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ひら、ひら、かくして

 ――眠り姫みたいだと思った。
 伏せられたまつ毛から影の落ちる頬は真っ白で、血色の悪さも相まって今にも消え入りそうだった。そろそろ馴染んできた寮の談話室で、座り慣れたソファのうえ、時おり魘されるように身を揺らす姿はどこか世俗的にも見えるが、痛ましくも美しい。彼女の見てくれにこの場は何もかもが不釣り合いで、けれどもその姿さえあればこの寮も何かの舞台に見える。なんだか触れることも許されないくらい、同じ空気を吸うことですら躊躇われるくらい、その姿は可憐であり、そして、浮世離れを感じさせた。
 劇作家を目指している関係上、出来うる限り精力的に、そして能動的に、様々な小説や脚本へ目を通すようにしている。だからどうしても脳裏をよぎる表現や、ふとしたものへの感想がどこか詩的になってしまうことがあって、まあ、口には出さないことだけ気をつけてはいるのだけれど、どうにもそれが癖になってしまっているらしい。
 だから「眠り姫」だと思った。眼下で眠る少女を見て、か細い呼吸に耳を澄まして、その寝顔に囚われたかのように目を離せないまま、俺は彼女に釘づけとなっている。それは一目惚れと呼ぶには余りにも狂気的で、そして、余りにも不相応だとも思った。
 ただ、はやくそのまぶたが開かれたところが見たい。はやくその目に俺を映してほしい。叶わないことはわかっている。伝えるつもりも毛頭ない。ただ願わくば、少しでもその世界に俺という存在を刻みつけさせてほしい。俺が存在することを、どうか許してほしかった。
 そんな、ある種病的な想いを名前も知らない少女に抱きながら、俺は彼女を見つめていた。そしてその願いが色んな意味で打ち砕かれるときは、きっと、そう遠くないと知りながら。


「あれえ、今日めっちゃ静かじゃない?」
「騒がしいやつらが合宿に行ってるからな……」
「合宿?」
「そ。2泊3日、監督と支配人も一緒だって」
 春組の旗揚げ公演が終わってからしばらく。なまえはもうすっかりMANKAI寮の顔馴染みとなっていて、彼女がここを訪れても誰彼が騒いだりはしなくなっていた。それは春組だけでなく夏組の面々も同じことで、むしろ途中から彼女を認知した俺たちよりは、初めから彼女を“在るもの”として見ていられた彼らのほうが、順応性は高いのかもしれない。
 当のなまえはほぼ連日、毎日のように入り浸っては時間を潰しているように見える。もちろん学生としての本分である勉学に励んだり、至さんが帰宅してからは彼とゲームに耽ったり、非力ながら監督や支配人の手伝いをしたりなど、決して時間を無駄に浪費しているわけではない。皆が揃ったときはコミュニケーションをとり、稽古の時間になったならば、前述の通り1人宿題を片づける。それは談話室だったり、至さんの部屋を借りたり、場所に関しては様々だ。それでも、下校時刻から監督たちに許されるギリギリまでここで過ごしている現状というのは、やはりどことなく異常に映るものだった。
 けれどもなまえ本人の持つ壁というか、それはある種至さんが張っていたものにもよく似ているのだけれど、とにかくその辺りに触れることはなんとなくだが憚られた。何かを言われたわけでも、拒絶されたわけでもないのに、なまえの振る舞いがそれを拒む。するりするりとかわすように、追求する気を削いでいく。そんな、どこか飄々とした振る舞いを、なまえは得意としていたように見えた。
「あ、ねえ、綴くん暇?」
「……まあ、差し当たって」
「やった! じゃあ一緒にゲームしよ、はいこれ」
「お前、ハード複数持参とか……つーか、何度も言うけど別に俺、そんなゲームうまくねえし」
「上手い下手は関係ないの! あたしは、綴くんと楽しくゲームがやりたいんだもん」
 ねっ、と押しつけられた携帯ゲーム機を、とうとう受け取ってしまった。どうにも押しに弱いところは、自覚のある弱点である。
 至さんはまあ別格として、ここでのなまえは俺といることを好んでくれていたように思う。一緒にいると落ちつくのだとか、安心できるとか、嘘か本当かわからないようなあざとい文句ばかりをくっつけて、だ。その、どこから本気でどこまで気まぐれかわからない文言ですら気分が良くなってしまうのだから、俺はまた自嘲まじりにため息を吐いた。見た目で得をするとはまさにこういうことだろうし、もしかすると、また別の表現で表せる事象であるのかもしれない。
 その、いわば顔面詐欺というべき所業に至さんを思い浮かべてしまい、また気分が滅入ってくる。理由については察してほしい。やっぱり長く共にいる人間は似てくるのだなあ、とシンクロニーを実感する傍らで敗北感を感じながら、真新しいゲーム機のスイッチを入れる。あまり馴染みのなかったそれの操作に手慣れてしまったのは、他でもないなまえのせいだ。
「で、なんで合宿?」
「あー……そういやなんでだろうな? なんか、天馬は咲也のアドバイスを受けたから、とか言ってたけど」
「アドバイスとは……」
「みんなで寝てみるとかなんとか。俺らが舞台の上で雑魚寝したのを、天馬なりに色々解釈したんじゃね」
 ふうん、とどこか納得のいかない様子のまま、なまえはピンク色のオーバルフレームを耳にかける。勉強のときやゲームのときに視力を矯正するのだと、つい先日教えてもらった。あまり視力は良くないそうで、日常生活に支障が出始めたらコンタクトにするんだと、そんなこともついでに。
 ふと窓の向こうに目を向けると、少し陰った空が見えた。これからひと雨来るかもしれない。洗濯物はもう入れてあるので問題ないけれど、強いて言うなら出払っている面々のことが心配だ。あともうひとつ、なまえの帰路についても。
「お天気あんまり良くないね」
「それなー。そういや、お前が初めてここに来たのも、こんな感じの天気だったっけ……」
「その話はやめてください……」
 ぐう、とうつむくなまえにくつくつ笑うと、赤くなった顔に睨みつけられる。静寂のたゆたう談話室には、俺たちの声とゲームの音だけが響いていた。
 至さんはまだ帰ってきていない。咲也はしょぼくれた真澄を引っ張ってストリートACTに出かけていて、シトロンさんは夕食の買い出しに行ってくれている。本当は俺が買い出しに行くべきだったのだけれど、ちょうど大学の課題を片づけていたときだったので、手持ち無沙汰だったらしいシトロンさんがそれを買って出てくれた、というわけだ。シトロンさんは商店街の人気者だから、もしかすると夕飯のデザートになるものも、ついでに調達してきてくれるかもしれない。
 1人になった寮は静かで、なんとなく物悲しい気持ちにすらなった。10人兄弟の大家族で育ったからこそ、しんとした家というのは安息よりも不安を産む。静かで集中できるはずだったのにどうしても身が入らないまま、気分転換に談話室で麦茶を煽っていたときに、来客があったという寸法だ。
 つまるところ、ぶっちゃけ俺にとっての今はそれほど暇じゃない。急ぎの課題ではないにしろ早めに片づけるに越したことはなくて、本来ならばこんなふうにゲームなんかしている場合じゃないのだけれど、こうして隣に腰を下ろしてしまった以上、そんなことはもうお空の彼方に消えていた。隣でなまえが嬉しそうに笑っていて、俺自身もなんやかんや楽しんでいるのだから、これ自体が良い気分転換になると無理くり自分を正当化する。――いいのだ、これで。そう、呪文のように心の中で繰り返した。
 なまえが至さんを目当てにやってきていることはわかっているくせに、どうしてもこの現状に胸が躍ってしまう浅ましさを抱えている。どうやら俺は、自分で思っているより何倍も単純なようだった。
「ただいま――って、あれ、なまえはまた綴を付き合わせてんの」
「おかえりなさい。気分転換にもなるんで、ちょっと一緒してました」
「おかえりー。お疲れちゃん」
 そうして束の間のひと時を堪能していたおり、一番に帰ってきたのは至さんだった。今だけは会いたくなかったな、という独り言はなんとか喉の奥に押し込む。
 なまえがこん、と右手で狐の形をつくると、同じく狐をつくった至さんが、通りすがりになまえをつつく。狐の鼻先を遊ばせたあと、ひとつにまとめたなまえの髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜて画面を覗きこんだ。じっとそれを見つめてはふんふんと頷く至さんが、探るようなローズピンクを俺のほうに向けてくる。
 この、なんてことないスキンシップすら見せつけられたように感じて、なんとなく居心地の悪さを覚える。そそくさと立ち上がり、帰りの遅いシトロンさんを迎えに行くと適当な理由をつけて歩き出そうとすると、背後から声がかけられた。
「やるじゃん、綴」
「はあ? な、なんすかいきなり」
「スコア。初心者にしてはなかなかだよ、筋が良いのかもね」
「あたしが教えたんだからトーゼンじゃない」
「はいはいおつおつ。でもいいね、俺も綴とやってみたいな」
 くつくつと喉奥で笑いながら言う至さんのそれを、どう受け止めるべきかわからないまま流す。ただの興味本位や友好的な意味合いなら構わないのだけれど、もしもその裏側に隠されているものがあったとしたら大変だ。自分はどうしていいかわからない。後から割って入ったのは俺のほうであるし、何より春組としての和を重んじるとき、黙っていなければならないのがどちらなのかなんて、そんなものは明白だ。
 胃のもやつきを逃がすように、再び深い息を吐く。そんなことしたら幸せが逃げるよ、という至さんの声は無視した。向こうもあまり気にとめていないのだろう、すぐになまえとゲーム談義に花を咲かせ始めたから。
 スーツのまま座り込む至さんに早く着替えを済ませろと注意した刹那、遠く玄関扉の開くような音がした。直後に聞こえてきた賑やかなアンサンブルから、おそらく留守にしていた面々が帰ってきたのだろうことを理解する。おかえり! と少しばかり声を張って言うと、各々の帰宅の挨拶と共に元気な顔が3つ見えて、そのことにひどく安堵した。
「……うっし。そんじゃ、気合い入れて晩飯作りますか」
 ぐい、と腕まくりをしてシトロンさんから荷物を預かる。使い慣れたエコバッグには、案の定頼んでいなかったはずのオレンジやクッキーが入っていて、これで食後のデザートには困らないな、と笑みをこぼした。やけに上機嫌なシトロンさんと、少しは元気が出たらしい真澄と、それに手を焼く咲也。その3人を見ると、どこか心が安らぐ気さえする。
 材料片手に台所へ向かった頃には、もう既に先ほどのモヤのことも、ついでに言うと課題のことも、すっかり頭から抜けていた。

20180814
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