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そんなこと、したい

「なまえさん、ねえ、キスしようか」
 それは、なんてことない食後のことだった。
 久しぶりに夜を共に過ごせるからと、2人でご飯をつくったりして。「お好み焼きとか楽しそうだよね」という私のふざけた提案を天ちゃんは快く受け入れてくれて、そして久々に姿を見せたのは大きなサイズのホットプレート。ほぼ新品のまましばらくしまい込んでいたものの、なんとか動作はするようで、しっかりと美味しいお好み焼きを提供してくれた。天ちゃんの腕前もあり、肉厚で濃厚ながらくどくない味わいはもしかするとお店のものにも引けを取らないレベルかもしれない。
 私はまあ、相も変わらず失敗ばかりでなんの役にも立たなかったのだけれど、天ちゃんの的確なカバーにより大惨事は免れた。呆れながらも笑みを忘れず、ひとつひとつを片づけてくれる。そんなところが私は好きだ。苦しいくらい、大好きなのだ。
 ――そして、そんな和やかな食卓を終え、2人で肩を並べつつ洗い物に勤しんでいるところだったところに落とされたのが、冒頭のひと言なのである。
「な、ッは、んん……?」
「日本語でしゃべって」
「あ……っと、え、なんで急に」
「したいと思ったから」
 ダメ?
 そう尋ねる天ちゃんの目は手元のお皿に向けられたまま。頑固なソースを落とすため、念入りに念入りにスポンジを滑らせてゆく。その何気ない動作すら美しく見えるのは、彼の持って生まれた性質ゆえか、それともただの惚れた弱みか果たしてどちらなのだろうな。
「なまえさんはさ、したくない?」
 きろり。猫のように甘ったるくも鋭い目が、私の目を射抜こうとする。
 ちょうど皿から手を離していたときでよかった、手元にあれば見慣れた惨事を招いていたはずだ。空っぽの布巾をぎゅうと握りしめ、私は顔を背けてうつむく。自分がどんな顔をしているかなんて考えたくもない、どれだけ体をよじろうと、どれだけ彼から距離を取ろうと、この顔が「したい」と言っているのは明白であるからだ。
「……ね、なまえ」
 流れていた水がとめられる。流水音の消えたキッチンは、このだだっ広い九条邸は、怖いくらいに静かになった。吐息の音も、心臓の音も、体の脈打つ音すらも聞こえてしまいそうである。
 ――いいよね。
 断定的なそのひと言へ、私に逆らう術はなく。くいと顎をすくわれれば、妖しく笑う天ちゃんと目が合ってしまう。この顔を見てはいけなかった。目を合わせたくなんてなかった。彼にするりと絡め取られれば、彼の手中に入ってしまえば、私はこの子の姉でなく、とうとうただの雌である自分をさらけ出してしまうことになるのに。
 応えるように、ねだるように天ちゃんの首へ腕をまわす。くすり、笑むような気配を感じながら、私は観念して瞳を閉じた。




 ――のだけど。
「ッ…………ほんっとムカつく!」
 天ちゃんのポケットから鳴り響いた唐突な着信音に、私たちの意識は無理やり現実へと引き戻された。乱暴にスマホを取り出して画面を確認し、あからさまに舌打ちをする天ちゃん。しばらく画面とにらめっこをしていたようなのだけれど、やがて音楽がとまったと同時にいくらか画面に指をすべらせ、再びそれをポケットへとしまい込んだ。
「……部屋」
「はい!?」
「部屋、行こう。早く終わらせてよ、ボクもそっち手伝うから」
 予備の布巾を取り出して、天ちゃんは手際よくお皿やお箸の水分を拭き取ってゆく。2人でやるより天ちゃん1人のほうがさっさと終わらせられるのではないか? そんな疑問が浮かぶほど、みるみるうちに食器は片づいていってしまった。
 反面、彼の様子を半歩下がったところで見ていた私は、どこかぼうっとしたまま、如何にしておのれを静めるかどうかしか考えられずにいる。たったひとりにペースを乱されて、我を忘れそうになって、今にも彼を求めてしまいそうで、そしてそれを覆い隠せない。どんどんと主張を強くする欲の部分から目を逸らしたくて、私は布巾を握りしめながら、ゆっくりと深呼吸をしたのだった。

20170701
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