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ないよ、ないない

「ああ、もう、仕方ない子だねえ」
 2日ぶりに泊まる、屋根のある宿。雨が凌げてよかった。しとしとと静かな雨が降り注ぐ音をかき消すように、部屋の中に威勢のいい声が響く。
 軋むような音を立てる粗末な椅子から立ち上がり、いくつも上背のある男の髪をかき混ぜてからりと笑う、彼女の名前は「なまえ」といった。雪の国・スノウフィリアにて酒場を営む家に生まれた彼女は、とある経緯から彼ら――鳴音の国・リビットの王子ビッキーと、カエル王国の王子ケロタの旅に同行している。
 経緯といっても特に複雑なものではない。なまえの歌の噂を聞いた2人が彼女の酒場を訪れ、そして2人を放っておけなかったなまえが旅の同行を求めた、ただそれだけだ。
 随分とフランクに、かつ軽いノリで始まった3人旅であったものの、家の手伝いで鍛えられたなまえは実のところ旅への適性が高かったらしい。毎日しこたま働いていたおかげで体力はあったし、若さゆえの回復力は野宿の多い今となっては貴重と思えるものだ。ありものを使った料理のスキルも申し分なく、巷で言う「おふくろの味」を感じさせる彼女の味つけを、ビッキーもケロタもひどく好むようになった。大人相手に揉まれてきただけあって、どの街にたどり着いても物怖じすることがない。そこも大事なポイントだろう。
 もちろん彼女の母性的な面は料理のみならず、むしろ所作や性格によるところが大きかった。蓮っ葉でさっぱりした気質は誰に遠慮をさせることなく、どこへでも溶け込めるだけの空気を彼女はまとっている。
 ゆえに、なまえと出会ってからのビッキーはよくこうして彼女に甘やかされていた。撫でられたり、抱きしめられたり、添い寝や子守唄をねだったり。まるで母と息子のように、年齢を逆転させた関係を築いているのだ。
 それが、お互いにひどく純粋かつ歪な感情の延長線上にあるということは――もしかすると、ビッキーの友人であるケロタですら、気づけていないかもしれない。
「なまえのしゃべり方って、なんていうか……少し特徴的、だよね。ずいぶん大人びてるって感じ」
「そうかい?」
「確かに! 肝っ玉かあちゃんってふうだな」
 ケロタの軽口をビッキーが諌める。まだ10代そこらの少女に肝っ玉かあちゃんはないだろうと、肩に乗るケロタをつついた。ケロタがふん、と鼻を鳴らす。けれどもなまえはさして気にした様子もなく笑っていた。
「あはは、別にいいんだよ。これねえ、母親譲りなんだ」
 ケロタの言う「肝っ玉かあちゃん」は、あながち間違いではなかった。酒場に立ち寄る荒くれたちに揉まれ続けた彼女は、齢15ながらも口調に違わぬ気前の良さを備えているし、母性の象徴とも言える胸は年齢不相応に実っている。「客のウケがいい」という理由で胸元の大きく開いた服を着ているあたり、その気性がわかるだろうか。
「ま、その母親も男作って出てっちまったんだけどさ。だからあたしが代わりに手伝ってたってわけ。歌も歌ってね」
「え――」
「そのおかげであんたらとも出会えたから、別に気にしちゃあないけどさ」
 ビッキーの柔い髪から手を離して、なまえは小さくウインクをする。撫でるついでに乱したそれは、元通りに撫でつけておいた。
 王子の身分と下町の生まれとあっては、いくら男女とはいえ彼のほうが髪質は整っているし、丁寧に手入れをされていただろうことは触れるだけでもわかるのだ。ゆえに、なんとなく、乱れさせたまま放っておくのは気が引けるのである。指を通すたびに心地よい香りを漂わせるビッキーの髪が、なまえはひどく好きだった。この行動に意味を見出しているのは、なにもビッキーだけではないのだ。
「それじゃあ、君が僕たちと旅に出ちゃって、お父さん困ってるんじゃ――」
「ないない! 最近再婚したんだもん、むしろ清々してんじゃない? あたし邪魔者だったからさ!」
 ――邪魔者。その、どこか諦めたような響きにビッキーもケロタも反応を示す。引っ込められそうななまえの腕を掴み、ケロタはビッキーから彼女の肩に移る。逃がさない、そういう布陣だ。
「……なまえ」
 目を合わせて名前を呼ばれること、これがなまえは苦手だった。適当にはぐらかして逃げることが叶わなくなるから。まっすぐこちらを見られている。いつも相手をしていたような酔っ払った他人とは訳が違うのだ。
 嘘、秘密、孤独を抱えるビッキーだからこそ。慈愛を持って見守ることを知るケロタだからこそ。引き止める方法を知っている。
 観念したように息を吐く。言うつもりなんかなかったのになあ、そう言うなまえからは、逃げるような気配は感じられなかった。
「――代わりになろうと思ったんだよね。母親がいないぶん、あたしが何とかしなくちゃってさ。だから母親の真似してた。口調とか、客のあしらい方とか、覚えてる限りで母親になりきろうって」
「じゃあ、お母さん譲りっていうのも」
「嘘だよ。無理に真似しただけ……つってもま、今は癖になっちゃって直んないんだけどねえ」
「……なのに、お父さんは再婚しちゃった、んだよね」
「そ。義母にはなーんか目の敵にされてるっぽかったし? あたしの目を見てくんなかったんだよねえ、ぶっちゃけるとまあ、居心地は良くなかったのさ。だから――」
 あんたたちと旅に出られて、むしろ助かったわけ――そう言いながらなまえは頬をかく。本当に、こんな話をするつもりなんか微塵もなかった。言ったところで過去が変わるわけじゃないし、優しいビッキーのことだから、きっとなまえのことを気遣うに決まっている。無理に気を遣わせて窮屈な思いなんかさせたくなかったのだ。おそらく短くないだろう旅を続けるにあたって、たとえ最小限でも歪は少ないほうがいい。
 実際、今までだってなまえは故郷にいた頃とは比べ物にならないくらい、「女性」としての扱いを受けている。酒場で荒くれに下世話な話を振られていたときとは大違いで、たとえば段差があればそれとなく手を引いてくれるし、雨が振ったら上着をかけてくれるし、事あるごとに体を案じてもらえる。それが、王子として身につけたビッキーたちのエスコート。旅から旅の根無し草なんて思えないくらいの毎日には、時折り背中がくすぐったくなるときもあるくらいだ。
 相手が王子であるということを抜きにしたって身に余る待遇を受けているというのに、よもやこれ以上に何を望むというのだろう。我慢するのは慣れている。耐えることだってお手の物だし、体も心も丈夫に産んでもらったのだ。だから大丈夫。――大丈夫、なんだから。
「なんであんたがそんな顔するんだい」
 するり、アンティックゴールドの髪に指を絡める。そんな顔をさせたかったわけじゃないのに――努めて明るく話したつもりであったけれど、それもあまり効果はなかったのだろうか。長い前髪の隙間から、揺れるようなビッキーの瞳が覗く。頬に触れてくるケロタの手のひらもどこか気遣うような動きをしていて、嬉しいのに申し訳なかった。
 泣きそうな顔をして笑うビッキーが、いつもとは逆になまえの体を抱きしめてみせる。普段はなまえのほうがこの大きな甘えん坊を抱くほうで、慣れない感触にむず痒さを感じてしまい、なまえはもぞもぞと体を揺らした。離してなんて言える状況でもない。ぎゅう、と力のこもる腕は、いつも甘えたようにしてくるそれとは打って変わってたくましい。
「……僕は好きだよ。なまえのその話し方、なんとなく安心する」
「ワシも嫌いじゃないぞ、それも含めてなまえだからな」
「うん。……僕じゃ説得力はないかもしれないけど、全部ひっくるめたなまえのことが、僕は――」
 言いかけて口をつぐんだビッキーは、ひときわ腕に力を込める。離さないし、もう言わせない――そんな思いが伝わってきた。続きを促すこともやめた。今は、まだ、聞ける自信がなかったからだ。
 邪魔者でも代わりでもない、なまえ自身を見てくれている。少ない言葉のなかでもわかるのだ、瞳と温度が彼らの慈愛と優しさを物語っているのだから。
「……ありがとね」
 ほんの少し思い出した。ずうっと昔、泣いていたとき頭を撫でてくれた父親のことを。母親と仲が良くて、まだ自分がただの子供でいられたあの日のことを。背伸びなんかしなくたって、大人の振りも要らなくて、ただありのままを受け入れてもらえた在りし日の思い出を。
 忘れかけていたあの頃を思い返させてくれたのは優しい2人の想い。拒絶も否定も強要もしない、肯定と受容の言葉。ふと視界が滲んで、ビッキーの肩口に閉じたまぶたを押しつける。
 ぬるくなった感触は、きっと伝わってしまったのだろうな。

20180614
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