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Photogenic

 MANKAIカンパニーの脚本家として書かせてもらっている手前、そこに妥協は許されない。遊びじゃない。趣味でもない。これはれっきとした仕事である。お客さんの、劇団員の、スタッフの、監督の時間と金を浪費させてしまうのだから、俺はみんなの期待に応え、有り余る満足を与えられるようなものを生み出していかねばならないのだ。
 だからこそ俺は脚本というものと、真摯に、直向きに、きちんと向き合うべきと思っているし、脚本のネタなんてどこに転がっているかわからないのだから、思いついたものひとつひとつを忘れずに残していけるよう、メモの類は常備するようにしている。場合にはよるが紙がいい。書いているという実感と、時にもどかしさを感じる執筆の感触が刺激となってアイデアが溢れることもあるからだ。たまに字が汚すぎて何がなんだかわからないこともあるのだけれど、それは衝動のままにキーボードに指を滑らせた、誤字だらけのスマホのメモアプリも同じことである。
 最近はメモに加えて写真を撮ることも増えた。単純に資料を見つけたときというのはもちろん、この世にはどうやっても文字で残しておけないものがあって、それらは網膜に焼きつけたとしても記憶がだんだん風化していく。たとえばまばゆい夕暮れだとか、風に遊ばれるたんぽぽの綿毛だとか、足元に擦り寄る野良猫だとか。そんな、書き起こすことの出来ない感情や閃きを思い出すために、写真として情景を残しておくのだ。どこぞのサブカル女みたいだと揶揄されそうな行動ではあるが、脚本のため、書きたいもののため、劇団の未来のためのものであるため、少なくとも劇団員にそれらを冷めた目で見る者はいない。むしろ万里なんかはこっちも撮れば、これもいんじゃね、なんて手伝いすらしてくれる。本当に良い仲間に恵まれてんなって、こういうときによく思うのだ。
 話を戻そう。つまり俺はこの一年余りの間で、そういう“癖”を身につけた。閃いたときにメモを取る癖。資料になりそうなものを見つけたとき、はたまた強く感情を揺さぶるものを見たときに写真を撮る癖。だからつまり、心が震えるような感覚を覚えたときに、ついつい手持ちのスマホのカメラを、“それ”に向けてしまうのだ。
 カシャ、というシャッター音が鳴った瞬間に我にかえる。が、それは時すでに遅しというやつで、俺はまるで自分こそがカメラという枠の中に閉じ込められたかのように、ぴたりと動きを止めてしまった。被写体がこちらを振り返る。
 固まる俺のスマホの画面に閉じ込められていたもの。それは、真っ白な女優帽を押さえながら高い高い青空を見上げる、なまえの後ろ姿だった。茹だるような真夏の暑さを一瞬忘れてしまうような、どこか浮世離れした青と白のコントラスト。目を奪われるとはまさにこのことなのだと思った。
 普段の言動で忘れがちになるけれど、確かになまえはひどく見てくれが整っている。雪のように真っ白な肌も、ふわふわで甘い香りのする薄緑の髪も、蒼天より透き通った水色の瞳も、誘われるように手を伸ばしそうになる唇も、彼女をまるで作りものめいた何かと錯覚させる。触れればちゃんと柔らかくて、あたたかくて、切れば血の出る人間であるのに。この、恐ろしいほど整った見た目をしているくせに、非常に個性的、言わば残念である中身を隠し持っているなんて――長く一緒にいると人間とは似てしまうのだろうかと、同じくMANKAIカンパニーに所属する劇団員の仲間を思って独りごちることは、実のところ少なくない。
「綴くんのえっち」
 振り向いたなまえは悪戯に、それでいてからかうように笑う。その、はにかむような柔らかい表情もまた、閉じ込めたいほど好きだと思ったのだった。

20180807
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