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おべんきょしましょ!

 陽泉高校から程近い、岡村の家。築何十年とも言える昔ながらの日本家屋だ。変えたばかりの畳の香りが心地よい。
 そんななか、年季の入ったちゃぶ台を前に正座させられているのはアメリカ帰りの3人組。バツが悪そうにうつむき、周りの誰とも目をあわせようとはしていない。
「おいアメリカ3人組、感謝しろよ。お前らのための『やさしい習字』の時間だ」
 いつになく威圧感たっぷりの福井は、大きすぎる後輩たちを見下ろしながらそう吐き捨てた。




 事の始まりは、つい先日に行なった練習試合の記録だった。
 いつも記録をつけてくれているマネージャーが風邪で休んでいたため、代わりになまえがその役目を負ったのである。もっともそれは、決して彼女が立候補したのではなく、じゃんけんの勝敗からなるものだった。
 そして、それがそもそもの過ちだったのだ。ミーティングのために試合記録を読み返そうとしたところ、そこに書かれていたのはまさしくみみずの這ったような文字。自分も決して字がキレイでないことは理解していた福井だが、それを踏まえたとしてもあまりにひどすぎる。文章を解読するのに時間の大半を使ってしまい、結局ミーティングらしいミーティングもできなかった。
 もしやと思って確認してみると、なまえの双子の弟であるねいむ、同じくアメリカ帰りで二人の幼なじみでもある氷室もひどい字をしていた。そのことを見かねた岡村と福井が、今日この勉強会を開いたのである。
「ワタシ、女は字の美しい生き物だと思ってたアル」
「ワシもじゃ……なまえ、これはワシよりひどいかもしれん」
「なんでオレも呼ばれたのー?」
「お前はお目つけ役。脱走されたら困るからな、ほいお菓子」
 福井に手渡されたお菓子を早速開けた紫原は、恐怖に縮こまっているなまえをチラリと盗み見る。彼女の前に積まれたノートの山が、福井たちの本気を物語っていた。
「オレより汚い字ってひどくない?」
「時間かかっても読めるならいいじゃぁん……」
「先生に注意されたこともねーしさぁ」
「オレはひらがなが多すぎだとも言われたよ……」
 アメリカにいた時期の問題で、氷室の文章にはひらがなが多い。ちょっとした部首間違いも多く、その点も福井には引っかかったらしい。
「本日の特別講師はリュウだ。びしびししごいてやっから覚悟しろよ」
「ワタシは優しくないアル」
 さすが本場というべきか、劉の字は教科書と見紛うほど美しい。とめ、はね、はらいの塩梅からは、彼自身の几帳面さがうかがえる。
「と、に、か、く! 甘えも逃げも許さないから覚悟しろよ」
 ――まるで普段の鬱憤を晴らそうとしているようだ。
 この場にいる全員がそう思うほどに、福井はこの上なく楽しそうだった。


「…………ん゛んー」
「疲れたなら休めよ、弟くん。時間はたっぷりあるからな」
 本気で逃げを許さない言葉であったが、口調はとても優しかった。ねいむの目のことはここにいる全員が知っている。外よりは気を張らずにいられる場所だった。
「……氷室はびっくりするくらい上達しねぇな」
「あはは……なかなか難しくて」
「イケメンの弱点見つけたりアル。モアラが身長以外に勝ってるところアル」
「ここでワシ引き合いに出すの!?」
 うおおおおん! という岡村の雄叫びが合図かのように、なまえが机に突っ伏した。そこそこ読めるような字にはなったものの、それは以前と比較した評価だし、とてもではないが高校生のものには見えない。
「もう無理。やる気が尽きた」
「頑張れなまえちーん」
「むーりー、頑張れなーい!」
 とりあえず、今回の目標は『自分の名前をまともに書くこと』だった。人として最低限のラインをとのことらしい。あまり一気にやりすぎてもこれからが続かないだろうという、福井の細やかな計らいだった。
「ごほうびないとやだー!」
「そんなわがまま言うもんじゃ――」
「……あったらいいのか?」
「ふへ?」
 欲しいならあげてもいいけど?
 そう、口元だけで笑った福井が言い放った瞬間。なまえの右手は、目にも止まらぬ速さで動き始めたのだった。





「……見違えたアル」
「これは……すごいのう」
「なまえちんやるぅ〜」
「やればできんじゃねぇか」
 ドヤ顔で胸を張るなまえの前にあったのは、劉ほどでなくとも美しく整った『みょうじなまえ』。ノートに書かれたその4文字は、福井や岡村、紫原よりもうまく書けていると言えるかもしれない。もちろんこの1回のみならず、数回書かせてみてもなんの問題もなかった。
「さあ健介! 頑張ったなまえちゃんにさっそくごほうび――」
 周囲が感嘆の声に包まれるなか。なまえが向き直るよりも先に、福井は右手でなまえの顎をすくった。滅多に彼女に向けることのない極上の微笑みを浮かべ、彼女の大好きな甘い声を出す。
「よく頑張ったな」
 ぴし、という音が聞こえたと。固まるなまえが見えたと、間近で見ていた氷室とねいむは語る。
 その後、周りの呼びかけで我に返ったなまえが一体どんな行動に走ったのか――その先の展開は、推して知るべし。
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