てくれはやはり稀にも刺さったようで、四つ入りの箱を手渡すと子供のようにはしゃいでいる。
「やったぁ! えへへ、ありがとーね、なまえ!」
 さっきまでの悪態はどこへやら……今にも抱きつかん勢いで喜ぶ稀のすがたを見て、俺はご機嫌とりも悪くないな、などというおのれのどうしようもない気質を理解してしまうのだった。

20210405

- ナノ -