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ああ、炎が。

 あつ、い。
 ぽつりとこぼしたその一言が、敵と対峙する最中の、いやに静かな地下の空気に反響する。鯰尾たち第一部隊の面々が、彼女の呟きという名のSOSに気づいて振り返った頃にはもう、なまえはその場に膝をついていた。
「う゛ぇっ……」
 泥だらけの地べたに突っ伏し、吐き戻しはしないものの何度も咳いて、えずくことを繰り返す。あんなにも煌めいていたはずの鶴髪が濁った色に見えるのは、地下の薄暗さゆえか、泥が付着しているからなのか、それとも。彼女の機嫌に引っ張られて好き勝手動く耳と尾も、今となっては力なく垂れ下がっている。
 ふ、と鯰尾がなまえに駆け寄り、首筋に触れて、すぐに引っ込めた。剣戟が耳の遠くへと消える。粘着いた汗で濡れそぼったそこが、信じられないくらいに冷え切っていたからだ。きっと、汗だけが原因ではない。彼女の様子を見ればわかることだ。
 今、なまえはあの日の記憶が蘇っているのだろう。トラウマと、フラッシュバック。燃え盛る炎が迫るあの光景が焼きついて離れない、そしてそれはこの鯰尾も同じである。情けなくも震える手足が、忙しなく逸る鼓動が、その何よりもの証拠だ。現に、大坂城にたどり着くまで何度も獅子王たちに顔色を心配されていた。
「なま……ぞ。どこ……」
 暗い、こわい、そう譫言のようにつぶやく。何も見えていないのだろうか。力のない手を取ると、お互いの震えが少しだけ治まったように思う。小さく名を呼べば、なまえはゆるゆると顔を上げた。
 刹那、鯰尾の視界にも鮮明に蘇る「炎」。なまえの瞳に宿る揺らめきが、記憶の奥の奥の奥に封じ込めたはずのあの熱を指先の感覚ひとつすらこぼさずに呼び起こす。逃げ場もなく迫り来る恐怖を、少しずつ蝕まれる体を、声にならない声に誰が気づくこともなく、目を覚ませば「何か」がすっぽりと抜け落ちていた。
 何もかもが明確に、そして克明に蘇る。込み上げる吐き気に口元を押さえた、その一瞬のことだった。
「あッ……おい、鯰尾! 後ろ――」
 敵の凶刃が、2人を狙って振るわれたのは。




「……やはり、無理矢理にでも止めておくべきだった」
 薄暗い廊下の隅にて、手入れ部屋を隔てる障子を見つめながらねいむが苛立ち混じりにつぶやく。自身の判断ミスを嘆いているのか、眉間に手を当てて唸っていた。
「俺も、まさかあいつら自らが立候補するとは思わなかったな」
 ねいむに寄り添うようにして立つ薬研も、兄妹の意識の変化を理解しきれていないのか。同じようにうつむいて、眼鏡の向こうにある双眸を苛立ちに染めている。
「鯰尾も、なまえも言い出したら聞かない質だ。私の認識が甘かった……こんなことになるくらいなら、布団に簀巻きにしてでも行かせるべきではなかったのに」
 意志をねじ曲げて恨まれるほうが何倍もマシだった、そうねいむが続ける。
 獅子王や燭台切に負われて帰ってきた2人は、折れていないのが不思議なくらいの重傷だった。あと少し遅ければ、当たりどころが悪ければ最悪の事態になっていただろう。最悪の戦場だったおかげか、時折手入れ部屋から魘されるような声が聞こえる。心身共に衰弱している2人を、再び向かわせるのは酷だろう。
「幸い、俺を含め残りの4人は目立った傷もない。あいつらが目を覚ます前に出ることも可能っちゃ可能だぜ、大将」
 助言を受けて、ねいむが考え込む。再び戦に向かわせる躊躇い、2人の思いを無下する後ろめたさが襲うが、審神者としては時として非情であらねばならない。命という犠牲をなくすために、心の犠牲を払う。それを、迷ってなどはいられない。
「……作戦を練り直す。薬研、手伝ってくれ」
「ん」
 すまない、と手入れ部屋の2人に頭を下げる。彼らの思いを振り切りたいのか、いつもより少しだけ早足で、ねいむは私室へと向かった。
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