LOG

とじておきたい眠り姫

軽くですが嘔吐描写があります。ご注意ください

---

 6人で囲む食卓は思ったよりも盛り上がって、あっという間に時間が過ぎた。身長の低さにそぐわないなまえの食欲に声を上げたのはシトロンさんで、そのことについてつついた直後、控えめな声で「おかわり」と言われる。けれども自分のつくったチャーハンを美味しい美味しいと食べてもらえるのは料理人冥利に尽きることであり、冗談抜きに誇らしかった。しゃあねえなあ、と余りをついだあとで、他のメンツと同じくらいの量を盛っていたことを思い出して吐き気がしたのは内緒だ。
 たくさん食べちゃったから、と照れを滲ませるなまえに後片づけを手伝ってもらって、あとはいつもの通り解散。咲也とシトロンさんは観たいテレビがあるらしく談話室に残り、俺は課題の続き、真澄もやることはないらしいので早々に部屋に戻ってきていた。至さんはなまえを引き連れてやはりゲーム三昧らしく、時おり隣の部屋から騒ぐ声が漏れてくる。
 そうしてしばらく各々の時間を過ごすうちに夜は更け、例にもれず俺も必死に中断した課題を片づける。ところどころでつまずいては友人と課題についてLIMEのやり取りをしていたころ、ふと右上の時計が目に入る。時刻はいつの間にやらもう21時を過ぎていて、そろそろ帰るべきではないかと壁の向こうにいるなまえのことを思った。
 どうやって声をかけるべきか、彼女にもLIMEを入れておけばいいのか、諸々を考えてとりあえず102号室を出る。監督がいなくてつまらないのか、騒ぐ気力も尽きたのか、ひどく大人しくなった真澄の視線を背中に感じながら扉を閉め、中庭に足を踏み入れた。草だらけでぼうぼうの有様を眺めると、なんとなくここを片づけなければいけないような使命感に駆られるが、しかしそこは俺の範疇外である。気にしない、気にしない、そう念じて談話室のほうへ足を向けると、ちょうど103号室の扉が開いた。至さんとなまえが連れ立って出てきたのである。
「おつー。課題終わった?」
「あとちょっとってとこっす。至さんはなまえの見送りですか?」
「そ。でもここんとこ物騒だしね、送っていくよって言ってたとこ」
 当のなまえはなんとなく気恥ずかしそうに肩をすくめていて、大丈夫だよ、と何度も繰り返していた。そんなこと今までなかったのに、と続けた顔がふと陰ったように見えて、関係のない俺までぎゅう、と胸が痛む。
 けれども至さんに引く様子は見られず、それどころか小さく「いやな予感がする」とつぶやいて、ゲーム中とは違う鋭さを持った目でなまえを見る。しかし俯きがちのなまえにはその声や視線は届かなかったようで、それら全てを見ていられたのは、一歩引いていた俺だけだ。胸が軋む。その痛みには、悲しいほど慣れているけれど。
「ま、せっかくだから綴も見送ってやってよ。車出してくる間、ちょっと玄関で構ってやって」
 前髪を止めていたゴムを外し、くしゃくしゃと整えながら至さんは言う。さっきの「いやな予感」が足元を這い上がってくる気がして、過保護かよ、と突っ込む余裕もないまま素直に頷いた。まあ、少しでも一緒に居られる時間が増えるなら、それに越したことはないのだ。
 シトロンさんしかいない談話室を通り抜けて玄関口へと向かう。咲也は部屋に忘れ物でも取りに行っているのだろうか? キッチンにも人影は見えないな、と玄関のほうへ顔を向けたとき、誰かの話し声がする。
 こんな時間に来客だろうか――その声は、まさに来客であるなまえの背中を見て飲み込んだ。
「――だから、わたしは別にあなたに会いに来たわけではないの。ここに妹が来ているはずなのよ」
 ぴしり。文字通り空気が凍てついたような錯覚を起こすほど、眼前のなまえの様子が変わる。にこやかに、なんとなく浮ついていた足取りは一変、石化でもしたようにはたと止まってしまっていた。ちらりと覗き見た至さんの表情もどこか険しくて、尋常じゃない変わりように俺も息を呑む。声をかけることすら憚られた。
「あなたじゃあ埒が明かないわね、上がらせてもらうわよ」
「わわっ――ちょ、ちょっと待ってください!」
「待てと言われて待つ人間がどこにいて? やましいことがないなら素直に通しなさい、物わかりの悪い子ね」
 必死に静止する咲也の声が聞こえてくる。やがて近づいてくるどこか忙しない足音が大きくなるたびに、目の前にいる2人が身構えるような姿勢に変わっていくのがわかった。
「なまえ、とりあえず俺の部屋に行ってて。歩ける?」
「――」
「綴! なまえを連れて早く――」
 立ちすくんで動けないなまえを無理やり押すように動かして、至さんは玄関のほうへ向かおうとする。おそらく時間稼ぎでもしようというのだろう、訳がわからないままではあるけれど、さすがにこの状況で何にも察せないほど俺も鈍い男じゃない。この至さんの行動が、ただ長居をさせてしまった罪悪感とか、悪戯がバレた子供のような罰の悪さとか、そんなもので片づけられるものじゃないことくらいは理解できた。とんでもないものが襲ってきている、それくらいはわかる。
 ただ悲しいやら情けないやら、わかっていても瞬時に動くことは出来なかった。なまえを受け止めて、特別体格が良いわけではないが上背だけはあるおのれの体で隠そうとした、その刹那に“それ”がやってくる。いやに落ちついた「あら、ここにいたの」というひと言を聞いた瞬間、俺もまた金縛りにあったように体が強張ってしまった。
「心配したのよ? ここのところ帰りは遅いし、わたしが何か話しかけてもいっつも上の空だものね。……ほーら、隠れてないで出てらっしゃい」
 鬼が出るか蛇が出るか――そう思った俺の目の前に現れたのは、どこからか特有の効果音でも聞こえてきそうなくらいの美女だった。
 緑がかった黒髪はふんわりとウエーブがかかっていて、腰ほどもある長さなのに少しも重みを感じさせない。平均より高めの身長も細く華奢な体を際立て、けれども嫌みのないか弱さと、どこからか醸し出す強かさをうまい具合に彩っていた。透けそうなほどに白い肌、見透かすような水色の瞳、艶のあるくちびる、にこやかな表情。誰しもが彼女を美しいと、麗しいと表現するだろう。美女は3日で飽きるというが、きっと彼女を前にしては、3日も正気が保てない人だっているかもしれない。俺は同じ空間にいることすら遠慮したくなるような、住む世界や構成物質すら違うと思ってしまう、そんな女性。
 それだけの魅力をたたえた女性が、いま、圧倒的な威圧感を放ちながら迫ってくる。目当ては俺なんかじゃない。俺の背中で、俺なんかにしがみついて、壊れそうなくらい震えているなまえに向かって歩いてきているのだ。優しく笑っているはずなのに、どうしてこんなにも恐ろしさを感じてしまうのだろうか。
「……あの、一体どちら様ですか。名乗りもせずにこんなって、さすがに失礼だと思うんですけど」
「あら……そうね、わたしったらごめんなさい。わたしはみょうじねいむといいます。この子の姉よ、非行に走っている妹を迎えに来たの」
「非行って……いくら姉貴とはいえ、何の話も聞かずに無理やり引きずっていくようなこと、してもいいと思ってんですか」
「まあ! 随分と大層な口を叩くのね、驚いたわ」
 長いまつ毛に縁取られた大きな瞳が、こぼれ落ちそうなほど見開かれる。信じられない、といったふうな表情であるが、そこには確かな侮蔑の色が見て取れた。自分は正しい、間違いは俺、なまえが悪いことをしている、そう決めつけているような目だ。
「なら言わせていただきますけれど、よく考えてみてくださらない? まだ高校生の娘が、こんな夜遅くまで男だらけの家に入り浸っているのよ? 家族として心配しない人がどこにいるのかしら、可愛い妹がどこの馬の骨ともわからない輩に乱暴されていたなんてことでもあったら、『気がつかなかった』じゃ済まされないでしょうに」
「――それは、そうっすけど」
「物事はね、起きてからじゃあ遅いのよ。あの赤い髪の子みたいに無害そうな男ばかりじゃないし、特にうちの妹は弱虫で泣き虫のダメな子だもの、いざ何かがあったとしても抵抗なんか出来やしないわ。だからわたしが助けてあげなきゃいけないの、わかるでしょう? それが家族の務めだもの」
 声を荒らげることはない。ヒステリックに騒ぎ立てるような、無様かつみっともないこともしない。けれども胸がざわついてやまない。こんな数回のやり取りだけなのに、俺は確かに向けられている敵意にがんじがらめにされ、今にも崩れ落ちそうになった。
 ――苦手だ。本能的にそう思う。どんなに見てくれが良かろうと、どんなに金を持っていようと、俺は決してこの人を選びはしないだろう、そう直感した。きっと至さんも同じだろうことが、険しくなった表情から手に取るようにわかる。
 何より、そんなに愛しているはずの妹を「ダメな子」だと吐き捨てる、その根性に吐き気がした。
「なまえちゃん、大丈夫……?」
 俺らが睨み合いをする背後で、そっと咲也がなまえに声をかける。今の俺はヘビに睨まれたカエルなわけで、なまえのほうへ目を向けることは出来ないのだけれど、それでもよっぽどの状態だろうことはわかった。小声でボソボソと言う言葉は何も聞き取れやしないが、彼女の動揺を伝えるには充分だ。普段ハキハキと話すからこそ、背後の彼女を思うと今にも抱きしめてしまいたくなる。したらしたで大問題になるので、きっと一生できやしないだろうけど。
「……あの、なまえちゃん、帰りたくないって」
「なんですって……? ……それ、本当になまえが言ったの? あなたが勝手に言ってるだけじゃないでしょうね」
「先輩。咲也はそんな嘘を吐くやつじゃないですから」
「元はと言えばあなたのせいよ、茅ヶ崎くん! あーあ、そもそもあなたとなまえを会わせたこと自体が間違いだったのかしら!? じゃなきゃこの子がゲームなんかにのめり込むこともなかったでしょうに、困った趣味を増長させられて、まったく、人の妹の人生を左右したって自覚が――」
「お姉さん!!」
 なまえからの拒絶を受け、見るからに様子の変わったお姉さんを制したのは咲也だった。普段、ひどく朗らかで明るい咲也だからこそ、こうして声を荒らげると気迫があるし、俺ですら怯みそうになる。けれどもそれはお姉さんのように恐怖を連れてくるものではなく、はっと目を覚まさせるような、鶴の一声にも似たものだった。
「……人の好きなものを、そんなふうに言っちゃダメです。それでなくても否定なんかしちゃいけない。なまえちゃんにも、至さんにも、きっと、不可欠なものなんです」
「あなたに何がわかって――」
「わかりません。オレはゲームに馴染みはないし、あなたがなまえちゃんをどう思っているかとか、お家がどうなのかとか、そんなことはきっと理解が出来ない。でも、なまえちゃんたちがすごく楽しそうにしてたこと、これ以上あなたに否定の言葉を言わせちゃダメだってこと、それだけはわかります。あと、こんな状態のなまえちゃんを、家に帰しちゃいけないってことも」
 怯むように後ずさるお姉さんを見て、「あと少しだ」と思った。何も言えない自分が恥ずかしくもあるけれど、きっとこの人は俺の話なんか聞き入れてくれない。至さんですらダメだったんだ。今この人に何かを伝えられるとしたら、ここには咲也しかいないとわかる。
 情けないけれど、今の俺に出来るのはなまえを背中に隠しておくこと。そして、この人がよっぽどの手段に出たときに、守るための盾になることくらいだ。
「……今日のところは帰ってあげる。ただし、きちんと明日には帰してちょうだいね。くれぐれも変なことはしないように」
 いくらかの逡巡のあと、か細いため息を吐いてから、いやに呆気なく彼女は踵を返していった。ばたん、と大きな扉の音が辺りに響いて、ようやっと呼吸が出来たような、緊張の糸が切れた感覚を覚える。どっと疲れが押し寄せて、全身から汗が吹き出て、大きく息を吐いてからゆるりと背後のなまえに目を向けると、真っ青な顔で震えていた。
「う――ッ、ぐ、うえ、……っ」
 刹那。なまえはその場に崩れ落ちながら、うめき声をあげて嘔吐する。はらはらと涙を流して、ひどく苦しそうにしていた。服が汚れるのなんかどうでもいい。俺がなまえの背中をさすっていると、いつの間にやら消えていた咲也が新聞紙と洗面器を持ってきてくれて、騒ぎを聞きつけたらしいシトロンさんも、雑巾やバケツを持ってくる。至さんはなまえを寝かせる場所の確保と適当な着替えをとってくると、小走りで部屋へ戻っていった。
 洗面器に溜まっているのは、消化途中のチャーハンとオレンジ。どちらも俺がつくって、俺が皮を剥いたものだ。もう胃液しか出なくなって、えずくばかりになった頃、なまえがぎゅうぎゅうとしがみついてくる。躊躇いながら背中に手をまわすと、なまえの力もまた強くなった。ぐすぐすと泣いている声がする。
「ごめ、っ、ごめんなさい、ごめんなさい。……ここだけは、ここだけは大丈夫って思ったのに、ごめんなさい、ごめんなさい……っ」
 うわ言のように謝罪を口にするなまえが、ひどく痛ましくて息が詰まるかと思った。何も言えないまま抱きしめて背中を撫でているうち、ぜえぜえと息を荒げながら、そうして意識を手放した。もたれかかってくる体は軽い。小さくて、華奢で、まだまだ弱い子供の体だ。
 咲也とシトロンさんが掃除は任せてくれと言うので、俺はなまえを横抱きにして、風呂場のほうへと向かう。着替えさせるにも至さんの部屋を汚してしまっては元も子もないからだ。
 至さんも同じ考えであったようで、先に着替えの用意をして待機してくれていた。汚れたところを拭くためのホットタオルも準備されていて、本当にこの人はいつものぐうたらな至さんなんだろうか、と頭の片隅で考える。
 くたりと力の抜けたなまえを壁にもたれさせて、どうしたものかと至さんを見る。至さんはホットタオルを一度開き、軽く熱を逃がしていた。
「着替え。俺がさせるから、お前は後ろ向くかあっち行くかしてて」
 撥ねつけるような至さんの声に、夢から覚めたような感覚を覚える。なまえを背に隠して、ここまで連れてきて、それでなんとなく特別になった気がしていたけれど、実際は昨日の俺と何にも変わりはないわけで。なまえにとって俺はただの友だちであって――本当は友だちだとも思われてないかもしれないけれど――長い付き合いの分も、何もかも、全部至さんにあるわけだ。
 逆らえないまま頷いて、俺はふらつきながら脱衣場を出ていく。よく見るとそこかしこに垂れ落ちた吐瀉物が散見して、なるほどここも片づけなければならないなと思った。――思ったものの、今はそんな気力もないので、咲也とシトロンさんに任せてしまうことにする。
 風呂場の扉に背を預けて今日何度目かもわからないため息を吐きながら、今度は眼下の汚れた姿を目に入れて自嘲した。あんなになまえを抱いていたのだから当たり前だ。着替えよう。それか早めに風呂をもらって、今の鬱屈したものも全て洗い流してしまうか。きっとその頃には至さんの作業も終わっているはずであるし、俺はゆっくりと、緩慢な歩みで部屋へ戻った。
 ドロドロになった俺を見た真澄の面倒くさそうな顔を見て、なぜかひどく泣きたくなったことは、きっと未来の俺にも内緒だ。

20180814
- ナノ -