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菓子もイタズラもないけれど

「で……出来……て、ない、」
 おかしい。嗚呼、いったいどうしてこうなったのだろう。
 キッチンはいつもと変わらず清潔でピカピカのまま、調理道具だって天ちゃんのお眼鏡にかなった高性能機器の一式だ。材料も入念にレシピサイトや初めてのお菓子作りと題した教本の通り用意したのに、なぜ私の眼下にはおぞましくも蠢いている未曾有の物質が煙っているのだろう?
 ぶすぶすと焦げ臭さを撒き散らす煙は黒く濁っていて、これは焦げているというより謎の気体を発生させているのではないかと疑わしい。その証拠に焦げ臭さはやがて異臭へと変化し、換気扇をフルにまわしているにも関わらず一向に空気の澄み渡る気配がしてこない。
 この謎の煙を抜きにしてもクッキーだったもの……もとい、物体Cは混沌を具現化したような姿をしている。黒なのかそれとももっと別のなにかなのか、とにかく一言で表すには余りある表面にチョコチップの成れの果てとも言うべき石のような物質がこびりついていて、なぜだろうか生物素材は入れていないのに微かに動いているのだ。
 幸いにも俊敏ではないので少しくらいなら目を離しても逃亡する心配はなさそうだし、もしかすると別の方面で褒め称えられるべき所業を私は成し遂げたのかもしれない。しかし私が今回作りたかったのは世紀の大発明でなくただのクッキーであって、そしてそのクッキーを贈るだろう相手が今、後ろでこの惨状を眺めているわけで、ええと、
「……少しだけ、自分の常識というものを疑いそうになったよ」
「て、てんちゃ、」
「なんの変哲もない食材からダークマターを作り出すなんて、そんなの創作物のなかだけの話だと思ってた」
 すごいね、なまえさん。
 自分の才能のなさと情けなさに俯いたままの体では、そう呟いた天ちゃんの表情が少しも読めなくて。どこか感嘆しているようにも呆れているようにも聴こえる声色だけで、私は情けなさを重ねるように涙腺が緩むのを感じる。
 血の繋がりがないとはいえ私は彼の姉であって、ステージの上なら胸を張って並ぶことの出来る自信なんていくらでもあるけれど、こと私生活においてはまったく別の話なのだ。料理も掃除も満足に出来ない、買い物だって天ちゃんにしっかり見張ってもらわないと品物を間違えたりぼったくられたりと散々な結果なのである。華々しく舞台に立つ自分との落差に涙を堪えきれなかったことは少なくないけれど、今はなんだか、粉だらけで俯く自分の姿がひどく惨めに思えた。
「――ちょっと、もう。……どうしたの」
 ふわ、と髪についた小麦粉を払う指先はとても優しかった。至極気づかわしげにこちらを覗き込む目つきは困ったように細められ、しかしどこか愛おしさを湛えているように見えるのは思い上がりでもないのだろう。私に呆れているのがわかる、けれどちっとも苦しくないのは口元が優しく緩められているせいか。私が泣いていることに気づくと、天ちゃんはほんの一瞬だけ惑うような仕草を見せたあと、ゆっくりと私を抱き寄せた。
「いつもみたいに言い返してこないから。どうしたのかと思った」
「だ……だって私、情けなくて。何やってもヘタクソで、お姉ちゃんなのに」
「別に、弟のほうが良く出来てるなんてそこらじゅうにある話でしょ。なまえさんにはなまえさんの長所もあるんだし……それに、」
 言葉に詰まったような不自然な沈黙も、ぎゅう、と腕の力が強まったことも気のせいではなくて。
「精いっぱい頑張ったの、ちゃんと隣で見てたからわかってるよ。……ごめん」
 その言葉がどこか熱っぽい響きを持っていたことだって紛れもない事実。私が声をあげて泣いてしまったことも、天ちゃんがこっそりと先ほどのダークマターの欠片を口に含んで、吐き戻しそうになりながらも飲み込んでくれた、その優しさもどこにも消えない。
 この後、私たちが変装に変装を重ねてハロウィンのお菓子を買いに行ったことも。そして、来年こそ美味しい手作りのお菓子で2人だけのハロウィンをやろうと約束をしたことも、誰も知らない私たちだけの確かな思い出なのだった。
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