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旅立ちの時間

 ――――戻ってくるか、みょうじ。


 僕らE組は終業式へと向かう途中、紙と鉛筆での激戦を繰り広げた宿敵――五英傑の面々とかち合わせた。
 E組の晴れやかな表情に対して彼らは苦虫を噛み潰したような顔だ。無理もないだろう、今まで最下層だと見下してきた僕らに一杯食わされたのだから。
 人混みと騒がしさに包まれた渡り廊下のなか、視線がどんどん集まってくる。先の勝負は椚ヶ丘中全域に広まってしまっていたから、やはり気になるところなのだろう。注目されるのはあまり心地よくもないが、ここはぐっと堪えるしかない。
 賭けの確認と寺坂くんたちの嫌味をやり過ごした後、浅野くんが至極落ち着いた声でみょうじさんの名前を呼ふ。少しの躊躇いを孕んだ返事と、迷うような足取りで彼女が前に出た。
 なにをされるのかなにが起こるのか、はたまたどんな罵倒が飛び出るのか。渡り廊下一帯がこの上ない緊張感に包まれる。
 しかし彼の口から出たのはとても優しい声音の、彼女をすくい上げるような言葉だった。
「E組からA組に戻る条件は今回満たしたハズだ。担任だって僕の一存でどうにでもなる」
「おい浅野――」
「元よりお前はこちら側の人間だろう。E組に染まってしまったかな、お前ならあのなかで一番をとるくらい容易だったろうに」
 ――そうだ。そうだった。
 みょうじさんは成績だけを拾うならば絵に描いたような優等生で、最近はマシになった性格を差し引いたとしても、E組と関わり合いになるようなひとじゃない。僕らのことなど意に介さず、決して交わるような存在ではなかった。
 そんな彼女なら当然とも言うべきか、今回のテストでA組復帰の準備が整ってしまったのだ。そしてA組、むしろ本校舎生徒のボスとも言えるあの浅野くんがまさかのまさかで彼女を迎え入れるような姿勢をとっている。これ以上の機会はないかもしれない。
「……………………」
 僕らは待った。彼女の言葉を。
 最初こそなかなか馴染めなかったけれど、僕らはもう彼女に対して立派な仲間意識を抱いていたから。疎んでいたハズの彼女が去ることを、きっと前原くんも――
「珍しいね、学秀。あなたが私に選ばせるなんて」
 ――学秀! みょうじさんが名前を呼んだ。あの2人のことですら名字なのに、しかも誰に対しても使っていた敬語まで崩して。
「お前のことを思っているからだよ、なまえ」
「心にもないこと言わないで」
 ぴり、とここいら一帯に電流が走る。居心地が悪い静けさだった。暗殺とは違う、手足の先までしびれるような緊迫がその場を支配する。
 2人はまったく目をそらさず、僕らにはなにが見えているかすらわからない。ただ漠然と、この場の誰とも違うものを見ているのだろうなということしか。
 浅野くんとみょうじさんはキケンな意味での2人の世界を、誰にも入り込めない空間を作り出していたのだ。その証拠に僕らE組も、あの五英傑でさえ口を挟むことなく話が進んでいく。野次どころか小さな息づかいでさえうるさく思えてしまいそうだ。
「……確かに私は変わっちゃったかもしれない。あなたがいれば怖いものなんてなかったのに、今は毎日が不安だもん」
「なら――」
「でもそれは、毎日が充実しているからだと思うんだ。満たされているから失うのが怖いって、あなたといるときにはなかった気持ちだから」
 彼女は言う。
 なにもかもを遮断された鳥かごのなかにいるよりは、広い世界を見てみたいと。彼の元で変化のない安定した日々を、心が揺らぐことない毎日を過ごすよりは、たとえ恐れがあったとしても変化を楽しみ、笑いあう明日を歩んでいきたいと。
 浅野くんの内で、絶対的な服従を誓う代わりに護られていた。彼女は今その殻を破ろうと、彼の元から完全に飛び立とうとしている。
「完成された人間にはなりたくない。私はA組にも、もちろんあなたの元にも戻らない。E組のみんなと成長していきたいから」
 ぐっと胸を張りながら吐き出された言葉は、編入初日の彼女を思わせるものだった。
 しかし決定的な違いがある。笑顔だ。まだどこかぎこちないけれど、彼女の口元は確かに笑んでいた。彼女は確かに、前に進んでいる。
「それに、もし戻るとしても――」
「もういい」
 浅野くんの凛とした声がみょうじさんの言葉を遮る。彼の手のなかでぐしゃりと形を歪ませるプリントを横目に見ながら、僕らはただ呆然と浅野くんを、彼を追いかける五英傑を見送った。




「意外とみょうじも言うもんだな……さすがにあの浅野相手じゃ怯むかと思ったけど」
「怖かったですよ、ほら」
 す、とみょうじさんが前原くんに手を差し出す。よく見るとぶるぶると震えていて、前原くんもぎょっとした目で彼女を見ていた。これほどの恐怖を隠して毅然と立ち向かう、彼女の度胸と精神力は桁外れだ。
「こうやって立ち向かえるようになったのも、E組のみなさんと殺せんせーのおかげです。……みんな、ありがとう」
 ふわりとした微笑みはまさしく百合の花を思わせるもので、自然と僕らも笑顔になった。ぽんぽんと前原くんに頭をなでられ、彼女自身もご満悦のようだ。
「あっ、そろそろ時間ヤバくない? 急ごう渚、みんなも!」
 茅野の一言でE組も、傍観に徹していたギャラリーたちも我に返ったらしい。来たるべき終業式とその先にある夏休みを思い、僕らは駆け足気味に廊下を過ぎたのだった。
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