LOG

逃逃逃逃逃逃、逃?

 汚いところを見られてしまった。唯一、「彼」にだけは見せたくなかった自分の姿。逃げ出したい。逃げ出したい。けれどそんなことは叶わない。逃げ出したい。逃げてはいけない。
「どうしよう……」
 枕に落ちる滴の跡は、一晩中ただ広がるばかりだった。




 自分はマネージャーである。みょうじなまえという一個人の前に、強豪・陽泉高校のバスケ部に所属するマネージャーなのだ。それは目的のための通過点ではあったけれど、自分が望んだことなのだから途中で投げ出すことなど許されない。最悪の形で遂げられた目的からは目を逸らせても、今目の前にある業務から逃げることなど自分が許さない。
「みょうじ。どうした? 気分でも悪いのか」
「あっ――大丈夫です! すみません」
「……そうか。ならいいが」
 まただ。またうつむいて考え込んでしまっていた。あたしが急いで顔をあげると、荒木監督はほんの少しだけ訝るような目で見たあと、すぐに視線をコートの選手たちへと戻す。
 ふ、と目があった。福井さんだ。なんとなくバツが悪くてすぐに目を逸らしてしまったけれど、それは福井さんも同じ。だって練習中だもの、周りばっかり気になんてしていられるわけない――と、思っていた、のに。
「福井!! ――なにをしとんじゃ、珍しい」
「気を抜くなんてただのバカアル。副主将の座、誰かに引きずり下ろされてもしらないアル」
「やかましい……ってて。おい、マネージャー!」
 ちょっと保健室頼む、と。彼は――福井さんは、思いっきりあたしを見ながらそう言い放ったのでした。



 ……なんというか。
 福井さんは、ちょっとよそ見をした隙にバスケットボールを踏みつけてずっこけてしまったと。あたしはその場面を見ていたわけじゃないけれど、思いっきり膝を打ちつけてしまったらしく1人で歩くのも難しいかもしれないと。あたしを指名したのはただ、似通った背丈なら肩を借りやすいと思っただけだと。
 彼はこの上なく簡潔に説明して、当のあたしもそこからなにか会話を広げるでもなく、つまり保健室までのそう長くない道のりのなかなんとも気まずい沈黙に包まれてしまっていると。……そういう、ことです。
(どうしよっかな……)
 だってぶっちゃけあたしたちの関係なんてただの先輩と後輩で、いってもバスケ部の副主将としたっぱマネージャーくらいだもの。そんなめちゃくちゃ親しいわけでも共通の趣味があるわけでもないんだから、特別盛り上がれるような話題なんかない。
 あたしは福井さんの好きなものなんて知らないし、福井さんだってそれは同じだし。昔のことさえなければ、きっと精神的に交わるようなことはあり得ないのだろう。
 ……だからこそ、あのときのことがこんなにも響いてしまうわけで。今のあたしは、自分がどうするべきなのかを完璧に見失ってしまっている。
「……なあ」
「はい?」
「結局お前さ、どうなの」
 少しだけ掠れたような声で、福井さんはそう尋ねる。あたしは彼の視線からも質問からも逃げ、沈黙を押し通そうとしたけれど。
 ……わかってる。いくら逃げたって、彼がずっと追いかけてくるだろうことは。逃げたって意味がないってことは。
 わかってるよ、だけど「わかってる」と「応えられる」がイコールで結べるのかと問われたなら、それとこれとは話が別だと思うの。少なくとも、あたしは。
「知ってんだろ、あのキーホルダー。夕焼けのなかバスケしたことも」
「やっ……やだなあ福井さん! そんな、人違いじゃないですか? あたしっていう確証なんて――」
「確証……とまではいかなくても。証拠ならある」
 びくん! と大げさに揺れたあたしの肩を一瞥しながら、彼はそっとあたしを離した。その顔はどこか優しげではあったけれど、有無を言わさぬ真剣さが見てとれるものだ。
 怖いけれど。逃げ出したいけれど。それをさせない彼の瞳に見つめられて、あたしはもう動けない。早鐘のごとく騒ぎ出す鼓動が、「聞きたくない」とでも言っているよう。
「昨日さ、お前言っただろ。『昔のことにすがるなんてバカみたい』って」
「…………」
「オレ。キーホルダーについて知ってるか、とは訊いたけど、それが昔のことだなんて言った覚えねえし」
「! それは……――」
「そしてなにより、」
 オレの勘がお前だって言ってる。
 そう、彼は言った。彼の鋭い猫のような目が、長い沈黙とともにあたしを射抜く。心だって体だって逃げ出せる状況ではない。かわせない。離れられない。――なによりあたしが、逃げたくないと思ってしまっていた。
「……だって」
「あ?」
「だって、だぁってぇ……!」
 ――怖かったんだもん。
 なんとか絞り出せたその言葉はまるで駄々をこねる子供のようで、相手も面食らって固まっていることがちょっとした息づかいと空気でわかる。
「ず、ずっと会いたかったんだよ? 楽しみにしてたんだよ? なのに……なのにさあ、こんな、あたし、最悪じゃん、」
 こんなのってない。こんなのってない。こんなのじゃない。あたしが思い描いてた再会はこんなのじゃない。
 もっとキレイで爽やかで、たとえるなら少女マンガのワンシーンみたいなものだった。そのためにずっと頑張って、前を向いてやってきたのに、あたしは自分でそれを壊してしまったんだ。
「バカみたいじゃん、あたし……」
 あたしは……あたしは、こんなのがほしかったわけじゃないよ。


「…………いんじゃね」
「……?」
「別に出会いにこだわんなくてもよ」
 細く長い息を吐いて、福井さんはそっと目を伏せる。コキ、と小さく首を鳴らし、あたしの髪をめちゃくちゃにかき混ぜた。
「最初がマイナスならこれからプラスになるだけだって」
 例えるならお兄ちゃんみたいに。あたしは長女だからわかんないけど……そう、幼なじみの彼みたいに優しい顔で、福井さんは笑いながらそう言った。乱れた髪もそのままに、さっきとは別の意味であたしは彼から目が離せなくて。
 どうして、なんでそんなに優しいのって訊いたら、福井さんはただ一言「お前も可愛い後輩だからだよ」とだけ言って、もう一度あたしの肩に手をかけた。よく見るとギリギリで胸元に触れないように気遣われていて――こんなのあたし、初めてだ。
「んじゃま、さっさとこの足治さねぇとな」
「へ……?」
「忘れたのかよ、一緒にバスケしようっつったろ」
「……あ」
 そうだった。一番大事なとこだったのに、頭からすっぽぬけちゃって。そうだね、って相づちを打ちながら再び保健室までの道を歩き出す。バカじゃねーのって笑われても、悔しい気持ちは全然ない。それよりも――
(あ、やだ、どうしよう)
 福井さんの笑顔を見たら、胸がすっごくドキドキしちゃって全然止まってくれなくて。顔まで真っ赤になっちゃって、なんかもうおかしくなりそうな。
(優しいのは、ずるいよ……)
 最悪の再会を果たしてあたしは、ひとつもふたつも飛び越えて――恋をして、しまいました。
- ナノ -