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こんなことすら

 俺がこの本丸で呼び起こされたのは、粟田口の兄弟のなかでもかなり後のほうだったと思う。
 本丸全体で見ても2番目に古株であるという乱と、主さんと特に親しい仲であるらしい薬研を筆頭に、弟たちから人としての生き方を教わった。箸の使い方、夜の眠り方、汚れたら洗わねばならぬということ、食べねば力が出ないということ。そういえば今までの主は当然としてやっていたな、と頭の隅で思いながら日々を過ごした。人の体は窮屈だが、五感があるとは楽しくもある。視て、聴いて、嗅いで、触れて、味わい、感じる。刀を交えれば傷ついた。傷つけば痛みを得た。痛みが積み重なれば体は地に伏せた。長い時を生きたつもりだったけれど、それでもこんなにたくさんの“初めて”に出会える。人も悪くはないものだ。
 そうして、なんとか本丸での生活にも慣れてきた頃だろうか。また粟田口の新入りがやってきたらしく、なんとその兄弟はこの本丸で初めての“刀剣女士”なんだとか。女性に所以のある刀のようで、目覚めさせた母さんが一番驚いていたらしい。
 ひときわ目立つ容姿の子だから、会えばわかると乱に言われ、本丸中を練り歩く。大広間にはいなかった。刀剣男士の個室がある区画、特に粟田口の部屋が纏まっている辺りをぐるりとまわるもことごとく外れ。ならば中庭か、と渡り廊下から少し逸れると、池の近くでようやっとそれらしい人影を見つけた。
 兄弟揃いの軍服に身を包む、短刀らしく小柄な背中。陽の光を反射して銀色に煌めく髪に、思わず目を細める。鶴髪のなかで主張する、血よりも赤い猫耳がひくりと動いた気がして、思わず足を止めてしまった。俺の足音を聞きつけたのだろうか、彼女はゆっくりと俺のほうを振り向く。
 刹那、まるで時が止まったかのような錯覚に陥った。頭髪の白に負けないくらいの雪のような肌と、俺とは正反対の、まるでこの世に飽いたような空気を纏う瞳。その双眸は複雑な色を宿し、瞳孔付近は真紅とも言える紅だが、所々に黄色や白、炎を思わせる揺らぎを湛えている。胸の内がどくりと跳ねた。それは、忌まわしい記憶が呼び起こされたせいなのか、それとも、この胸にぽとりと落ちた違和感によるものなのか。わからないけれど、その理由を我が身に問おうとした途端、頭の奥がちくりと痛む。
 俺は、彼女を知っているような、否、知らないような。初めて会った気がするのに、どこか見覚えがある気がする。それを、口に出してはいけないと思ったのに。
「君は……?」
 口をついて出た一言が、思わぬ衝撃を生んだ。見開かれた炎の瞳が、それを掻き消すような悲しみに染まったのだ。俺の浅はかな問いに揺らいだ彼女の表情が、怖いくらいに瞼の裏へと焼きついた。




 例の妹の名は、「なまえ」というらしかった。雪よりも白い髪、血よりも赤い耳と尻尾、燃え盛る炎を瞳に閉じ込めた、神秘的な容姿をした短刀の女の子。その耳の如く気まぐれな気質を持った彼女は、どういう所以か世話係として任命された俺にもツンケンした可愛くない態度をとってきた。
 少しだけ蘇ったような、ぼんやりとしてあやふやな記憶をふと辿ってみる。彼女は昔からこうだったろうか? 確か、織田でいたときに短期間ながら彼女も一緒だったと思うんだけど。思い出そうとしても思い出せない、読んで字の如く焼け落ちた記憶。そのなかになまえに関わるものも含まれているのだろうか、チリチリと痛む頭を抱えながら、気づけば夜も更けて良い時間となっていた。
 思い出せない事実に微かな苛立ちを感じながらも、とりあえずこのまま起きていては明日に差し障るだろうと、布団に身を横たえる。ふかふかであったかい綿と羽毛の塊は、昼間めいっぱい干しておいたおかげでお日様の匂いがしていた。柔らかな香りに身を寄せ、委ねる。気が抜けたのか、どっと疲れがきた気がした。
 しかし程よい微睡みに浸っていても、刀としての性だろうか。人の気配には敏感なようで、途端に意識が覚醒する。だが障子越しに、月明かりによって映し出された人影は敵意のあるものではなかった。小柄な体格は短刀のもの。そして、人の体としては不適切な、頭上でひくつく3つ目と4つ目の耳が、それが誰かを教えてくれる。障子を開いて招き入れれば、彼女は俯いたまま部屋へと足を踏み入れた。
「眠れない?」
 問うても答えは返ってこない。ただ、服の裾をキツく握り締められるだけ。明かりに背を向けているせいか、なまえの表情もわからない。ただ、なんとなく手が震えていることだけは感覚的に理解していた。
「……ほのおが」
 何の返答もなければ、動くこともない。どうしたものかと頭を悩ませていると、なまえが一言、ぽつりと呟いた。この静まり返った半宵でなければ、聞き逃していただろう。沈黙と、震える手を握ることで、彼女に続きを促す。
「ほのおが、くる。目をつぶったら、熱くて、怖いのが、きて、っ」
 その先は、もう言葉にならなかったようだ。涙に詰まって肩を震わせる姿は、ひどく痛々しく見える。手を離すと弾けるように顔を上げ、怯えたように見つめてきた。
 ひと回りも小さな体を抱きしめることに、躊躇いがないわけではなかった。そうすることで助けたかったのは、彼女ではなく自分だったのかもしれない。華奢で柔らかい女の子は、俺が一言「大丈夫」と声をかければ、声をあげて泣き出した。腕の力を強めると、なまえもまたそれに応えるように、俺の背に腕をまわしてくる。こんなことすら忘れていたなんて、焼けた記憶がもどかしい。
 瞳を閉じるとよみがえる火中の風景。500年以上も昔の話だ。とある初夏のこと、攻め入られて、俺たちは焼けた。そして、「焼けた」のは、俺たちだけじゃなかった。この子はあのとき、焼失したやけたんだ。
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