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初恋の時間

 ――――たすけて、しゅーくん。
 もう2年も前の出来事だ。2年も前の彼女の声が、未だに頭のなかをこだまする。
「お前の笑顔を見たのはいつぶりだったかな……」
 机の端に伏せられた写真立てを、ついと久々に起こしてみる。そこにはまだ小学生だった自分と、幼なじみである彼女――なまえが写っていた。
 めいっぱいの眩しい笑顔を浮かべた2人。あのころはまだ楽しいことがあった。相変わらず父への対抗心は燃え盛っていたけれど、今よりも世界が輝いて見えていた気がする。
 かしこまった私立小学校の入学式で、周りは甘やかされて育ったイイトコのボンボンか教育ママに厳しく躾られた小学生らしからぬ顔の可哀想な子供か。育ちが良さそうな、お手本となれるべき子なんてほんの一握りだった。
 そんななかに1人、周囲の仰々しい空気すら吹き飛ばさん笑顔の女の子がいた。ふわふわの髪の毛は金とも灰ともつかない独特のくすんだ色をしていて、眩しさと反した黒瞳はそれでも爛々と、映るものすべてをキラキラと輝かせる。
 その笑顔は僕と目があっても失われることはなくて、むしろ彼女は笑顔のまま僕に駆け寄ってきた。見ず知らずの僕に向かって、満面の笑みで。
 ただ悲しいかな、彼女は僕にたどり着く前に顔面からすっ転んでしまって。彼女の壊滅的な運動神経なんてこのときの僕は知る由もないからただ驚くことしかできず、しかし呆れ半分に顔を覆った彼女の両親から窺えた、これが日常茶飯事であるという事実。
 ……今度は僕が駆け寄る番だった。突き刺さるような父の視線を背中に感じながら、名前も知らない女の子の元へ。今までにない高鳴りを感じたこと、なんとなくだが覚えている。
 ――大丈夫? そんな一言だったと思う。僕が彼女にかけた言葉は。
 ――大丈夫、ありがとう、はじめまして! 返事はこうだったかな。
 見たことのないような笑顔だった。こんな風に笑う知り合いなんかいなかった。堅苦しい挨拶を交わすだけの人間を、友達だと呼ぶつもりもなかった。
 だから初めてだったんだ。自分から関わりたいと、友達になりたいと思う人間に出会ったのは。
 早口に自己紹介を交わすと、彼女は僕を「しゅーくん」と呼んだ。そして僕は「なまえちゃん」と呼ぶ。それだけの会話が、なんだかとても誇らしかった。初めて誰かにあだ名をもらった。
 出会い頭でもう3つ。彼女と出会って僕は、たくさんの「初めて」を経験した。
「……もうこんな時間か」
 ふと視界に入った時計は18時を示していて、カーテンの隙間から差し込む夕焼けが目に痛い。ぐっと瞼を閉じるとやはり、蘇るのは彼女との思い出。
 なまえはひたすらに無邪気だった。父のことも母のことも、年の離れた姉のことも、彼女は家族を本当に愛していた。家族を語るときの彼女の花が綻ぶような笑顔は、きっと僕の持ち得ないもの。羨ましかった、それは今も。
 道端に咲く名もなき花に見とれるような子だった。テストが1点良いくらいで歓声をあげられる素直な子だった。体育の時間に転んで泣いても気づけばケロリとしているくらい、とても朗らかで元気な子だった。
 学力の代償とでも言おうか、無さすぎる体力と運動神経すら「愛嬌」という一言で許されてしまう、そんな女の子。
 ……思えば僕はあのころから、無意識に彼女を束縛し、平然と支配していたのかもしれない。だって考えてみればおかしな話だ。あの彼女に友達がいなかっただなんて。
 天真爛漫を地でいく彼女はあの場じゃ浮いて見えたのだろうか。今となってはもう確かめようもないことだが、考えられない話でもない。あんなナリで成績はトップクラスだったし、同じクラスにいた野暮ったい三つ編みの女の子。クマがくっきりとついた目をした彼女が妬ましそうになまえを見ていたこと、なぜだかはっきり覚えている。
 それでも小学校時代はなんとか平和に過ごせていた。目立った争いも変化もなく、このまま成長していけるのだと思っていた。
 ただ――最大の転機が、椚ヶ丘への入学からほどなくして起こったのだ。それは僕ではないなまえに、そして僕へと波紋して。
 一言で言うならば――なまえは、笑わなくなった。
 笑わなければ怒りもせず、もちろん泣くこともない。だんだんと仕草や表情、言葉までもが無機質になり、まるで別人のように。触れる体ですら冷たく感じてしまう。それほどの変化だった。
 元より目立つタイプではあったが、彼女には友達らしい友達もおらず。心配の声はそこかしこであがっていたものの、踏み込んでくるようなひとはいなかった。
 そんな彼女が頼れる人間なんて家族以外は僕くらいのもので――もしかしたら無意識にそんな状況を作り出していたのかもしれないが――、案の定なまえは縋るような目で、僕を家に呼び出した。
 みょうじ家に来るのが久しかったのは確かだが、それにしたってここまで変わるものだろうか? 首を傾げたことを覚えている。
 彼女の部屋に着くまでの道のりも、なんだかとてつもなく長く感じて。パタリと閉まったドアの音もなぜだかひときわ大きく聞こえる。荷物を置く間もなくなまえは僕に縋りつき、そして涙を溢れさせながら口を開く。
 ――たすけて、しゅーくん。
 震える唇がこぼしたのは、とてもシンプルで、そしてとても悲痛な言葉だった。
 なまえは語る。姉が家を出て行ったのだと。姉はなまえの知らないところで好き放題だったのだと。搾り取るだけ搾り取った姉のわがままに疲れきった両親はもう笑わず、会話らしい会話もなし。家に帰っても「おかえり」の言葉はなく、ため息ばかりの毎日だと。
 張り詰めて張り詰めて張り詰めて張り詰めて、もうこれ以上ないくらいに張り裂けそうな胸の内。痛いほどに伝わった。緩く握られ、カタカタと震える彼女の手がなぜだか小さく感じる。
 ……なまえを助けてあげたい。それが第一だった。しかし「たすけて」と幾度も繰り返す彼女を見ているうち、自分のなかで後ろ暗い感情が沸き上がるのがわかる。
 彼女を助けるために。彼女の涙を止めるために。どうすればいい? なにが必要か? 最善の策を選ぶべきだった、否、このときの僕は本能的に、これが最善だと思ったのだ。
 なまえは言う。なんでもすると。僕しか頼れるひとはいないと。もう誰にも見捨てられたくないと。見捨てないでくれと。そう、懇願する。
 そっと抱きしめた彼女の体は想像よりも柔らかくて小さくて、おぼろげだった男女の差をこれでもかと主張してくる。
 僕がそっと顔を傾ければ、なまえは予想よりもあっさりと瞳を閉じた。色素の薄いまつげは雫でキラキラと煌めいていて、これをもう少し違う場面で見られたなら、と頭の隅で思ったことを覚えている。
 ……初めて触れた唇も。
 抱き上げ、そして横たえた体も。
 不安と涙でいっぱいになった瞳も。
 吐き出される吐息も。
 そのどれもがとても弱々しく、しかしなによりも僕の心に潜むなにかを満たして。
 ――大丈夫。
 その一言だけを落として、僕はなまえを――――



「…………!」
 どうやら眠っていたらしい。気づけば辺りはすっかり真っ暗になっていて、カーテンからは月明かりが溢れる。
 軽く体を伸ばすと背もたれが苦しそうにぎ、と鳴く。なにかを思い出すような音だった。
 渇いた喉を潤すため部屋を出る。道中で女中とすれ違ったので適当なものを頼み、そのまま書斎へと足を運んだ。
 最近やけに喉が渇くのは気のせいではないだろう。なぜか隣もスースーする。誰か1人がいないだけで、僕はこんなにも苛立っている。
 ため息混じりに部屋を練り歩き、壁を覆う本棚から適当に一冊を取り出した。皮肉にもそれは愛について説かれたもので、僕の琴線を強かに揺さぶる。幾度となく読み込んだもので、内容もちゃんと頭に入っているはずなのに。……なぜだろう。なぜ、こんなにも。
 愛だの恋だのそんなもの、ただ本のなかの出来事でしかなかった。数々の書籍で追ってきた人の気持ち。インプットしただけの人の気持ち。誰かを思う誰かの気持ち。
 理解はしている。予測もできる。「こうなるだろう」これはわかる。ただ「僕ならこうする」それはない。一生まみえることはない感情だと思っていた。
 置かれた問題を解くために、人を支配するために理解する。それだけのものの筈だったのに。
 当たり前だった君がいない。日々の一部が欠けた。少しずつ広がっていく波紋。もう無視などできないほどに、心を覆い尽くすヒビ。
 突き詰めていけば、僕がここにいるのも父がそれを知っているからだということになる。しかし僕にはわからない。わからないのだ。わからないと思っていた。他人を求めるなんてことは、ただの恥だと思っていたから。
 仮に誰かを求めたとして、そのひとがいなくなったらどうするのか。惨めにもいない者を求めるのか。そして自分を保てなくなって、少しずつ自身を破滅させるのか。
 誰かを求め、誰かを愛する。それは弱い人間のすることだと信じていた。
 この世にはびこる「悲恋」の話。誰かを失った誰かの話。「感動したね」「いいものだった」自分のものではない。インプットした「感情」を組み合わせて、自分の気持ちとした。チープだな、と、心の底で見下しながら。
 けれど――けれど、今ならなんとなくわかる気がする。誰かを失ったひとの気持ちが。そして――
「今日は、月が綺麗だ」
 誰かを愛した、誰かの気持ちが。
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