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呪いは伝播してゆく

「にしても、最近物騒ですよねー。毎日毎日、どこかしらで怖い事件が起きてたりするし……」
「確かに、毎日嫌〜なニュースばっかりかも。幸い天鵞絨町は、ここ最近目立ったことは起きてませんけど……」
「ああでも事件といえばあれですよ、3年前のストーカー殺人――」
 バイト仲間の雑談を、密は耳半分で聞いていた。退勤準備も終わらせて仕事場から出ようとしたとき、いつもならただの雑音でしかない会話がなぜだか耳に残ったのだ。
 3年前、この天鵞絨町で起こったらしい忌まわしい事件。計画的かつ陰湿な犯行であったという。犯人はとある役者の熱狂的ファンだったようで、熱を上げていた彼女が結婚を機に引退したことで壊れてしまった。もともと出待ちなどマナー違反が散見していたらしいのだが、徐々にその偏愛はエスカレートしていき、気づけば彼女の個人情報を徹底的に調べ上げ、住居を突き止めるのはもちろん、夫の職場や子供の就学先、家族全員の行動パターンなども把握するほどの粘着ぶりを見せた。ゴミを漁り、盗聴器を仕掛け、後をつけまわし、そして最後には彼女が家に1人のところを見計らって無理やり――といった具合だ。
 何度も何度も不貞を強いて、偶然学校が早く終わった息子が帰ってきたところを、彼女がついさっきまで身につけていたベルトで絞め殺した。同じく定時で帰宅した夫も、彼女の愛用していた包丁で刺し殺した。やがて満足した男はふたつの死体と見るも無残なことになった1人を残してその場を去り、翌朝連絡の取れないことを不審に思った夫の同僚が家を訪ねてきて、やっと事件は発覚した。あまりある痕跡のおかげで犯人逮捕にはそう時間もかからなかったらしいが、劇団の聖地と言われるビロードウェイを有する町である以上、この悪質な事件は今でも話題に上がる程度には深い傷として残っている。
 つい去年この町に流れ着いたばかりの密にはあまり実感の湧かない話であるが――それでも舞台役者という立場上、死線をくぐった彼とはいえど少し背筋の冷えるものだった。だからこそ耳が拾ったのかもしれない。
 話はみるみるうちに脱線していき、やがて何の興味も湧かない話をするようになった仕事仲間に軽く挨拶を済ませ、扉をくぐる。ふと見上げた空は茜色に染まっていて、遠く聞こえるカラスの鳴き声がいやに眠気を連れてきた。くあ、とひとつあくびを噛み殺し、早く帰って寝てしまおうと心なしか足を速める。あたたかい布団が恋しい、この際床や廊下でもいい。とにかく家に帰りたかった。「家族」のみんながいるあの寮へ――
「――やっほー御影くん、今帰り?」
 そんな折に出くわしたのはみょうじなまえであった。ぼうっとしながら振り向くと、彼女は呆れ半分といったふうに密のもとまで走ってくる。夕暮れという時間ながら疲れを見せていないのは、かつて舞台役者として鍛えた杵柄だろうか。
 みょうじなまえ――旧姓、吉良なまえ。繚乱歌劇団の元花形役者で、体の小ささなんて物ともしない存在感を放つ彼女は当時絶大な人気を誇っていたそうだ。MANKAIカンパニーにも彼女の名を知る人間はいるし、時おり演技指導として様子を見に来てくれたりもする。既婚者らしく世話焼きな性格は劇団でも健在で、手があいているときは料理当番も手伝ってくれていた。
 そんな彼女は密のバイト先の先輩で、そして軽いノリと無駄な明るさを密は少し苦手としていた。彼女自身が嫌いなわけでも、明るい人間に苦手意識があるわけでもない。それでも彼女には違和感があった。無理に笑っているような、張り詰めているような違和感を拭うことが出来なくて、ついつい警戒しがちになってしまうのだ。もちろん密自身その傾向は理解していて、だからこそ普段と変わらぬ振る舞いを心がけてはいる。
「……そういえば、なまえ、今日いなかった」
「コラッ、先輩に呼び捨てはやめなさいっていつも言ってるでしょうに!」
「…………なまえさん」
「よろしい! ……あはは、今日はね〜、お墓参りに言ってたんだ」
 片手に抱えた荷物を掲げ、なまえはからりと笑ってみせる。墓参りなんて微塵も想起させない様子は、ヒビの入った太陽のようで歪であった。
「……お墓参り」
「そ。旦那と息子のね、今日が命日なんだわ」
「いないの」
「いないんだよ」
 少し歩こうか、となまえが提案する。遠回りではあるが寮への道を選んでくれるというので、密は黙って頷いた。道中でなまえの荷物を預かる。一瞬迷うような表情を見せたあと、華奢な体にはとてもではないが似つかないようなそれを、しっかりと受け取っておいた。
 交差点の信号待ち。まばらな雑踏のなか、ふと訪れた静寂を破ったのはなまえである。
「御影くん、天鵞絨町に来たのって去年なんだっけ。じゃあストーカー殺人の話とか知らないのかな」
「……さっき、バイト先の人たちが話してたの、聞いた。少し」
「あ、ほんと? わはは、じゃあ話が早いね。実はさ、その事件の被害者ってやつ……私なんだ」
 反射的になまえの顔を見やる。真っ赤な信号を見つめているなまえの表情は、微笑んでいるはずなのに何の感情も読み取れなかった。
 聞いてもらってもいいかな――その提案に再び無言で頷く。ホッとしたような、どこか不安そうな笑みをかたどるなまえからは、いつもの違和感なんて微塵も感じられなかった。
 淡々と動くくちびるは、人間らしくも機械になりきることも出来ない、ひどく不気味な動作で言葉を紡ぐ。
「違和感……というか、予兆はあったよ。無言電話とか、変な手紙が来てたりとか、そういえば昔も熱心な出待ちの人とかいたなあって」
「……」
「あの日……水曜日だったかな。職員会議か何かで午前中で学校が終わる日だった。ぴんぽん、ってインターホンが鳴ったから出たの。宅配便かな? って思ってドアを開けたら、突然乗り込んできて――」
 ぽん、ぽん、と信号機から音が鳴る。渡れる合図だ。おっと、と小さく声をあげて、なまえは早足で横断歩道を渡る。密もそれに続いた。左手に携えた手提げ袋の重みが増したような気がする。眠気はすっかり覚めていた。
「終わるならさっさと終わらせてって思ってた。息子が帰ってくる前にどっか行ってって。でもま、人生そんなうまくいかないんだよね、やなとこ見られちゃうし、そいつ、私のズボンからベルト抜いて、あの子の首に――」
「……なまえ」
「動かなくなった息子のとこに駆け寄ろうと思っても、私そんとき縛られててさ、全然身動き取れなくって。こうなったら男のほうも殺してやる、って呟いてる声が聞こえてた。家の中うろうろしまくってね、包丁まで用意してきてさ」
「…………」
「刺されるところもこの目で見てた。旦那が倒れ込むところも。死にそうなのは自分のくせに、私の縄を外そうとなんてしてくれてさ。……ま、結局できなかったし、私も怖くて気失っちゃったしで、目が覚めたら病院のベッドの上だったんだけど――」
 なまえはぼうっと空を見上げる。辺りはすっかり暗くなっていて、道端の街灯が闇夜を照らしてくれていた。ポツポツ光を灯すそれと、カーテンの隙間からこぼれる家屋のまばらなライト。物理的な明かりでは、きっとなまえのことを少しも照らせやしない。
「……怖いんだよね」
 立ち止まったなまえが、ふと落とすように呟く。振り返った彼女は白い手のひらをぼんやりと見つめていて、その手を握りしめては開き、何かを確かめるように動かしていた。
「恨まれてる、気がする。今でも夢に見るんだ。2人が私のことを見てるの。何にも言わずに、ずーっと」
「……それは、」
「お前1人だけ生き残りやがって、お前のせいで俺たちは死んだのにって、きっとみんなもそう思ってるんじゃないかな。明るくって気配り上手でみんなのことを考えててって、2人の代わりに私が死ねばよかったんだって、ずっと責められてる気がして――」
「なまえ!」
 滅多に声を荒らげない密が――否、今のも常人が少し張った程度の声量であったけれど、それでもとめどないなまえの吐露を止めるには充分だった。
 考えるよりも先に体が動いた。気づけば密は小さな体を腕のなかに閉じ込めていて、きっとぐしゃぐしゃでみっともないことになっているだろう顔が誰にも見られないように、細い肩をキツく抱きしめる。水に沈めているわけではないのだから呼吸は問題ないだろう。
「そういうこと、言っちゃダメ。そんなの誰も望んでない」
「でも――」
「なんとなくわかる。……その人、オレの家族によく似てるから」
 ――オーガスト。心の中でその名を呼んだ。優しくて、頭が良くて、とても思いやりのある人だった。彼は最期まで人のことばかり考えて、密にも、そして千景にも「生」を望んだ。陽のあたる場所にいてくれと、陽だまりのような世界で生きることを願ってくれた。何よりもあたたかな人だった。
 きっとなまえの夫も同じだったのだろう。自身が瀕死の重傷を負っているくせに妻の拘束を解こうとするだなんて、それは彼の優しさと、そして妻への愛情の証に他ならない。
 そんな人が、よもや命を懸けて助けようとした妻を憎むなんてことがあるものか。きっと彼のなかに「なまえのせい」なんて考えは微塵もない。むしろ助けられなかったことを悔やんでいるはずだ。なまえのことを愛していたのだ。2人が愛に溢れた夫妻であったことは明白で、そんな2人に育てられた息子なのだから、きっとその子も父と同じことを思っているだろう。
「『幸せ』を諦めちゃダメだ、なまえ。それこそ怒られると思う。今度こそうなされる」
「……でも」
「大丈夫。なまえは1人じゃない、職場の人もいるし、オレもいる。みんな、なまえに『生きて』って思ってる。オレたちは生きていかなきゃいけない」
まじない」と「のろい」が紙一重のように、「願い」と「罰」も表裏一体であるのかもしれない。それでも密はオーガストにかけられた言葉が「願い」であると信じているし、なまえもそうなれたらいいと望んでいる。想いは繋がっていく。決して同じではないけれど、きっと手を取りあって、助けあって生きていけるはずだろうことを、密はもう知っているからだ。
「それで――いつか、両手いっぱいのお土産話を持って会いに行くんだ」
 最期の言葉を覆さない。最期の想いを裏切らない。裏切ってはいけない。
 だって、その優しさと慈愛に、自分たちは生かされているから。


 ピンポーン、と軽快なインターホンの音が鳴る。タイミングが良いのか悪いのか、たまたまリビングに1人であった密は、重たすぎる腰を上げて玄関先へと向かった。
 上等な観音開きの玄関扉を開くと、そこに居たのは昨日の今日というかなんというか、少しだけ目を腫らしたようななまえであった。照れくさそうに笑いながら、両手に抱えるほどの袋を密へと押しつける。
「……なにこれ」
「マシュマロだよ、ちょっと良いやつ奮発した。月岡くんからマシュマロ好きっての聞いたから」
「なんで……」
「話聞いてもらったでしょ。そのお礼」
 この前はごめんね、と笑うなまえの口元からは、かつてのぎこちなさは少なくなったように見える。否、それよりも目を引くのはさっぱりと切り揃えられた襟足だろうか。先日まで背中ほどもある髪をひとつにまとめていたはずだが、彼女の人柄を思えば確かにショートカットのほうが合っているかもしれない。
 そっちのほうがいい――密が素直にそう言うと、なまえははにかむように密を見てきた。宝石のようにまばゆい瞳は、愛おしそうに細められる。
「……やっぱり似てる」
「なにが」
「声だよ。御影くんの声がさあ、うちの旦那によく似てるんだよね。……だからなんか、君に『なまえ』って呼ばれるとちょっと複雑で」
 でももういいんだ、となまえは言う。晴れやかな笑みはきっと、かつての彼女が湛えていたものと同じものなのだろうと思った。
「前に進むんだ、私。2人が――輝樹と壱輝が羨ましがるくらい、目いっぱい幸せになってみようと思って」
「……うん。なまえなら出来る」
「あはは、うん。だからね――」
 一歩踏み出したなまえが、密の肩口に頬を寄せる。すう、とひとつ呼吸をして、密が何かを言う前に離れた。
「私が凹んだときは、密くんが慰めてね」
 密は小さく頷く。彼もまた、前髪の隙間から見える目を細めて笑った。

20180515
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