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はじまりはいつも

「お前は、いつも1人なんだな」
 その言葉の主がにやついた同性であったならば、いつものように無視して終わりだったと思う。



 ようやっと寮生活というものに慣れ始めた頃だった。始めはどこで何をすればいいのかもわからず、実家ではねいむさんの帰りが遅かったこともあって、夜間に人がいる、その感覚もなんとなく居心地が悪かった。誰かと話すのは得意じゃない、自分の一言で相手を困らせてしまうから。だからどうにも分寮の生活にも部のメンバーにもなかなか馴染めなくて、用がなければ一日中部屋に引きこもっていたと思う。
 けれど寮の趣自体は落ちついていて、心地が良いと思っていた。だから、人の気配がない頃を見計らってラウンジに降り、隅のテーブルで読書に勤しむことも日を追うごとに増えていて。何か手持ちがあるならば、用もなく話しかけてくる人は居ないだろうと踏んだ上での行動だ。……もちろん、話しかけてくれること自体は、とても嬉しいのだけども。
 そして、今日も。いつものように人を避けるための本を持ち込んで、隅で1人の時間を過ごしていたときだった。人の気配を感じて立ち去ろうかとも思ったのだけど、窺えた足元からそれを取りやめる。
 ――真田先輩が、私なんかに話しかけてくるわけがない。同じS.E.E.Sのメンバーである以外、接点のない私たちだ。共通の話題だって特に存在しないだろうし、会話が弾むような間柄ではない。いつもの如くそのまま通りすがって終わり、そう、思っていたのに。
 何故か、本当にどうしてか今回はそうじゃなかった。私の隣に立つ人物は、今まで出会ってきた人とはまるっきり正反対の、苦しそうに眉根を寄せる真田先輩で。これまた普段とは正反対に意図的なものではなく、純粋な戸惑いから、私は彼に言葉を返すことが出来なかった。そして、やっとのことで出た一言も「……はぁ」という、肯定でも否定でもない、はたまた拒絶にも取られそうな曖昧なもの。
 ……あぁ、だから嫌なんだ。こんなだから私は、人と関わることが出来ない。ただの一言ですらすぐ誰かを不快にして、人を楽しませるにはどうすればいいのかすらわからない。岳羽さんや伊織くんなら、もっと気の利いた返事が出来たろうに、私は――
「すまない。驚かせたか?」
 けれど真田先輩は不快感を露わにすることもなく、むしろ先ほどの表情が嘘のように穏やかな顔つきをしている。離れはせずに、呆れることなく、私の隣の椅子へ腰を降ろした。思わず目を瞬かせる私の様を、肯定も同義と受け取ったのだろうか。困ったように微笑みながら、テーブルに肘を突いて私を見る。
「いきなり話しかけたことは謝る。ただ、その……どうにも、みょうじは1人で居ることが多いように見えてな」
 それで、つい気になったんだ。呟くように続けながら視線を落とす先輩は、ここではないどこか遠くを見ているようにも感じられた。誰か、思う人が居るのだろうか……なんて、それを推し量るのは無理な話だ。私と彼はほぼ他人であり、彼のことを知らなすぎるのだから。
 ああ、でも、きっと。それは、お互い様、なのかな。だから先輩は、不躾にも思える言葉で、ストレートに訊ねてきたのかな。……そうさせる何かが、ここにあった……のかな。
「…………あんまり、得意じゃなくて」
「?」
「人と話すのが……どうにも。相手を怒らせないためにはどうすればいいかって、悩んでるうちに色々と終わってしまって」
 昔から……そう、多分、昔から。人との距離感を掴むことも、言葉を交わすことも、苦手であったんだと思う。仮に滅多なことをしたとして、それが有希さんに飛び火してしまっては元も子もないだろう。
 だからいつしか、自分から誰かと関わることを諦めてしまった。受け身になって、消極的で、けれど何か実になる返しが出来るかと言われればそうでもなく。そうした胸の内が言葉にせずとも伝わっているのだろうか、気づけば進んで関わろうとしてくれる人も居なくなってしまった。教師や先輩への挨拶、生徒会の事務的な会話、授業で当てられての発言、それ以外で言葉を発することは果たしてあるだろうか。今だってそう、ねいむさんや幾月さん以外の誰かとプライベートで言葉を交わすのはいつぶりだろう。人と、目を合わせて話すことなんて。
 でも、重ねて言うけれど。決して、人が嫌いなわけではなくて。
「……話しかけてもらえるのは、嬉しいんですけど」
 なんとなく、口にしてしまった。
 もちろん、嘘なんてひとつも言ってない。嘘を吐くのも得意じゃない。ただ、本心を伝える言葉の選び方が、わからないだけ、だと思う。
 あまりに唐突な言葉だったのか、真田先輩は目をまあるくして声を失っているようだった。また間違えてしまったのか、嫌な気持ちにさせてしまったのか。この言い方ははしたないのか、頭の中が嵐のようにぐるぐるとまわる。
 いいや、もう、帰ろう。逃げたと言われてもいいや、どうせタルタロス以外で関わることなんかない。このまま部屋に帰って眠って、そしたらきっとまた――
「そうか」
 立ち上がろうとした刹那、ひときわ穏やかな声がラウンジの静寂に落ちる。静まりきった水面に広がる波紋のようなその一言は、荒れ狂った私の心中でさえ一瞬で落ちつかせてしまった。
「ならよかった。……嫌がられたら、さすがの俺でも傷つく」
 じゃあ、またな。事もなげにそう言って、先輩は先に席を立つ。何しに来たんだ、こんなことのためだけに話しかけてきたのか、そうも思ったのだけれども。「またな」のその一言で、そんな些細な引っかかりも全て気にならなくなってしまった。
 階段を上がっていく先輩の背中が見えなくなってから、椅子の上で体を丸め、膝を抱える。また、ということは、少なくとも次があるということで。次がある、今回だけじゃない関係。また、何か話せることがある。話しかけてくれるかもしれない、私が話しかけても怒られないかもしれない。
 こんなに小さなことなのに、静まったはずの私の心は、再び大きく荒れようとしていた。
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