Admire

誓いの焔

 正直なところ、真っ先にディルックを襲った感情は「困惑」だった。アカツキワイナリーの手入れされた屋敷で育った彼にとって、いま眼前に広がっている埃まみれの一軒家は良くも悪くも非日常を感じさせるものだったからだ。
 腕のなかにいる少女が荒れ果てたこの家屋でたった一人過ごしていたのかと思うと、罪悪感によく似た同情の念が体をめぐり、今にも眩暈を起こしそうになる。根を張ったように動かなくなった両足を見下ろしながら、ディルックはハーネイアに悟られないよう静かにため息を吐いた。腹の底に溜まった感情を一旦吐き出しておくためだ。
 自分が思っていたより何倍も、この子は暗いところにいたのかもしれない。誰の手も伸びてこないような、いわば、深淵とも見紛う場所で。
 今の今までそれに気づけなかったなんて、彼女の姉に知られたら手痛い一撃を食らってしまうだろう――そんな場違いなことを考えながら、ディルックは黒い塊を抱きかかえる両の手に力を込める。

「ごめ……なさぃ。ごめんなさい、ディルックさま――」

 ハーネイアは、まるでうわ言のように何度もそう繰り返している。かすかな震えは分厚い上着越しにもしっかりと伝わってきて、その弱々しい振動もまた、ディルックの後頭部を鷲掴みにして揺さぶってくる。
 ちいさく深呼吸をしてから、腕のなかの塊に頬を寄せた。怯えきった少女相手に「大丈夫だよ」と言い聞かせるようなその触れ方には、数年前、二人が出会ったあの日の手のひらを想起させる温度があった。


  ◇◇◇


 このまま玄関先で立ち尽くすのも礼儀に欠けると思い、ひとまずディルックはリビングへと足を踏み入れ、未だ震えたままのハーネイアを手近な椅子へと座らせた。
 うっすら白むくらいに埃が積もっているなかで、ひとつだけ使用感のある椅子がこれだった。背もたれにセシリアの花の落書きがしているところを見るに、おそらくこれがハーネイアの使っていたものなのだろうと――それこそ、家具に落書きなんてしてしまうくらいの幼い頃から馴染みがあるのだろうと思い至る。
 椅子のうえに乗せられたハーネイアは、その小さな体をぎゅ、と丸めて縮こまっている。上着の隙間から見える頬は未だ涙に濡れていて、彼女に泣き止む気配がないことを教えてくれた。
 震えるハーネイアの傍ら、ディルックはふとリビングを見渡した。埃くさい……とまではいかないが、空気が淀んでいることはわかる。遮るように毛布で覆われた暖炉はどことなく異様なふうに映り、今すぐにでも取り払ってやりたくなったが、勝手にいじるのは無礼が過ぎると思い直した。
 その他にも目に余るものはたくさんあって、たとえば煤けたかまどや、濁って外がよく見えない窓ガラスなど――静寂よりも重たい鉛のような空気が、この家には充満している。
 きっとこの子の心中もこの煩雑とした家と同じく混沌に飲まれていて、手もつけられないくらいの深く大きな淀みに蝕まれているのだろう。灯りひとつない家のなかはうるさいくらいに静かで鬱屈としており、健全な大人ですら気を滅入らせてしまいそうなほどだ。
 七人の大家族に生まれ、明るく賑やかな家庭で育っていた年端もいかぬ少女が、よりによって誕生日にそれらすべてをなくしてしまった。たった一夜で宝物をおしなべて壊されてしまったのだ。
 そんな状況にいきなり振り落とされてしまっては、きっとどんな人間もまともではいられないだろう。かつてのディルックが、父の死や騎士団への不信を理由に怒りと憎しみの炎に堕ちた、あの頃と同じように。

(……僕が、もっとはやく駆けつけていれば)

 何度目かもわからない後悔を、ここにきて再びよぎらせた。
 ハーネイアの痛みを偲ぶたび、ディルックはいつも自責の念からささやきを賜る。助けられなかった命と置いていかれてしまった命を前に、居たたまれない気持ちが募る。ここで挫けてはいられないと思いはすれど、時にはその罪悪感によって下を向いてしまうこともあり――しかし、そんなときに決まって思い出すのは、かつて彼女の姉から伝えられた遺言のような言葉だった。

 ――もしもあたしに――あたしたちに何かあったら、ハーネイアのことよろしくお願いしますね。あの子、あたしたちに思いっきり甘やかされて育ってるから、ひとりじゃ生きていけないと思うんです――

 人は声から忘れていくと聞く。当時のレイチェルの声は少しずつぼやけて思い出せなくなっているが、彼女の伝えたかった想いやそのまっすぐな言葉だけは、今もディルックの胸の奥にしっかりと刻まれていた。

 ――あの子がひとりぼっちになっても大丈夫なように、他でもないディルック様にそばにいてあげてほしいんですよ。……こんなこと、あなたにしか頼めないから――

 もしかすると、彼女はおのれの死期を悟っていたのではないだろうか――普段は酒好きでちゃらんぽらんなふうだったが、たとえばライアーを手にしたときなどの彼女は、やけに独特で、神秘的とも言えるような雰囲気をまとうことがあったのだ。それはあの吟遊詩人、もといウェンティとどことなく似通っていて、時にその面影を追ってしまうことすらあるくらいだ。
 掴みどころがないくせに、時おり人のすべてを見透かすような目をする――そんな彼女であるならば、不慮の事故でしかないあの出来事を本能的に察知していたとしても不思議ではない。そう思わせてしまうほどに、彼女は本当に不可解な人間だった。
 今となっては確かめる術もなく、すべて想像でしかない。しかし、これをただの偶然として片づけられるほどディルックは大雑把な人間ではないし、おのれの直感を信じている。
 今こそ彼女の想いに応えるべきときなのだろう。ディルックは小さく深呼吸を繰り返しながら、屋内の淀んだ空気を再認識した。


 未だすすり泣くハーネイアの傍ら、ディルックは再び跪き、涙でぐちゃぐちゃになった少女を見上げる。ほろほろと溢れ続ける雫は月光を溶かし、場違いなほど美しく煌めいていた。
 怯えさせたくないくせに、まるで誘われるような手つきで涙に濡れた頬に触れる。しゃくり続ける彼女を落ち着けようと手のひらが頬を撫でるたび、ハーネイアはひく、と雫を散らした。
 はく、はくと、震えるように唇が動く。呼吸を忘れたようなわななきは次第に収まってゆき、ようやっと言葉としてかたちを持つ。幼い子供のような泣き方だ。

「ごめん、なさぃ。わたし、まためいわく、かけて」
「謝ることはない。迷惑だなんて思ってないよ」
「う……」
「本心だから、安心して」

 いくら指先で涙を拭っても、どんどんと溢れてくるそれはやわい頬を水浸しにしてしまう。ハーネイアのことを想うならすぐにでも離してやるべきなのだろうが、この指先は良心を忘れてしまったように動く。
 ただ、このささやかな気持ちだけ伝わればいいと願いながら頬をなぞった。彼女がどんな言動をしたって迷惑には思わないし、この家のことだって深く追求することはないと、せめてそのふたつだけわかってくれればそれでよかった。
 君を傷つけるつもりはないし、その傷だらけの心に無理やり手を入れることもしない。……ただ、君のことをそばで見ていたいだけだ。
 小さくも確かな想いを孕んだ目で見上げれば、ハーネイアは数度瞬きを繰り返したのち、こくん、と素直にうなずいた。少しは落ち着いたのか、再び動き出した唇は先立ってよりも明確な形を取るようになっている。話をしてくれる気にはなったようだ。

「ど、して……あそこに、いたんです、か?」
「それはこちらのセリフだが……まあいい。少し、見回りをしていただけだよ」
「みまわり……ですか?」
「習慣みたいなものなんだ。さしものモンド城といえど、やっぱり夜も耽ければ治安が悪くなるからね。でも、そのおかげで君のことを見つけられたからよかったよ」

 そう言った途端ハーネイアは肩を揺らして、収まりかけていた涙を再びほろほろと溢れさせた。痛々しい泣き顔はディルックの良心を踏むようだ。

「……か、った」
「うん……?」
「み、られたく、なかった。あなたには……ディルック様にだけは、こんなところ、知られたくなかった……っ」

 予想通り、その口からこぼれる内容はあまり穏やかなものではなかった。
 絞り出すようなハーネイアの声が、ディルックの心を強く掴む。罪悪感や憐れみを煽るようなそれは、今すぐにでもこのボロボロな少女のすべてを奪って忘れさせてやりたいと思わせるくらいに、ディルックの情緒に不健全な嵐を連れてきた。頬をなでる指先はぴたりと止まり、呼吸もひとたびリズムを崩す。
 しかし、彼女の言動に違和感を覚えたのも事実だ。確信があったわけでもなければ、言語化できるほど明確な何かを感じたわけでもない。ただひたすらに言い様のない違和感を、ディルックはハーネイアの泣き顔に見ている。
 例えるならばそれはおそらく自責のたぐいで、彼女はずっと自分を責め、縛り続けているのかもしれないと予感させる。
 何も確証があるわけじゃないのに。これもまた勝手な思い込みで、彼女のことを思い上がった目で見ているだけかもしれないのに。
 再びごめんなさい、と弱々しく繰り返すすがたが、その疑惑の背中を押す。

(……すまない。僕は今から、君にとても酷いことをするよ)

 拒絶を免れられないのなら、せめて最後に、彼女のなかで僕に対する罪悪感が育ってしまわないように――執着と献身がゆっくりと首をもたげ、ディルックに矛盾を孕んだ行動をさせる。
 ディルックの手が伸びてきたことにハーネイアはひどく怯え、真っ赤になった両目をきつく閉じるのが目の端に映った。怖がらせたくないならやめればいいのに、それよりも強い本能が働くせいで、思うまま、震える体をそっと抱きしめてしまった。弱々しく華奢な肩は見た目よりもずっと細く痩せこけていて、こわばりそうになる腕を必死で律する。
 あんな目に遭ったばかりなのに――もしかすると合意のうえかもしれないが――あまりにも無神経だろうかと、気が引ける部分も確かにある。紳士たるものにあるまじき行為である自覚だって。しかしこの体はいっさい言うことを聞いてくれず、否、むしろ恥も外聞も捨てて、彼女に触れてしまいたかったのかもしれない。

「あっ――だ、だめ! わたし、きたないっ、から! ――や、ちが、違わない、けど、でも……ッどうしよう、いや、」

 案の定、ハーネイアからは激しい抵抗が――激しいといえど言葉のみで、体は依然として震えるばかりだったが――返ってくる。その言動から彼女の困惑や動揺が伝わってきて、時間を巻き戻したいとすら思うのに、やはりこの両腕はちっとも言うことを聞きやしない。
 なんとか対話を試みようとするも、ハーネイアにはもはやディルックの声が聞こえていないようだった。それほどまでに錯乱しているのだ。

「ハーネイア、僕は――」
「ディルック様が汚れちゃう! ダメ、そんなのだめっ、ディルック様はずっと、かっこよくて、まぶしくて、なのに、わたしなんかに触ったら――」
「ハーネイア!」

 ――最低だ。こんなに怯えた少女を前に、声を荒らげる真似をして。
 しかし、今のディルックにはこうするほかなかった。おのれを傷つけるような言葉ばかりを吐くこの子を静かにさせるには、こうして気を逸らすしか方法が見つからなかったのだ。物理的に口を塞ぐような手荒な真似は、今だけはしたくなかったから。
 ディルックの声にすっかり怯えてしまったのか、ハーネイアはそれきり何も言わず、ただちいさく体を震わせるのみだった。

「……僕は、君のことを汚いなんて思ってない。そんなふうに考えたこともないよ」
「でも――あ、ぃや、」
「僕の言うことが信じられないならそれでいい。でも僕は、どんな君を見たってずっと、君のことをきれいなままだと言うよ。君がどんな目にあって、どんなことをしていようと、それはずっと変わらないから」

 椅子のうえで縮こまる体をことさら強く抱きしめながら、ディルックは静かに、まるで言い聞かせるような調子で言う。彼女の心のどこまでそれが滲みてゆくかはわからないが、せめて少しだけでも深く、この想いが伝わるように。

「大丈夫だよ。案じることなんか何もない。……君が何を言ったって、僕は――」

 ――まただ。先日なんとか押し込めた言葉が、今になってもまた無様なかたちを作ろうとする。こんなときに言うべきではない。こうして傷ついた子供の心につけ込むような場面で、わざわざ口にするものではないのだ。
 ディルックだって、本当はもう気づいている。自分がハーネイアのことをどんなふうに思っているかなんて。
 戸惑い固まったままの少女をそっと抱えあげ、今度はディルックが椅子に座った。黒い塊は膝のうえへと乗せ、幼い背中をやさしく撫でながら、宥めるように包み込む。腕のなかにおさめた塊は再びひぐ、としゃくりはじめ、もはやディルックのされるがままだ。

「ハーネイアは……僕のことが、怖いかい?」
「ま……さ、か。わたしがそんな、ディルック様をこわがる、なんて」
「じゃあ――これからの僕を、君のそばに置いてくれないか? 君のことを、もっと近くで見ていたいんだ」

 子守唄でも歌うかのような、ひどく穏やかな声音で語りかけてやる。眠気を誘発しそうなそれは疲れ切った娘の動きをにわかに鈍らせ、おとなしくさせた。

「これからは僕がそばにいる。何があっても守ってみせるし、もう絶対、独りになんかさせない」

 レイチェルに頼まれたからではない。この言葉は、自分の意志できちんと、このやわっこい少女を守ってやりたいと思ったから出てきたものだ。
 微笑みながらディルックが言えば、途端、ハーネイアは子供のようにしゃくりあげはじめる。先立って――否、初めて会ったあの日に見た泣き顔よりもみっともない、感情の爆発を感じさせる嗚咽が、耳元でずっと鳴り響いてた。
 あふれるようでもあり、噛みしめて、耐えるようでもある号哭を、ディルックは全身でしっかり受けとめていた。
 これがこの子の溜め込んでいた膿なのだろうか。この数ヶ月間ずっとどこにも吐き出せなくて、腹の奥に押し込めるしかなかった悲嘆のわだかまりが今、涙として露出しているのかもしれない。
 であれば自分のやるべきことは、それらすべてを吐き出させて、彼女のなかに溜まった悲嘆や不条理のいっさいを消し去る手伝いをしてやることだ。
 ディルックがそっと頬を寄せれば、ハーネイアは彼の上着にくるまれたまま、まるで飛びつくように手を回してくる。ここにいるのは縋りついてくるだけの憐れな子供だ。そのシルエットに在りし日の――父を亡くしたあの日の自分が重なったような気がして、ディルックの腕にはひときわ力がこもる。

「……大丈夫。大丈夫だよ。もう、なんにも心配はいらない」

 ハーネイアの嗚咽は、やがて彼女が泣き疲れて眠ってしまうまで続いた。
 そして――泣き腫らした少女の痛々しい寝顔を見るディルックの胸には、またひとつ、新たな誓いの火が灯っていたのである。


2023/11/03

- ナノ -