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「おめでとう」の時間

「わり、磯貝。俺ちょっと風に当たってくるわ」
 そう言い残して、旧校舎へと続く道を逸れた。
 ……毎度毎度のことながら、やはりキツいのだ、あれは。体育館中に響く嘲笑は慣れようとして慣れるものではないし、いくら殺せんせーのおかげで健やかに過ごせているとはいえ、集会に参加するたび思い知らされてしまう。「エンドのE組」という、自分たちの置かれた立場を。
 しかし学校生活においての差別はクるものがあれど、なんだかんだで俺はE組のみんなが気に入っている。楽しいと、思う。殺せんせーを暗殺するためにみんなと知恵をこねくり回す毎日は、なんだかとても心地が良かった。先生との距離も近くて、毎日笑顔は絶えない。
 本校舎では味わえなかっただろう結束感に、俺はいつの間にか――
「E組は、楽しいですか?」
 物思いにふける最中、凛とした声に思わず背筋が伸びる。考えすべてを見透かされたような問いに空気が張りつめた錯覚すら覚え、反射的に振り向いた。
 ……知っている。こいつは。むしろ知らないわけがない。おそらく椚ヶ丘中のなかで、一番有名な女子だ。
「あ? あぁ……ま、半々かな」
「半々?」
「こっちに来るとやっぱ、なぁ」
 つーかこれも嫌味か? と付け加えようとして、やめた。なぜなら向こうさんは俺の言葉を聞いてから黙りこくってしまって、じっと考え込んでいたからだ。
 伏し目がちになったまつげは、透き通るような頬に影を落とすほど美しい。絵になるとはこういうことか。こんな子を彼女にできたら一生分の名誉だろうに――なんて、とても似つかわしくない考えが頭をよぎった。
「アンタみたいなA組のやつには……わかんねーだろうけど」
 それでもふと漏れてしまったのは普段の鬱憤が溜まっていたからだろうか。……また空気が動く。バツが悪くて背けていた顔をそのままに視線だけ戻すと、質問の主はただじっと俺を見つめていた。
 そうですね、わかりません。――そう、こぼしながら。
「すみません、お時間をとらせてしまって」
 ――お友達が待ってますよ。
 俺の背後にいた磯貝を指差して、彼女はこの場を去っていった。名は体を表すとまさにこのことか、立ち去る後ろ姿にすら、百合の花の可憐さを漂わせながら。

「……わりーな、待っててくれたのか」
「前原でも振られることはあるんだな……や、でも今回は相手が悪すぎ――」
「違ぇし! 向こうから話しかけてきたんだし――?」
 ……向こうから? そういえばなぜだろうか。俺らは今まで同じクラスになったこともないし、ましてや話したことすらなかったというのに。
 思い当たる節と言えば、今日の集会で目が合ったかもしれないことくらい……?






 頭上に掲げられた「理事長室」のプレート。これを見るだけにも深呼吸が必要だ。
 この部屋に近づくたび、「お前でもビビることがあるんだな」とねっとりぶつけられたことを思い出す。さすがの私でもサイボーグではないのだから、顔に出ずとも喜怒哀楽くらいはあるというに……小山くんはこういうところが嫌味たらしくていけない。ビビるもなにも私はあの2人に怯えっぱなしで、特に父のほうとはただ、向き合って目を合わせるだけでも息が詰まる思いなのに。
 しかしあの2人、揃いも揃ってこの学園において絶対的な存在であり絶対的な支配者であるのだから、本当によく似た父子だと思う。……本人の前で口に出そうものならなにをされるかわからないから、滅多に言えないことだけれど。
「……1人で来て、よかった」
 ふぅ、ともう一度大きく息を吐き出してドアに手を添える。……ドア越しでも伝わってくる威圧感。まるでこの部屋に続く一角だけ地獄にでもつながっているような、世俗から切り離されているような印象を受ける。
 ……怖い。いくら長い付き合いであるとは言え、いつまで経ってもなれない。この、絡みつくような独特の畏怖には。
「失礼します」
「ん? ……やぁ、みょうじくんか。いらっしゃい」
 柔和な笑みを浮かべる理事長。笑顔だけならとても爽やかで優しさに溢れ、裏も表も感じられない。
 ……逆にそれが問題なのだが。こんなところまでそっくりとは……
「単刀直入、でよろしいですか」
 静かすぎる部屋にこつん、と私の足音が響く。理事長の目はただまっすぐに私を見つめていて、次の言葉を促しているよう。
「理事長は……なぜ、E組をお作りになったのでしょう」
 ――怖い。末端の震えがわかる。怖い。
 私を見る理事長の瞳を窺うのが怖くて、視線を上げることができない。息が止まりそうになるのをくっとこらえて背筋を伸ばす。意識しなければ本当に持って行かれそうだ。
「あなたの言う『合理』のなかに、心への配慮はないのですか」
 同じ顔。冷たい目。形だけ笑む口元。確固たるもの。従うだけの私。毎日に組み込まれた習慣。
 けれど見慣れたそれよりも強大で頑強な目の前の深淵に、こんな私が敵うわけはない。わかっている。わかっている。わかっていても、曲げられない。曲げるわけにはいかない。
 私はいつかの懐かしい、あの暖かい気持ちを思い出せそうな気がするから。胸の奥から湧き上がる衝動を、思い出してしまったから。あのひとの笑顔に、私は――
「みょうじくん」
 ――思考を遮る声。狂おしいほどに通る。憎たらしいほどに逆らえない。両足が、動くことを放棄した。
「言うのが遅れていたね。特進クラスおめでとう。短いあいだだったけれど、君は女子生徒のトップとして輝かしい功績を残してくれた」
「は……? あの、」
「私の理念を崩す人間がここにいてはならないんだ。たとえ『彼』の友人だったとしてもね」
 わかるだろう? と声がする。耳のなかから響く声。直接頭に語りかけてくるような、逃れられない呪縛とともに。
「A組の生徒であっても例外なんて存在しない。元より君は衝突も多かったようだしね」
 黒い、なにか。なにかが体を這い回る。それは私の足を、腕を、喉を、すべてを、余すことなく絡めとっては瞬きすら阻もうとする。
 全霊で受け止めても有り余る恐怖はやがて目に見える姿となって私の体を覆い隠し、そしてひとつひとつ、小さなことから蝕んでいく。
 たとえ目と鼻の先に理事長が迫っていたとしても。ねぶるような視線に嘲笑われても、私には後退りすることすら叶わず。ただ彼のなすがまま、彼の言葉を聞いていることしかできなかった。
 ……薄れゆく意識のなか、私はどこか遠くで悟る。やはり、血は争えないのだと。そして――私はずっと、この父子に踊らされ続けるのだと。
「おめでとう、みょうじくん。君も晴れて……念願の『特別強化クラス』の一員だ。準備が整い次第、あそこに堕としてあげようね」
 喜びたまえ。
 その一言を最後に、私の意識はぷっつりと途切れた。
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