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ああちくしょう

 昼休み、運動部員に負けず劣らずの昼飯を平らげたなまえがオレや氷室の膝に乗っかってくるのはもはや日常茶飯事と化していた。いつもは無言の戦いを繰り広げたりもするが、今日は運よくオレの膝がお気に召したらしい。こいつがすりよってくるたびに周りの視線が刺さるものの、この行為自体に悪い気はしない。好きな女と触れあって喜ばない男などいないだろう。
 ただし。今日はなぜかちょっとした違和感を覚えた。柔らかな胸の感触は変わらないが、両膝に触れる太ももの主張が、いつもよりやかましいような。
「……お前。ちょっと増えたか?」
 ふと浮かんだ疑問をつい口に出してしまった瞬間、空気がひやりと冷めたのを感じた。甘い雰囲気もどこへやら、先ほどまで嫉妬や羨望に満ちていた視線も哀れんだそれへと変化を遂げている。目の前にいるなまえの瞳からも爛々さが消え失せ、ビー玉のごとくなにも読めなくなっていた。
「………………。……健介」
「あ、いや違、ッその――!」
「覚えちゃったんだ?」
「……は、」
「あたしの体。覚えちゃった?」
 むっつりスケベなんだから、といつも通りの誘うような目を向け、つうと人差し指が頬をなでる。……相変わらずだ。いつものなまえだ。こいつはちゅう、とオレの首筋を強く吸うと、ひらりと膝から離れてオレに背を向けた。
「さて! あたし次体育なんだよね、そろそろ準備に行かないと」
「気をつけるんじゃぞ」
「ずっこけんなアル」
「なまえちん何気にどんくさいよね〜」
「まあそこも可愛いじゃないか」
「もー、みんな好き勝手言いすぎ!」
 監督に頼んで練習メニュー倍にしますよ、だなんて死刑宣告のような捨て台詞を残しながら、なまえは足早に人混みの中へと溶けていった。……あいつが去っても、オレはまだ白い目を向けられたままだったが。




 一言で表すなら「ため息が増えた」だろうか。好きな女のことなんてそりゃあ意識せずともついつい目に入ってしまうわけで、あれから1週間、なまえは目に見えてため息の数もぼーっとしていることも増えたと思う。
 一応オレだってあの言葉が失言だということには気づいているし、謝るなり埋め合わせをするなりしたいとは思っている。だがそれをするにも近づけないのが問題だ。メールをしたって返事は来ない、電話をかけても出てはくれない。部活中は最低限の会話しか――ってこれはいつも通りか。この広い学校ではすれ違うことすら無理難題を極めるから、頼みの綱はバスケ部レギュラーと一緒に過ごす昼飯時なのだけれど、最近のあいつはそれにすら顔を出さない。
 ……そうだ。避けられている。オレは避けられているのだ。他のやつらにもそうなのかと思いきや、氷室やアツシにはいつも通りに接している。つまりはオレだ、オレだけなのだ。
(あンのアバズレ……!!)
 せめて謝る機会くらいよこせ! というオレの怒りなぞ露知らず、あいつはいつものごとく、クソ真面目に黙々とマネージャーの業務をこなしていたのだった……が。
「なまえ! 大丈夫!?」
 バスケットボールが跳ねる音、バッシュが床を滑る音、オレらに指示をくだす監督の怒鳴り声。いびつな音色の重なりあうこの体育館に、不釣り合いな音が響く。端から端まで届いたそれの発信源は、今まさにオレが苛立ちを募らせている相手であって。
 普段のオレなら、監督に負けない大声で怒鳴りつけていただろう。練習の邪魔をするなと、氷室曰く八つ当たりに近いレベルの怒りをぶつけていたろうな。だけど今日だけは話が別だ。先日のことを謝るこの上ない機会だし、なによりこいつが部活中にぶっ倒れるだなんて、よっぽどのことなのだろうから。
「福井先輩、」
「大丈夫だ。氷室、あとちょっと頼むな」
 至極心配そうな顔をした氷室を制し、ぐったりと力の抜けたなまえを抱き上げる。ぐ、と両手に力を入れた瞬間に覚えた違和感はなるほど、お前が原因だということをなによりもはっきりとオレに伝えてきた。
(そういうことかよ……)



 体育館と保健室はむちゃくちゃ距離があるわけではないけれど、ここまで弱った人間がいるなら話は別だ。無駄に広い中庭を突っ切った最短距離で行くしかない。少々バッシュは汚れるが、まあ、これくらいなら問題はないだろう。
 運がいいのか悪いのか、ようやっとたどり着いた保健室の主は席を外しており先客もいないようだった。とりあえず一番奥のベッドになまえをぶちこみ、適当な椅子を持って通路側を陣取ってやる。そんな体力が残っているようにも見えないが、万が一で逃げられないために。
「おい」
「…………」
「なんで昼飯抜いた」
「……どうしてわかったの」
「わかんないわけねーだろが! アホみてーに軽くなってんじゃん」
 なんとなく、本当になんとなくだけれど、遠目に見るシルエットにも変化があったように見えた。全体的に頼りないような、心許ないような。
 この様子だとおそらく、あれからまともに食ってはいないように見える。オレのせいだということはわかっているけれど、問い詰めずにはいられない。こちとら1週間も無視されるわ除け者にされるわで、なかなかに鬱憤が溜まっているのだ。
 だがオレがなにを言ってもこいつはだんまりを決め込むだけで、そろそろオレもプッツンしてしまいそうである。はっきりしないのは正直嫌いだ。こうなったら無理矢理にでも吐かせようとなまえのすっこんだ布団をまくってみて、まあ、オレはこの上なく後悔したのだけれど。
「なん、……泣い――」
「ッ、健介が太ったって言ったんじゃん!!」
 顔色が悪いくせに無理矢理起きあがって、肩を揺らしながらぎゃんぎゃんと騒ぎ立てるなまえはまあなんというか子供みたいにボロボロと涙を流していて。ここまでなられたらもう、苛立ちなんて感じていられない。あるのは罪悪感だけだ。
「……可愛くいたいんだもん。健介とタツヤにはずっと可愛いって思ってもらいたいんだもん! 嫌われたくないんだもん!!」
「ばっ――可愛いに決まってんだろうが!」
 普段はあんなに自信満々なくせに。軽くあしらうことだってできるくせに。誰にだって股を開くくせに。なのに、なのになんでこんな、1人で無理して黙って意地はって隠れたところでなんでもやって、
「――なんだよ。なんだよお前、なんなんだよ」
 ……こんなの。こんなの、可愛く思わないわけがねーだろうが。ちくしょう、なんか泣きそうになってきた。
「…………知ってんよ。お前が頑張ってることくらい、オレらのために見えないところで努力してることくらい」
「! …………」
「バカかよお前。10キロ太ろうが10キロやせようがんなもん変わんねーし、つーかそんなことくらいで嫌いになったりしねーっつのクソが」
「……健介」
「オレも……多分、氷室も。正直、お前がそう考えてるってこと自体がむちゃくちゃ可愛くて仕方ない」
「あ、あの」
「だいたいお前なんだよ、ああもうちくしょう好きだ、好きだよ。あークソ、揃いも揃ってベタ惚れ――」
「待って!! ……あっ」
 ……ちくしょう。
 暴力女め、この距離で突き飛ばしたらひっくり返るに決まってんだろが。突然のことだし受け身らしい受け身をとれるはずもなく、オレは無様に椅子からひっくりこけた。つーか照れたのかなんか知らねーけどオレぁ仮にもスポーツ選手だぞもっと丁重に扱えやマネージャーだろテメェ!
「ごめん……」
「納得したかよ」
「……うん。ありがと」
 そうだよ。お前はそうやって、笑ってるのが一番可愛いんだよ。笑ってるお前を見るたびに、オレも氷室も触れたくてたまんなくなってんだ。もちろん今だって変わんねーよ、だってお前可愛いんだもん。
 誰もいない密室の、ベッドの上で、好きな女の子が笑ってて。正直なんか、持つ気がしない。まあ一応相手は病人だし、誰が来るともわからない学校だし、心配した氷室が追いかけてくる可能性だってあり得る。だから最後までするのはさすがに控えるけれど、ほんのちょっと、つまみ食いくらいは許されるんじゃないだろうか。
「あっ……ダメ! 健介、」
「うるせえ。じっとしてろ――!?」
 ……なんて、そんな甘い考えは甘い空気をぶち壊す腹の音に阻まれたのだが。
「えへ……ほっとしたらお腹すいちゃった」
「……そーかい」
 花の下より鼻の下とは、まさにこのことなり。
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