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前進の時間

「苦手」というのは一種の逃げかもしれない。俺は逃げている。彼女の真剣な想いから。
 今まで軽い恋愛ばかりしてきた。本気になるべきじゃないと思っていた。そのときそのときが幸せならばそれで良い、いつか嫌いになるならその一瞬を楽しむ。それが俺の恋愛方針だった。
 だから正直戸惑っている。そして、少し怖い。
 調子が狂って言葉に詰まる。たとえば今俺が彼女に振り向いたとして、それで本当に良いのだろうか? あり合わせの理由で応えたとして、彼女はそれを望んでいるのか?
 答えはきっとNOである。生半可なものじゃダメなんだ。真剣な気持ちに向き合おうと思うなら、こちらにも真摯さが求められるんだ。
 普段の俺なら「好き」と言われて、自分も相手を「好き」だと思ったらそのまま付き合い、そして振られてを繰り返す。それが俺にとっての当たり前だったし、変に傷ついたりしないから一番楽だった。
 でも彼女にはそれが通用しない。そんな軽いもんじゃない。もっと重くて、透き通ってて、そんでちょっとだけ強引だ。恥じらいも駆け引きもなくぶつけられる「好き」には最初こそ引き気味だったけども、今ではどこか心地よさを感じている。そういう毎日が、俺は好きだ。
 ……認めよう。惹かれている。俺は彼女のことが好きだ。そして、だからこそ俺は逃げている。彼女からも、自分からも。
 彼女の真剣な気持ちははぐらかして。応えられるほどのものを持ち得ていない自分が、ひどく醜く見える。そして、とてつもない臆病者。
 そうやって引き延ばすことがなによりも彼女を傷つけているのだと、わかっているのに。



 ――と、複雑すぎる胸の内を磯貝に吐露してみると、案の定というべきか隣のこいつは軽蔑するような目を向けてくる。
 俺はさっきも彼女――みょうじから逃げてきたばかりだ。一緒に帰ろうという彼女の申し出を、磯貝をダシにしてはねつけた。周りの視線は見ないフリ。慣れたものだ。
「お前さぁ、やってること結構ヤバいぞ」
「自覚はある、って」
 こん、と足下の石ころを蹴る。目が追うよりも先に、他の石に紛れてわからなくなった。
 人の気持ちだってこんなもんだ、簡単なきっかけで急激に冷める。好きも嫌いもすぐなかったことになるんだ。
「ま、正直言うならタイミングを逃してるとこもあると思う。今更言い出せないっつーか」
「うかうかしてると取られるかもよ」
「誰に?」
「カルマに」
「はは、ありそー」
 どき、と胸が騒いだ。取られるなんてことを考えただけで、こんなにも心が乱れる。
 そういえば、最近のみょうじはカルマと一緒にいることが更に増えた気がする。気づいたらカルマはみょうじのことを「なまえりん」と呼ぶようになっていて、みょうじもカルマに心底気を許しているような。
 一言で言うならば……そう、近いのだ、距離が。両方照れがない人間だから、ボディタッチだって自然である。みょうじを連れて行くときにもカルマはすっとさりげなく、さりげなさすぎるレベルで手を引いていくし。
 あれを見てしまえば10人中8人がこう思うだろう、「赤羽業とみょうじなまえは付き合っている」と。……俺だってそう思う。ぶっちゃけるなら、未だにみょうじが俺を想ってくれているのが不思議なくらいだ。
「それに。お前だって忘れたわけじゃないだろ?」
 磯貝の目は相変わらずじとりとしていて、俺を応援してくれてるのか遠ざけようとしているのかわからない。ただまぁ、「恋路(笑)」とは思われているだろう。お笑いだ、と。
「……浅野のこと?」
「そう。色んな意味でラスボスじゃないか」
 生徒会長・浅野学秀。あの理事長の息子であり、爽やかで人好きのする容姿、すらりと伸びた長身、加えて全国一位の頭脳と、絵に描いたような完璧を誇る。そんな浅野は数ある生徒を魅了し、そして柔らかく突き放してきたという。椚ヶ丘中において、浅野を知らない者なんていないだろう。
 そしてなによりの問題は、そんな浅野がみょうじの幼なじみであるということである。
「八方塞がりっていうか、四面楚歌っていうか……手強いやつしかいないな」
 お前は本当に俺の味方なのか? ――漏れそうになる本音を飲み込む。味方だからこそこうやって忠告して、なおかつ背中を押してくれているのだろう。やり方はめちゃくちゃ厳しいけど。
「両想いなのに告白できない。しかもいつ誰に取られるともしれない。今までのツケがまわってきたな」
「……そろそろ泣くぞ俺も」
「悪かったって」
 ぽんぽんと肩を叩く手は振り払っておく。
 改めて状況を整理してみると……いや、ちょっと考えただけでわかる。非常によろしくない。カルマも浅野も、揃って見た目は良いのだから。
 ただ……まぁ、数少ない希望というか、カルマは怖そうだから、浅野は完璧すぎるからと敬遠する女子が多いと聞く。しかし悲しいかな、みょうじはそんなもんものともせずに近寄っていくし、浅野とは前述の通り幼なじみだし。阻むべき壁など、みょうじの前には存在していないも同然なのだ。
 むしろあの2人のほうがみょうじとの距離は近いと言える。彼女からの矢印は俺のが一番太くて大きいだろうが、いかんせん俺の態度が悪い。適当にあしらってばかりで、こんなことではいつ彼女に嫌われるかわかったもんじゃない。
「前原?」
 ――嫌われる。自分で思っただけなのに、ここまでショックを受けてしまうものなのか。
 もし……もしも明日、彼女が俺を好きだと言ってくれなかったら? 俺に近寄りもしないで、カルマや浅野と仲良くしていたら? 俺のことなんて視界にも入れてくれなかったら? ――怖い。そう、改めて思った。
 付き合っちゃない今だけど、確かに独占欲が巣くう。嫉妬する。穏やかではない。好きなのだ。仕方がない。でも伝えられない。それがただ、ひたすらにもどかしい。
「……じゃあさ、まずはちっさいことから始めりゃあいいじゃん」
 見かねたらしい磯貝が、小さくため息を吐きながらそう言う。呆れたような、けれど確かな優しさを湛えた瞳。
 そんなやつだ、磯貝は。どんなに疎ましく思っても、くだらないと思っても、相手が困ってさえいればつい手を差し伸べてしまう。そうやって周りに慕われてきた。
 ……そうか。あの子も、こういうところが好きなのか。
「ちっさいこと?」
「そ。たとえば――」




「おはようございます、前原くん」
 ――来た!
 人知れず心臓が跳ねる。女の子に話しかけられて緊張するだなんていったいいつぶりだろうか。バレないように深呼吸をして……っておい磯貝笑うな!
「今日も格好良いですね、惚れ直しました」
「お、おう。なまえちゃんこそ、相変わらず可愛いじゃん」
「またそんな――っふぁ!?」
 どすん! 鈍い音とともに、彼女は俺の視界から消えた。目線をちょっと下げてみると、惜しげもなくさらされた黒。なるほど黒か、これは彼女らしいチョイス……………………じゃなくて!
「ちょ、なまえちゃん大丈夫か? まった派手に転んだな〜」
「だ、だって前原くんが……!」
 珍しい……というか、今までに見たことのないような表情でみょうじは――もとい、なまえちゃんは顔を真っ赤にしている。ぱたぱたと汚れを払いながら、その手もどこか忙しない。
 慌てたような困ったような、微弱ではあれどわかる変化。……わかることが、俺は嬉しい。
「まぁな、みょうじのままじゃちょっとよそよそしいしさ。なまえちゃんも『陽斗』って呼んでいいんだぜ?」
「わ、っわ、私は遠慮します……! あ、さ、ねいむちゃん、に、磯貝くん、お、おはようございます……!」
 面白い。普段あんなにも凛としていて、他人を寄せつけないことに定評のあるなまえちゃんをここまでしどろもどろにすることができるとは。狼狽えてるところは……不覚にも、可愛い。かもしれない。
 俺とは目も合わせようとしないなまえちゃんは、未だに驚きが抜けきらないのか今度はカバンをひっくり返していて。ねいむちゃんに拾ってもらうのを手伝ってもらいながら、それでも俺のほうには向こうともしない。
 昨日思ったことが現実となった。俺のことなんか見もしねぇ。だけどそれは俺を意識しすぎてのことだから、抱くのはもちろん恐怖ではなく――優越感、かな。
「さんきゅな、磯貝。あともし見たなら忘れろ」
「おう。……見てねえから安心しろ」
「あ、なまえちゃんそれ私のカバン……」
「っあ、す、すみません、本当にすみません……!」
 ……効果覿面すぎて、ちょっと怖いけど。
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