Admire

忘れられない誕生日

見ようによっては微グロ注意(かも)

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 両手いっぱいのセシリアの花が、夜風にくすぐられながら優しい芳香を振りまいている――
 鼻腔を通るそれを存分に堪能するハーネイアは、荷馬車の隙間から星の夜へと目をやり、どこか熱っぽいため息を吐いた。真冬の冷たい空気に混じるそれはぼんやりとした形を保って、やがて静かに消えてゆく。
 しかし、いくら吐息が霧散しようとも、その熱は此度に刻まれた思い出と同じく、決して消えることはない。どれだけ呼吸を繰り返しても、ハーネイアの心は未だぽかぽかと火照るばかりだ。

「こーら、あんまり顔出してると危ないぞ〜?」

 言いながら、すぐ隣に座っていたレイチェルが肩を組むようにして思い切り覆いかぶさってくる。
 珍しく酒の匂いがしない、セシリアの花の香りを充分にまとった大好きなお姉ちゃん。華奢な体をぐらつかせるほどの勢いでもって飛びつかれ、一瞬馬車から落ちくれてしまいそうになったが――愛おしい姉からの熱烈なスキンシップを拒む理由はどこにもない。

「び、びっくりしたあ……もう、むしろお姉ちゃんのせいで飛んでっちゃうところだったよ」
「まあまあまあ、細かいことは気にしない。……そんでどうしたの、ため息なんか。せっかくの幸せが逃げるよ」

 肩を組んだまま、レイチェルは柔らかなほっぺたをハーネイアのそれにくっつけてくる。いつもならお酒で火照って温かい頬も、今日ばかりは冬の寒気に撫でられたせいで少しばかりひんやりとしていた。
 その冷温がなんだか心地良くて、ハーネイアはしばらくうりうりと愛でてくる姉にされるがままとなっていた。
 うんとひっついて満足したのか、やがてレイチェルは先立っての溺愛ぶりが嘘のようにすっぱりと離れ、隣に居直す。その所作はいつもよりゆったりとしていて、彼女も普段よりリラックスしていることが窺えた。
 がた、ごと。静かで心地良い車輪の音が、冬の夜にいっそうの淋しさを連れてくるようだ。

「えへへ……なんか、すっごく楽しかったなって思って。みんなでこんなところまで遠出して、ピクニックして、セシリアの花もいっぱい摘んで――夢みたいな一日だった。だから終わっちゃうのがちょっと淋しいっていうか、帰るのがもったいなくて」
「家族みんなで出かけるなんてしばらくご無沙汰だったもんねえ。今日はあんたが主役だったし、そりゃそうもなるか」
「うん……でもね、最初はちょっと迷ったんだよ。モンド城からここまで来るのって馬車を乗り継いでも結構かかっちゃうから、おじいちゃんやおばあちゃんには辛いかなって思って。……だから、誕生日とはいえみんなにわがまま言っちゃったかなって思ったんだけど――」

 でも、そんなの気にならないくらいすっごく楽しかった。
 抱えたセシリアの花をぐっと抱き寄せて、ハーネイアは再び息を吐く。幸せでいっぱいになって息がしづらいくらいの、胸の奥を落ち着けるために。
 

 もうすぐ日付が変わろうとしているが、今日は1月21日、ハーネイアの誕生日である。

 ――今年の誕生日は、少しだけ特別なことをしよう――

 そう言ったのは一家の大黒柱だった。ここ数年は子供たちが大きくなったのもあってしっかり祝えていなかったから、今年はみんなの誕生日を盛大にお祝いしようじゃないかと――誕生日のおねだりを言い出せずにいたハーネイアに気を利かせたのだろう、父の快活な言葉を受けて飛び出したリクエストは、「家族みんなで星拾いの崖に行きたい」というものだった。
 祖父母、両親、三兄弟。家族七人連れ立ってのピクニックはなかなか骨の折れるものだったが、それでもひどく幸せで、笑顔の絶えない一日だった。まずは璃月出身の祖父が異郷の地であるモンドで開いた宝物のような店を特別休暇とするところから始まり、いつもなら夢の中にいるような早朝から活動を開始して――もっとも、花屋でバイトするハーネイアにとっては文字通り朝飯前だったが――道中馬車を乗り継ぎながら、皆で星拾いの崖まで出向いた。遠く広がる海を一望しながら大好きなセシリアの花をたくさん積んで、その香りを、清廉な空気を胸いっぱいに吸い込む。お母さんの作ってくれた山盛りのお弁当をみんなで平らげたり、爽風を受けながら昼寝に勤しもうとして、何度もくしゃみを繰り返したり……大切で大好きな家族と過ごすひと時は本当にあっという間で、気づけば太陽はすっかり顔を隠し、遅い時間となってしまっていた。
 

 復路も往路と同じく馬車に乗せてもらっている。
 帰りについてはほぼ無計画であったが――商人にあるまじき愚策だな、と父は祖父に叱られていた――幸運にも清泉町まで行くという馬車に出会い、モンド城の近くまで乗せてもらえることになったのだ。この大人数で飛び入りはさすがに難しいかと思われたが、此度の馭者はなかなか気の良い御仁であり、次回の商売で少しオマケをするという「契約」のもと、同乗を許してもらった。
 歩いて帰るより何倍も早いのは確かだが、それでも家につく頃には日付を跨いでいるだろう。すっかり疲れきった祖父母は寄り添いながら眠っていて、二人の仲睦まじい様子を見ると、まるでおとぎ話のように聞かされた二人の恋物語が脳裏をよぎる。
 フィクションよりも情熱的で夢いっぱいの物語はハーネイアに「恋」への理想やあこがれを募らせてくれたし、幼い頃から親しみ続けたおかげで、三兄弟は皆祖父のプロポーズのセリフを丸暗記していたりする。

「……でも、ほんとにさ。ハーネイアはそんなこと気にしなくていいんだよ。今日はせっかくの誕生日なんだから、わがままなんていくらでも言えばいいし、下手に縮こまらず目いっぱい胸を張ってりゃいいの。ね、バーンズ」
「レイチェルの言うとおりだ。俺たちだって随分リフレッシュできたし、悪いことなんてひとつもないよ。……いい一日だった」

 な、父さんに、母さんも。バーンズの言葉に両親はにこやかにうなずき、ハーネイアのささやかな罪悪感をまろやかに溶かしてくれる。
 優しい家族の言葉に、ハーネイアはめいっぱいの笑顔で応えた。


  ◇◇◇


 談笑に親しんでいた頃、やがて不穏で陰鬱とした気配が平和な家族へと忍び寄る。それらはゆっくりと――まるで焦らすかのように近づいてきて、和気あいあいとした一家団欒の場をすべて焼き尽くそうとしていた。
 暗闇のなか、ギラついた眼がいくつも飛び出してくる。
 突如草影から現れた“それら”を前に、馭者は馬車の内部に向かってひきつった声をあげた。

「まさか、こんなところにまでヒルチャールの群れが現れるなんて! お客さんたち、はやく逃げ――――」

 彼は迅速に避難を呼びかけ、取り乱しながらも進路を変更しようとするが――悲しいかな、まるで獣のように俊敏な動きをするヒルチャールには成すすべもなく、音沙汰はすぐになくなった。外の異変に震える一家は身を寄せ合い、状況を整理しようとする。

「あなた、ヒルチャールの群れだなんて……! わたしたちじゃ太刀打ちできないわ、はやく逃げないと!」
「ッ――そう、だな。……ここは私たちに任せて、おまえたちだけでもはやく逃げなさい」

 顔を青くする妻を宥め、努めて冷静に指示をするのは大黒柱の父だ。彼は覚悟を決めた面持ちで子供たちに言った――私たちが囮になる、と。
 しかし、彼の言葉にうなずくのは意外にも祖父母のほうだった。老い先短い自分たちがやれることはこのくらいだと、呵々として笑う高らかな声が今だけはひどく痛かった。
 握りしめた拳が震えていることにはあえて誰も触れようとしない。ただ一人、バーンズだけが父の言葉に反論をぶつける。

「だが、父さん! 父さんたちがいなくなったら俺たちは――」
「おまえたち三人が力を合わせれば、きっとなんでもうまくいくさ。……レイチェルとハーネイアを頼んだよ。おまえは私の――私たちの自慢の息子だから」

 言いながら、彼は大きな手のひらでそっとバーンズの頭に触れた。優しいそれはいつも子供たちをあたたかく受け止めてくれていたもので、同じようにレイチェルとハーネイアの頭も優しく、そしてゆっくりと撫でてくれる。

「私たちが外に出てあいつらの気を引くから、おまえたちはその隙に全力で逃げるんだぞ」
「父さん――」
「はやく行こう、バーンズ! あたしたちが急げば、騎士団の人を呼んでこれるかもしれないじゃん」
「そうよ。お母さんたち全力で頑張っちゃうから、あんたたちも諦めちゃダメよ」

 ねっ、と愛らしいふうに笑うのは母だ。彼女は結婚するまで鹿狩りでシェフとして働いており、その明るさや包容力でもって、一家をしっかり支えてくれていた。
 とくにその料理の腕からなる絶品料理は、日々の団欒に欠かせないものだっただろう。彼女の作るニンジンとお肉のハニーソテーは家族全員の大好物だ。――それがもう食べられないかもしれないという現実が、ゆっくりと三兄弟にのしかかる。

「――行くぞ!」

 父の合図を皮切りに、保護者の四人は一斉に馬車から飛び降りる。くんずほぐれつ、ゴロゴロと飛び出してきた彼らにはさしものヒルチャールも怯んだ様子で、振り上げていた棍棒を取り落とすなど混乱した様子を見せていた。
 ヒルチャールたちがもたついているのを隙間から見ていた三兄弟は、隙を見てこっそりと馬車から降り、モンド城へと一目散に欠けてゆく。まるで現実逃避のように。
 いちばん足が遅いのは案の定末っ子のハーネイアだったが、こんな状況ではのんびりすることもできず、姉に手を引かれながら、もつれそうな足をなんとか動かして懸命に走る。
 穏やかなはずの団欒は一瞬で阿鼻叫喚へと塗り替えられた。やがて聞こえてくる祖父母と両親の断末魔は三兄弟の心身を竦ませて、両足の動きを過剰なほどに鈍らせる。

「もうすぐシードル湖が見えてくるはずだから、あと少しだけ頑張って!」
「う、うん……!」

 しかし、死にものぐるいで走ったのも虚しく、前方には音もなく奇怪な魔物が現れる。炎のバリアに守られたそれは見てくれだけならもふもふしていて愛らしく思えるが、すぐに歪な笑い声をあげて辺り一帯を火の海へと変えてしまった。
 あれは確か――アビスの魔術師と言われる魔物だ。

「ッ――くそ! レイチェル、ハーネイア、先に行け!」

 半ばやけくそになっているのか、バーンズが単身アビスの魔術師へと突っ込んでいく。彼の背中はすぐに黒焦げになってしまったが、その後ろ姿にはかつて「俺にも戦う力があったらなあ」と零していた在りし日のすがたが重なった。

「おにいちゃん――」
「見ちゃダメ! ほらっ、ちゃんと走るの!」
 堪えきれずに涙を溢れさせるハーネイアを、レイチェルが必死で叱咤する。

 普段どれだけ飄々としていたとて、こんな状況ではさしものレイチェルだって泣きたくなるはずだ。
 そんな彼女を支えるのはおそらく、姉としての意地だろう。せめて妹だけは生かして帰さねばという責任感が、まだ20やそこらの彼女を奮い立たせているのである。
 

 レイチェルの決死の鼓舞によりなんとか走る気力を取り戻したハーネイアだったが、ある瞬間、ひどく不自然にそれが途切れたのを感じる。
 足音が自分のものしか聞こえないのだ。
 前を走っていたはずのレイチェルが自分の背後に倒れていると気づいたのは、背中に矢を受けて伏したまま痙攣する、姉の無残な姿を見たときだ。

「あ……あ、あぁ……!」

 草むらに広がるのはおびただしい量の血液。間違いなくレイチェルの体から流れている。
 恐怖に侵食されるハーネイアの心中を表したかのごとく、殊更ゆっくり溢れ出てくるそれは、辺りの草むらをおぞましいほどの“赤”に染めてゆく。

「……、じ、れ……」
「ッ、お、ねえちゃん……?」
「は……しれ、はやく! あんたひとり、でも、逃げろ……ッ――」

 ごぽ、と気味の悪い音を立てて、レイチェルの口からは真っ赤な液体が溢れ出る。いつもきれいな歌を紡いでいたその唇は吐き気がするような鉄の臭いにまみれ、もはや見る影もなくなっていた。
 ハーネイアのまぶたの裏に、鮮烈で不気味な“赤”がこびりつく。
 最後の力を振り絞った姉の言葉を受け、ハーネイアは弾かれたようにその場を駆け出した。涙と汗と鼻水で顔中ぐちゃぐちゃにしながら、肺が壊れそうなくらいの呼吸を繰り返して、全身の力を振り絞りながら。
 しかし悲しいかな、炎はもうすぐそこまで迫ってきているようで、背中が熱くてたまらない。やがては肉が焼けたのであろうひどく不快な匂いまで漂ってきて、込み上げる吐き気がハーネイアの両足を無様なくらいにもつれさせた。 
 ヒルチャールの声が聞こえる。まるで歌うようなそれは残酷なほど絶望を煽り、焦らすようにやってきたアビスの魔術師が、いよいよハーネイアの心を壊す。
 目の前に現れた悪鬼――つい先刻バーンズを焼いた、悪魔の魔術師。歪な仮面に隠されているはずの顔面がにやりと笑ったように見えて、刹那、ハーネイアの瞳から光のいっさいが消えた。
 ――とうとう走れなくなった。恐怖に竦んだ足は動かなくなり、硬くて冷たい石のうえにその身を投げ出す羽目になる。目の前にはシードル湖と、モンド城につながる連絡橋があるのに――ここからでは門番の姿も確認できない。きっとこの惨状も目には入らないのだろう。
 別所で何かしらの有事が起こっているのか、それとも見回りにでも行っているのか、はたまた交代の最中なのかはわからないが――ハーネイアの最後の希望は、無人の城門によってあえなく砕け散る。
 今ハーネイアを襲っているのは、もう誰も助けてくれないという重苦しい絶望のみだ。
 さっきまで感じていた冬の穏やかな冷たさは、今となっては燃え盛る業火にすべて飲み込まれている。

「いっ――ぎ、ああ゛……! あづい、ッいだぃ、い゛だぁ゛あぁああ……ッ!」

 灼熱の炎はハーネイアを弄び、彼女の背中を簡単に焼いてしまう。
 みんなに褒められた黒髪も、大事に育ててもらった体も、大好きだった家族も、炎が全部飲み込んだ。全部焼き払って、なかったことにして、思い出までもが灰になるような、絶望の焔がこの場を支配する。

(ごめん、なさい……、……わたしだけ、逃がしてもらった、のに――)

 やがて苦痛に屈したハーネイアは、惨たらしい現実から逃げるがごとく、意識を手放そうとする。まぶたを閉じればそこには大好きな家族の笑顔と、ずっと憧れていたあの人の優しい微笑みが浮かぶと信じて。
 ……彼女はまだ知らない。その思い出がすべて赤黒く汚されて、灰燼と化してしまうことを。

(さいごに、もう一度だけ……ディルック様に会いたかったな、)

 目を閉じる最後の瞬間。ハーネイアの濁りきった瞳に映ったのは、絶望の形をしたはずの、大きな火の鳥のシルエットだった。


 2023/10/26 加筆修正
 2023/07/08

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