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初めての温度

 私は、なまえくんが泣いているところを一度しか見たことがない。
 彼女の裁判が終わって、安堵から流した大粒の涙。仕事とはいえ、一度は彼女を犯人に仕立て上げようとした人間が思うことではないかもしれないが、あのときの涙は純粋に、心から美しいものだと思った。
 思えば、あの涙をきっかけに私は彼女を引き取ろうと決めたのかもしれない。小さな体で罪の意識に耐え、大人の言葉におびえる姿に、過去の自分がだぶついたのは確かだ。父親を亡くす悲しみも、それに関する罪悪感と自責も、私はよく知っている。
 だからこそ、私はなまえくんを受け入れようと考えた。私のところに来たいと言った彼女をはねつけることなく、傍に置こうとした。結果的に彼女を縛りつけることになるのかもしれないともよぎったが、彼女自身がそれを望んでいたし、いつも笑って、明るくいたから、私はその言葉と答えを疑うだなんて考えてもみなかった。
 だから正直、驚いた。夜中にふと彼女の自室の前を通ったときだ……もう2時をまわっていたのに、部屋に明かりがついていた。なにか大事な用事が押しているのかもしれないとそのままにしておこうと思ったのだが、私も人間ゆえに下世話な好奇心がふつふつと沸く。覗きこそしなかったが、ふと耳をそばだててみると――彼女の、さめざめとした泣き声が聞こえた。
 どくり。心臓が暴れ出したのを覚えている。まるで耳元に来たかのようなやかましい鼓動の音に、私はしばらくその場を動くことができなかった。……泣いている。なまえくんが。
 今でこそ愚かしいと思えるが、あの頃の私は彼女が泣くだなんてことを露ほども想像していなかったのだ。いつも笑って、明るくいたから。喜怒哀楽があるのは人間として当たり前のことであろうに、私はこのときまで彼女の「哀」などないものとして考えていた。
 ……ある意味私は、彼女を遠く考えていたのかもしれない。どこか浮き世離れしたような、眩しい世界に生きる彼女を。こんなに近い距離にいるのに、遠いものだと思っていた。
 問いつめるべきか。そのままにしておくべきか。普通なら放っておくのかもしれないが、私はこのとき気づいたのだ、私たちはお互いのことを知らなすぎる、と。共に生活をしていくなら、少しずつ歩み寄るべきである。私は、こういうことには不慣れであるが。
「なまえくん」
 家事を一通り済ませたなまえくんが、私の隣に座ってくるのはもはや当たり前となっていた。なにを話すでもするでもなく、ただソファに座って落ち着くだけ。前に理由を訊いたことはあるが、適当にはぐらかされてしまった。
「はい? どうしました?」
 普段はなんの会話がある訳でもないので、なまえくんが驚くのも無理はないだろう。真っ青な瞳をさらにまあるくして、私の言葉を待っていた。
「その……すまない。別に故意にそうした訳ではないのだが」
「?」
「この前……泣いていただろう? 夜中に……いや、断じて覗くつもりなどなく」
 ぽかん、まさしくその言葉通りの顔をして、なまえくんは固まった。なにを言っているんだと思われただろうか。それとも私を軽蔑したろうか。やはり唐突すぎただろうか。頭ではぐるぐると考えるけれど、答えらしい答えが出ず、私はなまえくんの言葉を待つ。
 しばらくして、なまえくんはにたぁ、と意地の悪い笑みを浮かべた。くいくいを眉を上げながら、私の顔を覗き込んでくる。
「みつるぎさんのスケベ」
「なっ……」
「ただの思い出し泣きですよ。この前、泣ける本を読んだものですから」
 ぼくがそんなしおらしいことをするとお思いですか? と付け加えて、なまえくんが席を立つ。
 しかし私は……なぜだろう。彼女を行かせてはならないと思った。あれこれ考えるよりも先に体が動き、彼女の腕を掴む。なまえくんは振り返らなかった。
「それは……その。本心だろうか」
「……」
「確かに私は、人付き合いは不慣れだが……それでも、なんとなくはわかる」
 君が、嘘を吐いているということを。
 なまえくんは、なにも言わない。こちらを振り返ることも、この手を振り払うこともせず、その場に俯いたまま黙っている。時計の音だけが響くリビングの真ん中で、私たちは奇妙な沈黙にのしかかられていた。
「……ずるいひとですね」
 震える声でそう吐き出し、なまえくんは顔を上げぬまま再びソファに沈んだ。私は少しだけ手の力を緩め、なんとかこの空気と、なまえくんの心にある隠れ蓑を払拭する術を探す。結局そんなものは見つからず、なまえくんがもう一度口を開くまでそのままだった訳だが。
「淋しい気持ち……あります。お父さんもいないし。やれることをやれなかったら――ヘマをしてみつるぎさんに捨てられたらって思ったら、怖くて」
「なまえくん……」
「ぼく、無理矢理ついてきたから。少しでもみつるぎさんの役に立たなきゃって思って、でも」
 そんなこと言ったら迷惑かけるし、ここ以外居場所もないから。たまに無性に怖くなるんです――そう、絞り出すようにつぶやいて、なまえくんは再び涙を流した。
 ……そうだ。どんなに明るくとも、どんなに口達者であろうとも、彼女はまだ10代も半ばの女の子なのだ。父を亡くして間もなく、彼女曰く「女の勘」というものに従ってほとんど交流もなかった私の元に1人でいる。怖がらない訳がない。気疲れしない訳がない。不安にならない訳がない。
 この、他人よりも小さな体に苦いものを溜め込みながら、それを隠して笑い、私のこと気遣って――この子は一体、どれほどの強さを持っているのだろう。どうして私は、このことに気づけなかったのだろう。
「……君は、もう少し『頼る』ということを覚えたほうがいいな。私に言えたことではないが」
「…………」
「これから、長い付き合いになる。私たちは家族なのだから」
 これは「愛しさ」とでも言うのだろうか。溢れるそれに背を押され、私はそっとこの小さな体を抱きしめていた。
 胸元に伝わる、シャツ一枚を隔てただけの熱さは、涙だけが理由ではないかもしれない。不快感はどこにもなく、むしろ心地よさすら感じた。
「あまりうまいことは言えないが……苦しいときはなんでも相談してほしい。私も君の力になりたいのだ」
 ねいむ、と呼んだ瞬間、自分の心臓がどくりと跳ね上がったのがわかる。誰かを名前で呼ぶだなんてあの妹弟子以来だろうか、兎にも角にも久しいことだ。加えて胸のなかにある温もりも一層熱を増したようで、私の心臓はまさに早鐘である。
「……はい。レイジさん」
 いつもハキハキと元気ななまえくん――もとい、ねいむのもごもごとくぐもった声。普段なら聞き逃してしまっていたかもしれない。私以上に珍しかった。
 ……頬が熱い。じっとしているのが苦しい。しかし、下手に動くこともなぜかできない。
 お互いの鼓動が聞こえてきそうなほどの静寂に包まれた部屋のなか、8時を知らせる時計の鐘が鳴り響くまで、私たちは気まずい空気を保ったまま抱き合っていたのだった。
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