HoYoverse

いつだって一番そばに

 家を継ぐ者として、涙腺の緩さは大敵だと思っていた。
 
 自分は幼い頃からひどく泣き虫で、それこそ少し驚かされたくらいで簡単に涙が出てしまうような子供だった。
 特段気が弱いわけではないのだが、ちょっとした刺激ですぐに涙がこぼれてしまう。嬉しいときはもちろん、悲しいときや悔しいときにもそれは発揮され、鬱陶しいくらいにナマエの視界を滲ませた。
 幼い子供であれば微笑ましいこの涙もろさも、年を取れば取るほど、人との関わり合いやおのれの両肩にかかる責任が増えるほど、厄介なものへと変わっていく。血が滲むくらいにくちびるを噛んでも涙がこらえきれることはなく、それはいつも感情に反してあふれ、いつしかナマエに対する他者からの評価をシビアで残酷なものへと変化させた。
 涙は時として武器になるが、武道の世界となると話は別だ。女であるという生まれながらの引け目もあり、気づけば「涙」は人生における大きな障害のひとつとなった。ナマエにとって泣くことはおおきな「間違い」で、「あってはいけない」「恥ずかしい行為」に他ならなかったのだ。
 もう少し違う運命のもとに生まれていたのであれば、この考えも少しは違ったのだろうが……翹英荘にて截拳道の道場を営む家系に生まれ、跡継ぎとして育てられたひとり娘のナマエは、そう思うようにならざるを得なかった。それが、彼女にとっての「当たり前」だったからだ。
 
 そして、この思考回路は武道の鍛錬のみならず、幼なじみや友人によるイタズラにおいても、遺憾なく発揮されてきたのだった。
 もっとも、さすがに十代もそこそこの年齢となった今では、幼なじみ――嘉明からのやんちゃなイタズラなど、いっさい飛んでこなくなったが。

「ほんっと泣き虫だよな、ナマエは」
「う……うるさいな! 別に好きで泣いてるわけじゃないもん、私だって――」

 呆れたような口調が刺さる。いくら泣いても憐れな涙はとめどなく溢れ、おさまる気配など一向に見せてくれないようだった。
 その勢いといったら、もはや何を理由に泣いていたのかも忘れてしまうほどだったが――ああ、確か久しぶりに嘉明の顔を見れたから、というのが始まりだったはずだ。葉徳との和解も済ませ、これからはいつでも翹英荘に戻ってこれるという知らせが、まるで自分のことのように――否、そんなものをゆうに超えるほど嬉しかった。
 道場の師範を務める父に成長を認められたときより、何倍も嬉しくて、感動的なように思えた。そうして、おのれを襲う感情の波に耐えきれず、家の裏で涙を流していた頃、見つけてくれたのが嘉明だったのだ。
 ――そういえば、昔からそうだったな。私がどんなに隠れたって、どんなに遠くまで逃げたって、嘉明はしつこいくらいに私のことを追いかけて、いつだって探し出してくれた。そんな在りし日の思い出が、お茶の薫りを乗せた風とともに蘇る。

「全然変わんないんだな、オマエの泣き顔って」

 感慨深そうにつぶやく嘉明の指先が、濡れそぼった頬を撫でる。涙を払うような手つきは昔と変わらぬ優しさを含んでいるくせに、触れてくる指の腹がまるで知らない人のように分厚かった。
 口調こそ呆れたようにも聞こえるが、こうして涙がとまらなくなったとき、嘉明がそれを急かしたことなんてほとんどない。彼はいつも奇想天外な方法でナマエの涙を引っ込ませてくれたし、時にはやり方が極端すぎて余計に泣かされたこともある。
 思い返せばキリがないくらい、二人の間にある歴史はひどく濃密で、密接だ。

「ぶさいくだなって思ってるんでしょ、どうせ……」

 再会を喜んでいたはずが、口から漏れるのは可愛くない憎まれ口だ。本当ならもっと喜びを伝えたいのに、どうしてだかこの口はつれないことばかりを吐いてしまう――その出どころは、もしかするとこの出会いに笑顔を返すことができない、弱い自分への腹立たしさかもしれない。
 しかし、ナマエの憎まれ口を受けても、嘉明の表情は変わらない。彼はナマエの顔を覗き込むように屈んだまま、色とりどりに光り輝くあの獣頭よりもまばゆい笑みを浮かべるばかりだった。

「オマエの泣き顔がブサイクなんて思ったことないけどな、オレは」
「え……?」
「オマエは泣いてても可愛かったぜ、あの頃からずっと」

 嘉明は、事もなげにさらりと爆弾発言を落としていく。まっすぐな双眸に当てられてしまえば言葉などいっさい出てこなくなるし、あんなに止まらなかった涙も一瞬で引っ込んでしまった。
 呆気にとられたナマエがはくはくとくちびるだけを動かしていると、彼女が泣きやんだことに満足したのか、嘉明はにぃと口角を上げて距離を取る。

「お、やっと泣きやんだみたいだな? 昔からびっくりするとすーぐ泣きやんでたもんなー、ナマエは」
「は……ちょっと、もしかしてからかったの!? 私のこと……!」
「さーて、どうだかな」

 突然広がった距離感に思わず手が伸びそうになったが、離れることを惜しむ必要などもうないのだと思い至り、すんでのところで引っ込める。
 これからの嘉明はいつでも帰ってきてくれるし、なんなら璃月港まで会いに行っても構わないのだから、このちいさな距離くらい、素直に見送ってやるべきだろう。
 ナマエの葛藤など知らぬとばかりに、嘉明はそうだ! と手のひらを打ち鳴らしてぱあと顔を明るくする。それはかつて、幼き日の彼が「名案」を思いついたときの表情とまるっきり同じだった。

「なあ、これから璃月港へ行かないか? おじさんに話つけてさ! 久々に早茶したいんだ、オマエと」
「えっ……あ、もちろん! ……なら、せっかくだし璃月港の友だちも誘ってよ。色々聞きたいんだ、そっちの嘉明の話とかさ」
「ハハ、そいつはいいや!」

 言いながら、嘉明はナマエの手を引っ張って走り出す。行き先は他でもない、ナマエの父が営む道場であろう。
 善は急げとばかりに駆け出す嘉明の背中は、幼い頃から見ていたそれといっさい変わらぬまま、ひどくまぶしくて頼もしかった。遠いようで近いそれはいつもナマエのことを引っ張って、明るいところに連れて行ってくれる。
 いつだって一番そばにいて、一番力をくれる嘉明のことが、ナマエは何よりも大好きなのだ。


2024/04/17

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