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本当はずっと

本編8幕、バクステのネタバレあり

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 日本に帰ってくるのは何ヶ月ぶりだろう。生まれ育った温暖な気候は体によく馴染み、否が応でもここがおのれの故郷なのだということを実感させてくれる。通り慣れた花街道の香りはどこか懐かしくて、あの頃とは咲き誇る花のラインナップもがらりと変わっているはずなのに、なぜだか胸が苦しくなるほどだ。
 別にこの国が嫌いなわけじゃない。ただ、たとえ何年離れていても染みついたものは離れないのだと、複雑な思いを抱いただけ。
 仕事柄海外に渡ることが多いわたしは、今年に入ってさらに日本でいられることが少なくなった。あちこち飛びまわる日々は忙しくて目が回りそうなものの、その忙しさにやりがいを感じているのも事実。いつも何かしら抱えていることについてマゾヒストなのかとからかい混じりに尋ねられたこともあったけれど、おのれを追い詰めることが好きなのではない。ただぼんやりと、食いつぶすように日々を浪費するのが苦手なだけだ。
 話を戻そう。そんなふうにひとつ所に落ち着くことが出来ないのなら、いっそのこと故郷なんてないほうがいいんじゃないのかとすら思う。邪魔になるならなければいい。望郷の念なんて持たなければ、面倒くさいホームシックや体調不良に苛まれることもなくなるのではないか。わたしはわたしとして、もっと高みを目指せるのではないか――我ながら随分と極まった思考回路であるとは思う。これではワーカホリック一歩手前だろう。
 思えば学生時代からこういったきらいはあったのだ。生徒会だの何だのを一手に引き受けて、教師からの信頼を集めて、おそらくあの頃のわたしは破滅的に日々を過ごしていた。今のわたしですらぞっとしてしまうような、無自覚におのれを傷つけて傷つけて傷つけて傷つけて、遅効性の毒で自殺をしているような毎日。いま考えるとひどく恐ろしい、感覚が麻痺しているとはああいうことなのだろうな。
 ――あの男と出会わなければ。あの、ゆるくてふらふらしていて掴みどころがないくせに抜け目のないあいつと巡り会っていなければ。きっとわたしは、今と全く違った人生を送っていたのだろう――
「お、きたきた。なまえ〜」
 学生時代の最寄り駅。駅前にある銅像の前、人混みの中にあるはずなのにどこか存在感を放つ男がこちらを見ている。ひらひらと手を振りながら軽薄そうに笑う男は、馴れ馴れしくわたしの名を呼んで近寄ってきた。馴れ馴れしいというか、まあ実際親しいのだけれど。
「日本で会うのは久々ね」
「本当にね〜。前に会ったのどこだっけ」
「ザフラ。戴冠式のときよ」
「そーそー、そうだった」
 どちらからともなく歩き出すわたしたち。行くところはいつも決まっていた。学生時代からよく立ち寄ったカフェだ。道案内なんかなくとも、たとえ町並みが変わろうとも、体が自然とそこへ向かう。記憶とはまた別のところで、思い出をたぐっていくように。
 見慣れたような久しいような横顔を見上げてみる。この男は皆木辿、前述したゆるい男、もといわたしの恩人だ。中学からの同級生なのだけれど、初めてまともに話したのは高校3年生のときだった。中学時代からいやに追い詰められたような様子だったわたしに、この男がある日突然、本当に何の前触れもなく「疲れない?」と話しかけてきたのが始まり。
 こいつは――辿はわたしに色んなことを教えてくれた。適度な息の抜き方とか、ゆるく生きるコツとか、気負いすぎない3箇条とか。時にはふざけているとしか思えない知識を吹き込まれたけれど、それでも辿と一緒にいると心が軽くなった気がした。昔から人や物を見る目があった辿はわたしよりもわたしのことを理解していて、わたしがガス欠になりそうなときには決まって声をかけてくれたのだ。彼はわたしの恩人で、ストッパーのような人でもあった。そのままずるずると微妙な距離感を保ったまま、キュレーターとキャビンアテンダントという国際的な仕事に就いた今ですら、こうしてたまに会うなどしている。邂逅は日本に限らず、そして年に数回会うか会わないかの関係だけれど、それでも辿の顔を見るとひどく心が安らいだ。わたしにとって、辿の存在そのものがガス抜きとなっているのかもしれない。
 辿と出会っていなければ。あの日辿が、わたしに話しかけてくれなかったら。そう思うだけで背筋が寒くなる。一応、人並みに生存欲求はあるようだ。
「うちの弟、結婚したんだよね」
 はた。昔と変わらないままのコーヒーを味わっていた最中、辿が思い出したように口にする。――弟が結婚した。
「誰? 巡くん?」
「うん。あいつ、すっごく幸せそうだった」
「ふーん……あ、それで今回日本に帰ってきたわけ?」
 お兄ちゃんらしいこともするもんね。率直な感想を口にすると、辿は気の抜けた顔で笑った。
「両親とも泣いてたよ。でも本当に嬉しそうだったな、肩の荷が下りたみたいな」
「長男に先駆けて次男の結婚かー。巡くんモテたものね」
「そ。で、俺もちょっと考えちゃったんだよな〜。巡や綴がいるとはいえ、長男の俺がこれでいいのかな〜とか。仕事柄なかなか難しいんだけど」
 辿がゆっくりとコーヒーを飲み下す。適度に賑わっているカフェの窓際席にいるわたしたちの話し声など、きっと誰にも聞こえていない。誰も聞く人などいないのだ。その現実が与えるのは寂寥感ではなく、誰にも否定されない、誰にも指を刺されないという安息感。
 外の人波に目を向けてみる。知っている人など誰ひとりとしていないのに、やはり懐かしい気持ちになる。至るところから聞こえてくる母国語のせいかもしれない。ここがわたしの生まれ故郷なのだと、何もかもが知らしめる。
「でもあんた、だからって結婚しよ! みたいな柄でもないでしょうに」
「当たり。だから悩んでんだよね、別にその辺めちゃくちゃ期待されてる気もしないけど、このまま親不孝を積み重ねていてもいいものかと」
「まあ、結婚だけが親を喜ばせる方法ってわけでもないとは思うけど……してくれたほうが安心するのは確かだわね」
 かつん。カップとソーサーのぶつかる音が、雑音の隙間でいやに響いた。わたしの右手は机に触れる。人差し指で木目をなぞり、くるくるとその上を這った。
「30までなら待ってあげてもいいわよ」
 目の前の男が息を詰まらせるのがわかる。詰まったのがコーヒーでなくてよかった――まるでおのれのことのようにそう思っていると、辿は垂れ下がった目を大きく見開いて、わたしのほうに目をやった。
「30になっても相手がいなかったらわたしが結婚してあげるわ」
「……なまえ」
「あんたには借りがあるもの。……借りなんて言い方じゃダメね、恩があるの。感謝してる」
 わたしの言う「感謝」の意味を、果たしてこの男は察してくれるだろうか。もしかするとわたしが恩義だけを理由に身を差し出していると勘違いするかもしれない。皆木辿というこの男、昔から審美眼には長けていたくせに自分のことになると見当違いなことばかり言うのだ。自由なようで自由じゃない、むしろ自由であるからこそ少しの枷やわだかまりを大きく重く考えてしまうのかも。それなりに責任感はあるらしい。
 そういうところが放っておけない。そういうところがわたしは好きだ。だからわたしは、この男だからこそ数年を待てると、自信を持ってそう言える。
「……ほんと、なまえは格好良いな」
「は?」
「俺ね、なまえのそういう凛としてるとこすっごく好きだったんだよ〜。だからよく見てたんだ、尊敬してたからさ」
「は、はあ」
「なんか……うん、そうだね。じゃあ30ギリギリまでゆっくりさせてもらおうかな」
「ゆっくり、って……はあ!? バ、バカ、待ってよそういう意味じゃ――」
 あわてふためくわたしをよそに、辿はにんまりと笑っている。テーブルに頬杖をついて、ひどく嬉しそうにわたしのことを見ていたのだ。
 なんだか居心地が悪くて目を逸らしてしまったけれど、刺さる視線が物語っている。こいつがまだまだわたしを見ているだろうこと。
「ありがとね、なまえ」
 ――俺、なまえのそういうところ好きだよ。
 けれどもそのひと言で、わたしは何もかもがどうでもよくなってしまった。

20180611
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