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無題

「兼さん! 裾、ほつれてるよ」
 ぼうっと本丸の縁側に座り込み、何をするでもなく青空を眺めていたときだった。ふと耳に入る聞き慣れた声に、自然と意識が引っ張られる。
 直すからちょっとだけ待っててね。そう告げた堀川国広は、まるでかしずくように膝をつき、和泉守兼定の羽織へと手を伸ばす。彼がマントのように身に着けているそれは、かつての2人の主が所属していた新選組のトレードマークとも言える、高く深い空の色をしていた。
 懐から取り出した携帯用のソーイングセットを開き、つい、と手際よく針と糸をすべらせる。女顔負け、人間顔負け。まさに押しかけ“女房”と言うに相応しいその動作から、わたしは目が逸らせないままだった。
 程なくして和泉守兼定と別れた堀川国広は、やはり休憩など入るわけもなく。同じ堀川派のふた振りである、山伏国広と山姥切国広の元へと駆けた。
 先程より距離があいたおかげで声までは聞こえないが、何やら呵呵と笑う山伏国広と、どこか腰の引けた山姥切国広の姿がうかがえる。堀川国広は背を向けているので表情まではわからないものの、兄弟の様子を見るにやはり楽しそうにしているのだろう。しかし一瞬で顔つきが変わり、なるほど次の出陣の話を始めたのか。戦の前にまとうものと同じ空気が、離れたこの縁側まで伝わってきている。小さく頷き場を離れた3人の横顔は、まさしく刀を思わせるそれだった。
 人を斬るもの、命を狩るもの、そして守るもの。そう、彼らはわたしとは決定的に違う。生き物なのかも危うい、そう呼んでいいのかもわからない。時には畏怖すら抱かせる彼らの根底には、いったい何が――
「主さん」
「うひょい!?」
 す、と音もなく現れたのは、さっきからずっと視線で追いかけていた堀川国広である。気を抜きすぎていたせいか大袈裟に飛び上がってしまい、もう少しで縁側から落ちくれるところだった。
「そんなに驚かなくてもいいじゃないですか」
「だ、だってきみさぁ。ここでまで気配消すのやめてくれないか」
「闇討ち、暗殺、お手の物。ですからね」
「答えになってない!」
 いそいそと隣に座り込む堀川国広から顔を背け、足元の砂粒を見つめた。この本丸にも、世界にすらも数多存在するこの粒の集まりは、あれば助かるがなくても別に困らない。――きっと、わたしもそれと同等なのだ。
 審神者としても、1人の人間としても取るに足らない、替えが利く言わばその場しのぎ。永遠とか無二とか、誰かにとっての唯一とか、特別とか、そんなものを期待するだけ無駄なのである。自分より優秀な人材も、美人も、賢人も何人もいて、だから――
「わたしが居なくても、きみが居ればここはまわりそうだ」
 だから、あいつにだって愛想を尽かされたんだ。
「主さん?」
「きみはすごいな。みんなの服ひとつだったりコンディションだったり逐一把握してて、掃除も洗濯も何だって出来る」
「……それは」
「わたしは……わたしには、秀でたものなんて特にないし。せいぜい刀剣男士を目覚めさせるくらいで……いや、それももっと上がいる、か……」
 情けない。こんな、愚痴を吐いて、八つ当たりにも似たことまでして。情けなくて、恥ずかしい。近頃はもう、ずぅっとこんなのばかりだ。
「僕があれこれ働くのは、傷心中の主さんが少しでも休まるようにですよ」
「!」
「ゆっくり休んで、元気になって。そうしたら、主さんの笑顔が見えるかなって」
 笑った顔、きっと可愛いですよ。ね?
 弾かれたように体をひねり、堀川国広を見やる。そこに居たのは、和泉守兼定の押しかけ女房でもなく、世話焼きの小さな兄弟でもなく。刀を依り代として生まれいでた付喪神、姿を持った刀剣男士の姿だった。
 射抜くような眼光を受けて時がとまる。発光するような浅葱色の瞳はゆるく細められ、薄い唇が笑みをかたどる。待って、そう告げる間もなく、端正な顔立ちはもう吐息がかすめる距離にまで迫っていた。これは逃げるに逃げられないと告げる本能に従い、きつく瞳を閉じて一拍、二拍が過ぎ――
「……なんちゃって」
 こつん。額を軽くぶつけられ、堀川国広の気配はすぅと離れた。腰を上げ、大きく伸びをした彼の輪郭が逆光となって浮かび上がる。
「主さん、意外とウブなんですね」
 くすくすと笑う堀川国広は、どこか妖艶さをまといながらこちらを見下ろしてくる。小さく首を傾げて笑むその蠱惑的な動作は、ようやっと自由になった体が無意識に後退りを始めるほどだった。
「いくら刀とはいえ中学生相手にそれはアウトなんじゃ」
「えぇ? やだな。僕らの時代じゃ14なんて、もう立派な“女”でしたよ」
 こともなげに吐き出されたその言葉は、一見聞き逃してしまいそうになるほど自然に、そしてひどく爽やかに生々しい響きを持っていた。
 唖然とするわたしを一瞥して微笑み、堀川国広は「行ってきます」のひと言だけ残して去っていく。そうしてようやっと気づくのだ、これが出陣前の挨拶であったことに。前回まではもっとのほほんと、のんびり話していただけだったのに、今日はまさか、なんということだろう。
 ――次も、こうなるのだろうか。もしかすると、帰ってきた途端にまた、あの浅葱色に絡めとられるのかもしれない。疑惑や疑問は足元から、ずるずると体を這うように湧き上がってきた。


 このときのわたしは気づかなかったのだ。これこそが、刀剣男士・堀川国広の策略の始まりだったということに。
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