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くちびるのおく

「また笑顔の練習してんの?」
 ひょこん。団子が目立つキッチンカーの裏、飛び出すように顔を出したのはマルシェの仲間のひとり、なまえだった。客足も落ちついた昼下がりのこと、突然の襲来にリンドウは大袈裟に肩をビクつかせる。
「――なまえ、さん」
「あ、驚かせちゃった? ごめんねえ、気づいてるもんだと思ってたから」
「……いつから」
「10分くらい前から」
 ――気づかなかった!
 おのれの不甲斐なさに肩を落とすリンドウを、なまえがどうどうと宥めている。頑張ってたんじゃん、仕方ないよ、集中するって大事だよ、まるで子供でもあやすような口振りなのは、彼女が子を持つ母だからだ。もっとも、国境を超えるキッチンカーの過酷な旅で子育てなんか出来やしないので、忘れ形見の愛息子は夫の故郷に預けっぱなしなのだけれど。
「どぉれ、おばちゃんが笑顔の秘訣ってやつを伝授して差し上げましょうかね」
「おば――まだまだお若いじゃないですか」
「はっは、どうも! でもねぇ、見た目に騙されちゃダメだよ? 君みたいな真面目な子は心配だな〜」
 グイグイとその場に屈まされ、リンドウは仕方なく中腰になる。キッチンカーの向こう側、ランチやブーケガルニのけたたましい声が聞こえているそんななか、まるで密会のようなひと時は確かにリンドウの胸を高鳴らせた。ゆっくりと近づいてくるなまえの顔を直視することもかなわず、逃げるように目を逸らしかけた刹那――
「ひッ……ででででで!!」
「わ、硬い。やっぱ普段から笑わないとダメだね、表情筋カッチカチじゃん。うちの旦那そっくりだわ」
 細い指に強張った頬を揉みほぐされ、リンドウは情けない悲鳴をあげた。
 ああ、なるほど、手が届かないから屈まされて、あまつさえ顔を近づけられたのだ。ひどく真剣な様子のなまえを前に、邪なことを考えたおのれを恥じるリンドウは、おそらく拘束されていなければ今ごろ刀に手を伸ばしていただろう。
 良い具合に揉みほぐせたのだろうか、出し抜けになまえの手が離れる。満足気に笑う顔はリンドウの憧れるそれに似ていて、どうすればこのように笑えるのか、柔らかくなった頬を見様見真似で緩めてみる。ぎこちないリンドウの笑みを見て、なまえはおかしそうに肩をすくめた。
「まあでも、そうやって揉んでたらちったぁマシになると思うよ。経験者は語る」
「あ……なまえさんも、昔はこんな感じだったんですか」
「んーん、違うよ、旦那のほう。あの人も今の君みたいに、いや、もしかしたらもっと酷かったかもしんないね! 出会った頃は能面みたいな顔してたもん。……ほら、こぉんな顔」
 亡き夫の顔真似は、これぞまさしく能面といった具合であった。明日は我が身かと背筋を凍らせる反面、形容しがたい感情がリンドウの心を蝕んでゆく。それは言うなればみにくい嫉妬心であり、彼女と触れ合い少しずつ、特別な想いを抱き始めているからこそだ。
 穢れた感情を振り払いつつ、リンドウは再びなまえを見る。普段の表情豊かな彼女からは想像もつかない仏頂面は、確かに彼女の夫そのままの顔をしているのだろうと思う。きっと何年もまっすぐに、真摯に、何よりも熱心に見つめてきたからこそ、こんなにもそっくりに真似られているのだ。
 もちろんリンドウは彼と顔見知りではないし、彼女から話を聞くだけなのだけれども、それでも彼女の一挙一動がすべてに説得力を与え、そして愛おしさを醸し出した。今も一途に彼だけを想う、強くて甘ったるい恋心を。
 再びよみがえる黒いもの。それはしっかりと形を持ち、リンドウの薄い唇から今にも溢れ出さんとした。
「……呼び捨て、なさるんですね。なまえさんも、誰かのことを」
 彼女は敬称を忘れない。フェンネルくん、ユーカリちゃん、マジョラムちゃん、ミツバちゃん。呼び捨てしているところなんてほとんど見たことがなくて、もちろん自分も「リンドウくん」のまま、それが変わることはなかった。悲しい事実が無性に悔しくてはみ出たひと言が、今更になってひどい羞恥心をあおる。よりによって未だ想う故人相手に何を思うのかと、不躾にも程があると衝動のままこの場を立ち去ることすら頭をよぎる。
「そりゃまあ、家族だからね。私たち」
 けれどもその葛藤も、家族という垣根を超えたく思うおのれの無粋さを前に、音を立てて崩れていった。
 好意は人を狂わせる。謝罪の言葉すら吐けないまま、リンドウはその場に立ち尽くした。

20180420
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