Admire

泣きたいときには好きなだけ

 何か特別な言葉をかわしたわけではないが、先日一夜を共にしてからというもの、ディルックと同衾する機会はぐっと増えた。
 もちろん夜毎ふれあうわけではなく、むしろただ寄り添いながら眠るだけの毎日だ。ディルックの匂いが染みついた柔らかなベッドに入り、ひたすら静かで穏やかな夜を、あれからずっと過ごしている。
 とはいえ、二人の関係を思えば体を重ねる夜だってゼロではなく――しかし、ディルックとハーネイアの生活リズムはもともとあまり噛み合わないのが現状だ。ディルックは夜遅くに出かけることが多いし、ハーネイアは花屋でバイトしている関係上、普通の人より朝が早い。元より早起きを要する職務だったことに加えて、モンド城を出てワイナリーで生活するようになって通勤時間が格段に延びたことから、その傾向はひときわになった。
 それでも、たった一人で越えていた闇夜の帳に比べれば、今の夜明けはひどく優しい。
 一人きりのベッドで目を閉じると、朝にはディルックがそこにいる。独りの夜を超えた先にある大好きな人と迎える朝を、ハーネイアはいっそう愛おしく思っていた。

 そうしてディルックの寝室で――今となっては二人の寝室だが――過ごすことが増えた今、あらためておのれの部屋の特別性に気づくのだ。
 ラグヴィンド家の屋敷は基本的に赤を基調としたインテリアで揃えられており、家具や絨毯はもちろん、何気ない小物に至るまでがその風合いに倣っている。もちろんそれは名家らしく色合いが抑えられていて、その程度といったらひと目でデザイナーのセンスと屋敷の上品さを実感できるくらいだ。
 ディルックのまとう品の良い赤と同じ色彩に包まれた屋敷のなかで、唯一の例外がハーネイアに用意された私室だった。
 この部屋は、扉を挟んだ向こう側とは打って変わって「赤」が極限まで排除されている。おそらくディルックが気を遣って模様替えをなしてくれたのだろうが、そのなかでも特に目立つのは壁炉が撤去されていることだろうか。
 代わりに設置されているのはモンドでは滅多にお目にかかれないような暖房器具で、ハーネイアのためにフォンテーヌから取り寄せられたそれはこの国でも支障なく動くよう改良がなされており、風元素の力を込めれば長時間稼働させることができるし、室内を充分に暖めることができる。
 ワイナリーに迎えられてからしばらく客間で生活するよう言いつけられていたのは、きっとこれらの準備に時間を要したせいだろう。部屋の隅々に至るまで広がるディルックの気遣いや愛情を思うと、ただこの部屋にいるだけで彼に愛されているような、あのぬくもりに抱きしめられているような気持ちを味わえる。今の自分の居場所はここなのだと――あの人の隣にいることを許されたのだと、ただ座っているだけでも再確認することができるのだ。

 そして、このハーネイア専用といっても過言ではない部屋を見ていると、実家のことが頭をよぎる。モンド城の通りに面したターク商店はある真冬の特別休暇以降、ずっと店を閉めたまま何ヶ月も音沙汰がない。
 あの家は、今も無人のままホコリをかぶり続けている。生まれてから十年以上を過ごした思い出だらけの家宅だが、バイトや所用でモンド城へ行くことは多々あれど、実家まで足を運ぶことは今の今までついぞなかった。放置している自分の咎や、家族がいない現実と向き合うことが怖くて、未だにいっさい手をつけられずにいるのだ。
 しかし、このまま暖かな屋敷で悠々と暮らすわけにもいかない。家族の死を過去にするのではなく、おのれの歴史として受け入れたうえで、自分は前に進まなければならないのだ。
 何より思い出のつまった大好きなあの家を、鬱蒼としたまま放っておくわけにはいかない――そう前向きに考えられるくらいには、アカツキワイナリーで過ごすようになって、ハーネイアの精神面は快復の兆しを見せていた。

(……やらなくちゃ。このままうじうじしてるなんてよくないし……明日起きたらディルックさんに相談して、それから――)

 これからのことや、ちいさな決意。それらを脳内でこねくりまわしながらまどろみに溶けていったのが、ワイナリーで過ごすようになって数ヶ月が経った頃。秋の足音が近づいてくる、静かな夜のことだった。


  ◇◇◇


「――で、この俺が駆り出されたわけだな?」

 ハーネイアの決意の一夜から数日。モンド城の片隅にて、肩をすくめながら口を開くのはガイアだった。彼はターク商店の裏手側にある玄関扉をくぐってすぐ、どことなく淀んだ空気の漂う廊下をじっと見つめている。
 表通りに面したまばゆい店構えとは打って変わって、路地側に構えられている玄関周囲はどことなく暗んでいるように見受けられる――ここで生活していた頃には、いっさい意識したことはなかったが。

「すみません、ガイアさん……騎士団のお仕事で忙しいのに、わざわざ時間を割いていただいちゃって」
「はは、構わんさ。俺だって人並みの情はあるんだ、未来の義姉さんのためならどこへだって飛んでいくぞ?」
「みっ……!?」
「ガイア。からかうのはやめろ」

 からかいまじりのガイアの言葉に肩を揺らしていると、眉間にうっすらとシワを寄せたディルックが間に入ってくる。その横顔はまんざらでもないようにも見えるが、細かく様子をうかがう余裕など今のハーネイアには残されていない。

「最近の騎士団は人員不足に悩まされているようだが、多少の“おサボり”をするくらいの余裕はあるだろう? 君ならその程度の時間なんて簡単にひねり出せるはずだ」
「おっと、旦那様はずいぶんとこの俺のことを買ってくれているらしいな? ――はっは、真相はご想像におまかせするよ。お誘い、どうもありがとう」
「フン……」

 会話内容は少しばかり不穏にも思えるが、出てくる物言いとは裏腹に義兄弟の表情はなんとなく明るく見える。まるでじゃれあいか何かのように、言葉のキャッチボールを楽しんでいるのかもしれない。
 彼らの挨拶代わりの戯れを横目に、ハーネイアは忙しなく瞳をしばたたかせながら、浅い呼吸を繰り返していた。背中に伝う冷や汗は気持ち悪く、気づけば両の手はぶるぶると震えはじめている。

「大丈夫だよ、ハーネイア。私たちもしっかりお手伝いするから。バーンズさんたちがびっくりしちゃうくらい綺麗にしよう!」
「バーバラちゃんの言うとおりです。私も精いっぱいサポートしますよ、ハーネイアちゃん」
「バーバラちゃん、ノエルちゃん……うん、ありがとう。わたし、が、頑張るね――!」

 最後に大きく息を吐いて、ハーネイアはリビングにある窓を思いっきり開放する。鬱屈した空気を割るように開閉音をかき鳴らすと、途端、モンドの風が家中に吹き抜け、まるで風神バルバトスが祝福を送ってくれたような気がした。思わずバーバラの顔を見ると、彼女も同じように考えたのだろう、力強くうなずきを返してくれる。
 バルバトス様も、今日のわたしを見守ってくださってるんだ……! 背中を押す風神の息吹を胸に、ハーネイアは決意を新たに大掃除へと向き合うのだった。

 決意を固めた翌朝のこと。寝起きのディルックに家を片づけたい旨を話すと、彼は大きく目を見開いたのち、すぐに肯定を返してくれた。バーバラたちに声をかけるべきだと提案してくれたのも彼で、どうせ片づけるなら一家のことをよく知る身内に頼んだほうがいいとアドバイスをくれたのだ。

 ――ただの人手であればワイナリーでいくらでも用意できる。だが、此度に必要なのは君の気持ちに寄り添ってくれる人間だろう――

 ディルックの後押しを受けてバーバラとノエルに打診すると、彼女らは二つ返事でハーネイアに応じてくれた。バーバラなんかは今日のために応援歌をつくるとまで言ってくれたくらいで、さすがにそれは恥ずかしいからと宥めたのだが……

 ――不謹慎かもしれないけど、私、すっごく嬉しいんだ。ハーネイアがこんなに元気になったことと、大切なお家のお掃除に、私を誘ってくれたことが――
 ――あっ、それは私も同じです! 本当なら私にすべてお任せいただいてもいいのですが、そういう問題でもありませんものね。ハーネイアちゃん、当日は無理のない程度に頑張りましょう――

 大好きな友人たちの声援は心強く、ハーネイアの決意をより強固なものとしてくれる。この意志を揺らがせることなく今日まで来れたのは、間違いなく二人が手を取ってくれたおかげだろう。
 喜びを抑えきれないまま二人に飛びついてから、向こう一ヶ月のスケジュールをメモさせてもらった。帰宅したあとディルックにも同じように予定を訊ね、バイトの勤務と照らし合わせながらなんとか日程を組めたのが、今日だったというわけだ。


「この家の管理は使用人に頼んでいたが、向かわせたのは特に信の置ける者だけだし、家具類や私物には極力触れるなと言いつけてから送り出した。だから、良くも悪くもすべて当時のままになっているはずだ」

 ガイアとの戯れに区切りをつけたのだろう、どこかすっきりした様子でディルックがリビングへとやってくる。
 風が通ったおかげでホコリ臭さはいくらかマシになったものの、それでもやはりディルックにこの場は似つかわしくないように見える。何より、彼がここに立っているところを見るとあの日の記憶がゆっくりと蘇ってくるのだ。大好きな人にひどい醜態をさらした挙げ句、優しくその腕にすくいあげてもらった、あの分水嶺じみた夜を。
 ディルックの視線はくすぶったリビングを入念に舐めている――果たして、彼の目にこの家はどんなふうに映るのだろう。

「あんまり見てやるなよ、ディルック。いくら相手がハーネイアとはいえ、仮にもここは他人の家だぞ」
「む……別に、他意があって見ていたわけじゃない。どこから手をつけるべきか、と思案していただけだ」
「そうだな――でもまあ、そういうのはまず家主に訊くべきじゃないか? 今日の主役はハーネイアだろ」

 刹那、ガイアの隻眼がハーネイアのことを捉える。そこいらの人間なら彼の視線に見透かすような鋭さを覚えてしまうのだろうが、ハーネイアにとっては優しく見守る兄のようなそれに過ぎない。
 どこから手をつけるか――その件について、考えたことがなかったわけじゃない。むしろ何度も頭によぎってはぐるぐると考え込んでしまい、そのたびに寝返りの数を増やしていたくらいだ。
 簡単なところから始めるべきか、それとも大きいものを片づけるべきか――否、自分が実家と向き合えていなかった理由を思えば、まず手をつけるべきは最大の難関からだ。
 この壁さえ越えてしまえば、あとは心穏やかに掃除を推し進めることができるはずだから。

「――を、」
「うん?」
「お部屋を――きれいに、したいです。わたしとお姉ちゃん、二人で過ごしていた部屋を」


 ハーネイアにとって、この家は建物自体が遺品のようなものだった。図らずもおのれ自身が家主となってしまったあの日から、この大きな塊はハーネイアの思い出の化身であると同時に、彼女を苦しめる枷と化したのだ。
 近づくだけで胃は痛むし、今にも吐きそうなくらい気分が悪い。それでも、絶対向き合わなければいけない。いつまでも目を逸らしているわけにはいかないし、このまま放置を続けて家族の死から逃げていては、きっとみんな浮かばれない。みんなの大切にしてきた家なのだから、この家を――家族の遺品を片づけられるのは、残された自分だけなのだ。
 この家を掃除して、家族の死を清算する――それは彼らを忘れるためではなく、別れのすべてを今度こそ受け入れて、悼むための儀礼である。
 二階へ上がって、廊下を進んだ突き当たりに姉妹の部屋はある。ディルックやガイアにも手伝ってもらおうかと思ったが、さすがに女性二人の私室に手を入れるわけにはいかないと丁寧に辞退されてしまった。

「僕たちは一階や店のほうを見ておくから、皆の私室は君たちにお願いするとしよう。僕たちよりは、この家の人々にも馴染みがあるだろうからね」

 ハーネイアの頭を撫でながら、ディルックはバーバラとノエルに向けてやんわりと目を細めた。その目にはまるで祈りにも似た何かが垣間見えて、かつて兄姉がディルックと親しくしていたことをぼんやりと思い出す。彼が自分のことを見守ってくれているという、密やかながら確かな実感も一緒に。
 そうして送り出されたのち、ハーネイアは友人二人と手を取りながら、ゆっくりと、それでも確実に足を動かした。まるで無限にも思えるくらいの廊下を歩き、うねるような視界のなか見慣れた扉を静かに開けば、ぬくもりを失った懐かしい部屋が鬱蒼と出迎えてくれる。
 どこかカビ臭くも感じる匂いに思わず咳き込むと、バーバラとノエルはすかさずハーネイアの肩を抱き、背中をさすって、落ちつくまで待ってくれる。わななく心臓を押さえつけながら何度も深呼吸を繰り返して、今度こそ部屋と向き合うためにぐっと顔を上げた。

(ひどいにおい……それから、すっごく汚くなってる。……ごめんなさい、こんなになるまで放っておいて)

 誰の耳にも届かない謝罪を秘めながら、涙で滲んだ視界の向こうにある景色を眺めた。途端、何気ない会話や思い出がいくつも蘇ってきて、新たな記憶が呼び覚まされるたびに、一筋ずつ冷や汗が伝う。
 室内には二人ぶんのベッドがどんと並べられているが、思えばあの日ディルックが転がしてくれたのは姉のものではなかったと思い至る。きっと、うっすらと積もるホコリを目に入れて、すべてを察してくれたのだろう。
 そういえば、兄姉の部屋はハーネイアが生まれて少しした頃に別々になったのだと聞いたことがある。そして同じく、彼女がもう少し大きくなったら倉庫を片づけて一人の部屋を用意しよう――そんな話が出ていたことも、芋づる式に思い出した。
 もっとも、それは数年前からたびたび口にされていたことなのだが、他でもないハーネイアが難色を示したせいで何度もお流れになった話だ。甘えん坊の末娘は未だ姉離れができておらず、まるで決まり文句のように「お姉ちゃんとおんなじ部屋がいい!」と言っては聞かなかったのである。
 妹のわがままにレイチェルは肩をすくめてばかりだったが、無理に追い出そうとしなかったのは彼女を愛していたからだろう。妹をどろどろに甘やかすために自ら割りを食おうとするくらい、彼女は妹のことを大切に想って、ずっと優先して考えていた。それはハーネイアの記憶にあるレイチェルのすべてが語っていることで――今際の瞬間だってそうだった。
 途端、燃え盛る惨劇が眼前に蘇る。ぶわりと粟立つ体はひときわに強ばり、握りしめたままの二人の手に過剰な負担を強いてしまっているだろう。
 ハーネイアの異変を察したのか、バーバラはきょろきょろと室内を見まわして、奥にある窓へと意識を向ける。

「えっと……とりあえず、換気しよっか! そしたら気分も明るくなるかもしれないよ」
「さすがはバーバラちゃん、とっても良い考えだと思います! それでは失礼しますね」

 たた、と軽やかな足取りで進むノエルが、暗澹とした空気を払うかのように勢い良くカーテンを開ける。同時に少しだけ建てつけの悪くなった窓を開いて、再びこの家のなかにモンドの風を連れてきてくれた。
 ノエルの懸命な背中に在りし日の姉の面影が重なる。情けなく緩みそうになる涙腺は頬をはたくことで律して、ぶんぶんと首を振ってみせた。……負けられない。こんなところで挫けるために、自分はここまで来たわけじゃない。
 寄せては返す波のようにぐらつく意志を抱えながら、ハーネイアは再び立ち上がって部屋を見る。刹那、揺らぐ視界に入ったのは姉の枕元に置かれているライアーだった。
 それは、吟遊詩人として気ままに暮らしていたレイチェルの唯一無二の宝物。多少ホコリを被ってはいるが、よく手入れされたそれは持ち主が不在の今でもぼんやりと輝きを放っているように見える。
 妹のわがままをいつも叶えていたレイチェルにも、たったひとつだけ一度も首を縦に振らなかったお願いがあった。それが、このライアーに触らせてほしいというものだ。

「ハーネイア……? それ、もしかして――」
「うん……お姉ちゃんが、いちばん大切にしてたライアーだよ」

 まるで、誘われるようにそれを手にとる。迷いながら指先を触れても誰も咎める人はいない。誰にも怒られたりしない――たったそれだけのことなのに、ひどく淋しくて、つらかった。
 よく使い込まれた一品をぎゅ、と抱きしめると、ここには誰もいないという現実をとうとう受け入れてしまった気がした。
 途端、タガが外れたようにほろほろと涙があふれだす。ライアーを抱えたまま嗚咽を漏らしはじめたハーネイアを、バーバラとノエルが負けないくらいに抱きしめてくれた。

「……触らせて、もらえなかったんだ。お姉ちゃん、このライアーのこと、すっごく大切にしてて」
「うん――」
「でも、もう平気……なんだよね。これに触ったり、弾いたりしても、もう、誰にも怒られたりしない……っ」

 涙につまって何も言えなくなったハーネイアに、二人は沈黙のまま寄り添ってくれている。彼女らの静かな優しさが言葉もなく染み渡ってくるようで、それもまたハーネイアの涙を次から次へと溢れさせた。折れそうになった心はまた軋むような音を立てて、堪えきれない嗚咽と一緒に悲鳴のように漏れてくる。
 ――今日は立ち向かうためにきたはずだ。大好きな家族と過ごした大好きな家を、今日こそは元の姿に戻してやるのだ。そのためにはこんなところで泣いているわけにはいかないのに、それでも涙はとめどなく溢れて、いっさいとまる気配を見せない。
 馬鹿になった涙腺は一旦諦めて、ぐちゃぐちゃになった視界のまま、形見のライアーをゆっくりと撫でる。少し緩んだ弦に触れてみると、涙の隙間にライアーを爪弾く姉の横顔が浮かんだ。
 ぽろん、という不器用な音色は姉のそれには遠く及ばなかったが、ひとつひとつ音を奏でるたび、胸の奥に溜まる鉛が軽くなっていくようだった。

「レイチェルさまの歌声、とっても素敵でしたよね。私は数回しか聞いたことはありませんが、それでも全然耳から離れませんでしたもの」
「うん……わたし、お姉ちゃんの歌、大好きだった」
「私も、私も! あーあ、一回くらいレイチェルさんと一緒に歌ってみたかったなあ」

 ハーネイアに寄り添ったまま、二人はハーネイアのおぼつかない演奏を聞いてくれている。もしかすると、彼女たちにもレイチェルが微笑んでくれているのかもしれない。
 ……今も、お姉ちゃんがそこにいる気がする。姿かたちはどこにもないのに、昔のように優しく抱きしめられているのだという確信が、ハーネイアのなかにはあった。いつもみたいに軽口叩いて笑ってくれるわけではないけれど、このライアーの音色と共に、きっとわたしのそばにいる。
 こんなふうに沈んでいるのは「らしくない」と――前を向くための力をくれようと、家族がずっと見守ってくれているような実感が、ライアー越しに伝わってくる。
 みんな、ずっと待っていたんだ。わたしがこうして帰ってくるのを。わたしが、みんなにさようならを言う日を。

「み、んな……おじいちゃん、おばあちゃん。お父さん、お母さん、お兄ちゃん――それから、お姉ちゃん。……遅くなっちゃって、本当にごめんね。……でも、わたし、ちゃんと来たよ。みんなのこと、っちゃんと、お見送りできるように、するから……っ――」

 これ以上の言葉は、もうハーネイアからは出なかった。代わりに響いたのは空気を震わせるような慟哭で、ライアーを抱え込んでしゃくりあげるハーネイアを抱きしめながら、バーバラとノエルもぐずぐずと鼻を鳴らしている。
 ――どれくらいそうしていたのか、ハーネイアはまるい瞳を真っ赤に腫らして、再びライアーの弦に触れる。艷やかな音色は先ほどよりも静かであり、今度はもうレイチェルの面影が浮かんでくることはなかった。

「っ……ごめんね、バーバラちゃん、ノエルちゃん。でも、わたし、もう大丈夫。……もう、ちゃんと向き合えると思うから」

 力強く上を向いたハーネイアに、バーバラとノエルは数回目をしばたたかせたあと、再び彼女のことを思い切り抱きしめたのだった。


  ◇◇◇


「当たり前だけど、一日じゃ片づけきれませんでしたね」

 うぅん、と大きく背中を伸ばすバーバラの明るい声が、すっかりきれいになったリビングに響く。ピカピカのテーブルには鹿狩りでオーダーした料理の皿が並べられており、彼らの働きをねぎらうように馥郁たる香りを漂わせていた。
 清々しい家宅は淀んだ空気のことなどすっかり忘れてしまったようで、廊下に射し込む外灯の明かりもどことなく清廉なふうに映る。

「はは、商店を営んでいたのもあって予想以上に物品が多かったからなあ。とはいえ、この少人数にしてはなかなかの成果だと思うぞ。……ああ、特にノエルにはよくよく助けられたな」
「そ、そんな……! 私はできることをやっていたまでですので、ガイアさまにそこまでおっしゃっていただけるほどのことは――」
「そう謙遜するな。褒め言葉は素直に受け取るに限るぞ?」
「そうだよ! 今日のノエル、すっごく格好良かったもん」

 友人たちの声を聞きながら、ハーネイアはリビングの隅で椅子に腰かけ、ぼんやりと月を眺めていた。手には食べかけのキノコピザが握られているが、食が進んでいるような様子はない。
 数ヶ月前に独りきりで見た冷たい月明かりを、今はなんとなくあたたかいものに感じる。それが家族の死と向き合うことができたからなのか、もしくはみんながそばにいてくれているからなのかはわからないが――何はともあれ、ハーネイアの心境に大きな変化があったことは確かだ。

「……疲れたか?」

 ぼうっとするハーネイアの隣に、ディルックがそっと並び立つ。青白い月光を受けるディルックの顔には穏やかな優しさが滲んでいて、途端湧き上がる愛おしさに、この顔がひどく好きなのだと再確認した。彼が笑ってくれるだけで、疲れの一端が少しだけ癒やされた気がする。

「うーん……気持ちはすっごくすっきりしてるんですけど、なんだか今すぐにでも寝れちゃいそうなくらいです」
「そんなものだろうな。体はもちろん、精神的にも負担が大きかったはずだし……今日はこのまま泊まって帰ってもいいんだぞ」
「えへへ、それもいいかもしれませんね。でもその前に、まずはバーバラちゃんやノエルちゃんをお家まで送ってあげないと」

 ディルックに伝えたことはすべて本心で――このまま目を閉じて、家族の思い出に包まれながら眠りたいと思ってしまう。
 けれど、その思いは昨日までと違い、決して後ろ向きな気持ちじゃない。まるで里帰りでもしたかのようなある種の懐かしさが、ハーネイアの胸には灯っている。もちろん、痛みのすべてがなくなってしまったわけではないのだが――

「また、今度――」
「うん?」
「お掃除の続きがしたい、っていったら。ディルックさんは、次も一緒に来てくれますか?」

 まん丸の月から視線を離して、ディルックの横顔を見上げる。愛おしい人に向けられた薄青の双眸には月明がきらきらと反射していて、まるで宝石にも似た光を放っていた。

「もちろん。君の願いであれば、僕はいつだって叶えてやりたいと思うさ。彼女たちだって同じことを言うと思う」

 ディルックにそっと肩を抱かれて、こみあげてくるのは安堵の涙だ。今日はもう目いっぱい泣いたはずなのに、どうやら涙腺はずっと馬鹿になったまま、戻る気配はないらしい。
 あの頃には気づけなかったこと。自分は決して独りなんかではなくて、バーバラも、ノエルも、もちろん家族のみんなだって、ずっと自分を見守って、寄り添ってくれていたのだと思い知った。悲嘆という名の暗闇に溺れて何も見えていなかっただけで、自分はずっと誰かのぬくもりに包まれていたのだ。
 自分のそばにはいつも誰かがいてくれたのに、皆の思いにいっさい気づけないまま絶望に酔いしれていた。それが悔しくて、情けなくて。安心感と共に悔恨の思いも同時に湧き上がり、しゃくりあげながらまた泣いた。

「……泣きたいときには好きなだけ泣くといい。今ここに、君の涙を責めるような人はいないのだから」

 静かな夜の帳のなか、密やかな談笑の声にちいさな嗚咽が交じる。けれどディルックの言うとおり、ハーネイアの涙を咎めたり、無理にとめようとしたりするような野暮な人間はここにはいない。
 ハーネイアの涙がおさまるまで、この家に広がっていたのはひたすらの優しさのみだった。


2024/01/13

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