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面白いよね

 大広間の片隅で、机の上に置かれた皿の、真ん中に鎮座する三角の物体をぷすり。確か「フォーク」と言ったこの食器は、こういったおやつを食べるのに適していた。
 今か今かと、まるで親鳥を待つ小鳥のように落ち着かない妹へ、ひとくち。あーん、を合図にして小さな口へ放り込むと、なまえは一瞬にして瞳をきらりと輝かせた。
「美味しい?」
 そう訊ねると、口をもごもごと動かしながらも確かに頷いてみせる。うんうん、と何度も頷きながら、どこか幸せそうに耳がひくひくと動いていた。
「これ何?」
「“チーズケーキ”っていうんだよ」
「“ちーず”……」
 その言葉を、味覚と共に覚えようとしているのだろうか。二口目を少しだけ疎かにして、なまえは考え込むような素振りを見せる。こんな味、こんな食感の食べ物なんて、あの時代には存在すらしていなかったし、まず俺たちは食事自体に馴染みがない。触れるもの、味わうもの、そのどれもが“初めて”だ。
 そのことを思えば、なまえのこの行動にも違和感はない。何より、彼女の行動ひとつひとつに、身に覚えがあったから。俺も他人が見ればこんなふうに微笑ましかったのだろうか、なんてことが頭を過ぎる。
「気に入った?」
「まあまあ」
 もっとも、俺はここまでひねくれてなどいなかったけど。
「なまえはチーズが好きなのかな。美味しいよね」
 猫は魚が好きと聞いたから、てっきり彼女もそうだと思っていた。否、確かに昨夜の焼き魚も目を爛々とさせながら食べていたけれど。今の彼女の喜びようは、昨夜の比ではないように思える。相変わらず俺と目をあわせようとはしないけれど、真っ白な睫毛越しでもわかる程度には、瞳が躍っているような。
 なるほど、そうか。なまえはチーズが好きなのか。これから、おやつにはチーズ類を増やしてもらおう。
「母さんの手作りらしいから、余計に美味しいのかもしれないよ」
「てづくり?」
「そう。なまえが頑張ったら、たくさん作ってもらえるんじゃないかな」
 たくさん作ってもらえる、という一言に反応したのだろうか。赤い耳がぴん! と大きく立つ。
 どうやらこの子は、意外と物で釣られる性質らしい。なんだかひとつ賢くなった気がする、困ったときに使えそうだ。
「あとは自分で食べられる?」
「やだ」
「無理」でも「出来ない」でもなく「やだ」とは。どこまで態度が大きいのかと思ってしまうが、世話を焼くのは嫌いじゃない。これがなまえなりの甘え方なのかと思うと、ついつい甘やかしてしまう。
「食べ終わったら、ちょっと馬を見に行こうか」
「うま?」
「そう、馬。これから、戦でたくさんお世話になるかもしれないからね」
 三口目を放り込むと、なまえはあからさまに嫌そうな顔をしながら、未知の甘味を咀嚼していた。




「そんなに警戒しなくても大丈夫だって」
 後ろに隠れて出てこないなまえに苦笑いをこぼしつつ、鯰尾が頭を並べる馬を順番に撫でていく。王庭、三国黒、松風。現在3頭いるらしいこの本丸の馬たちは、主人の言うことをよく聞くたいへん聡明な者揃いだった。
「噛まない……?」
「噛まない噛まない、平気だよ」
 そろり。鯰尾の背後から、そっと王庭に手を伸ばしてみる。頬を撫でようと背伸びをしたところで、王庭の舌がべろりとなまえの手のひらを舐めた。声にならない声で叫び、なまえがその場にしゃがみ込む。
「なまえの緊張を解そうとしてくれたんじゃない?」
「こんなのいらないよぉ……」
 縮こまって涙目になるなまえの背中を、鯰尾がぽふぽふと撫でた。ふと、あの眠れなかった夜を思い出す。世話を焼くのが好きだと話す通り、鯰尾は人の緊張を和らげたり、警戒を解いたりするのがうまかった。現に、なまえもこうして鯰尾に絆され、甘え、傍にいるのを心地良く感じている。穏やかで優しげな兄である、それが鯰尾の、鯰尾たる所以なのかもしれない。
 しばらくうずくまったままでいると、鯰尾に顔を上げろと促される。そこには、何やら樽のようなものにこんもりと盛られた物体があった。訝しげな小鶴枝に、鯰尾が正体を伝える。
「あれね、馬糞だよ」
「ばふっ……」
「すごいよね。糞なのに、捨てるわけじゃないんだ」
 敷料とあわせて、堆肥にする。馬糞のおかげで、畑が良いものになるんだよ。そう続ける鯰尾を、小鶴枝は視線で促した。
「人間って面白いよね。ゴミかもしれない物だって、再利用して、巡り巡って自分たちの利益にするんだ。みんなが繋がってる感じ、なんかあったかくていいよね」
 ふと見上げた鯰尾の顔は、太陽を背にした柔い微笑み。それはなまえとは正反対に、人が好きで仕方ないとでも言いたげだ。人の暮らし、人の営み、人の心の機微を愛しているような。誰かに寄り添い生きてきた、彼でなければ出来ない笑みだった。
「それに、馬糞は嫌いなやつに投げても楽しいし」
「なまぞうにも、嫌いなひととかいるの?」
「そりゃあもちろん! あわないなーって人はいるよ、こんな集団生活だし」
 あんな顔の出来る人でも、好きになれない誰かがいるのか。人の心とは難しい、そして、それを自分が手に入れたことへの戸惑いがより一層強くなった。
 何より、誰に言ったかもわからない鯰尾の「嫌い」という一言にさえ揺れてしまうこの胸の痛みが、今のなまえをひどく苦しめていた。
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