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きみはひかり

本編のセリフを引用している部分があります

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『今日こそ、ロザラインを誘うんだ……』
『この花をください。宛名にはロザライン――』
 ――夢を見ているみたいだった。
 入場開始直後に入った、どこか閑散とした劇場から一変。だんだんとお客さんが増えていって騒がしさが増していくなか、気がつけば劇場は満席になっていた。仲睦まじそうな老夫婦だったり、おそらく友だちと来たんだろうお姉さんだったり、ちょっと強面のお兄さんだったり、様々な人たちがひとつの劇場に押し込められている。ざわざわと期待に満ちた声がした。今日で2回目なのだとか、やっとチケットが取れて安心したとか、ロミオとジュリアスって何だろうとか、色んな人の話し声をBGMのようにして、あたしの胸はどんどん高鳴ってゆく。
 そうして始まった公演は、ひと言で言うなら夢の世界だった。現実から切り離されたような感覚。あそこにいるのは顔見知りの春組の団員たちじゃない。れっきとした、ロミオとジュリアスの登場人物が立って、そこで呼吸をしている。
 咲也くんじゃなくて、ロミオ。
 碓氷くんじゃなくて、ジュリアス。
 綴くんじゃなくて、マキューシオ。
 至くんじゃなくて、ティボルト。
 シトロンさんじゃなくて、ロレンス神父。
 そういった、創作物が現実になったような感覚を覚えるのだ。だってみんながそこにいる。同じ空気を吸って、同じ空間に存在して、同じように汗をかいて、笑って、しゃべって、怒って、また笑って。血が通った体を持ってる。骨や内臓のうえに皮をまとって、人の形をして、各々の人生を歩んで、ここにいるんだ。
 他人のことであるはずなのに感情移入をしてしまって、胸がいっぱいになって苦しいくらい。ロミオとジュリエットは何度か読んだことがあるけれど、それでもひどくハラハラして、ドキドキしながら物語を追っていた。
『だめだ。僕は家族を捨てられない』
 ジュリアスのセリフが胸に突き刺さる。どうしてだろう。普段の自分からすれば共感なんて出来ないものであるはずなのに、ジュリアスの悲痛な声、表情、緊迫した雰囲気に飲まれているのか、あたしまで胸が苦しくなる。無意識にほろりと涙を流す程度には。
 いつしかあたしは、至くん目当てだなんて邪な動機を忘れて、新生春組の舞台に夢中になっていった。
 みるみるうちに話は進んで、ロミオとジュリアスが旅立ちを約束した日が訪れた。けれどもそこで待っていたのはジュリアスではなく、繰り広げられるのもティボルトがマキューシオを刺し、ロミオがティボルトを刺してしまう激しくも厳しいシーンだ。殺陣の最中、刺されたティボルトのひどく緊迫した様子にこちらまで動揺してしまう。観客席もそうであるのか、どこかざわついたような空気を醸し出していたけれど、そこにロミオの鋭い声が突き抜けるように響いた。
『やめろ、ティボルト! もう戦いは終わったんだ!』
 呆然としたティボルトが、虚ろな瞳のままロミオとマキューシオを見ていく。マキューシオを刺してしまった動揺に苛まれ、ロミオに刺された現実ですら受け止められずにいるのかもしれない。――このときの様子は、迫真、まさにそれだった。
 息をするのも忘れるくらいの絶妙かつ張り詰めた間を使って、正気を取り戻したティボルトが再びロミオに敵意を向ける。
『――死ね、ロミオ!』
 けれどももみ合いの末にティボルトは敗れ、もう一度ロミオに刺されてしまう。ひどく静かに倒れたティボルトは、本当に死んでしまったように見えた。
 それからも、ひたすらに続く目まぐるしい展開にあたしは瞬きすら忘れたように見入っていた。このひと時が永遠であってほしい、物語が終わりを告げても、ロミオとジュリアスの未来をずっと見守っていきたい――そう、強く強く思わせるほど、語りかけてくるものがある。
 けれどもそんな願いは叶うわけもなく、あっという間に夢の世界は終わりを告げて、カーテンコールの時間がやってきた。溢れる涙を止められないまま精いっぱいの拍手を送る。舞台袖から出てきたみんなはそれぞれに涙を滲ませていて、そして、ひどく幸せそうに笑っていた。
 ただひとつ気がかりがあるとすれば、至くんの頬にみんなよりも目立つ涙の痕があったことだ。



 ぐず、と鼻水を啜りながら劇場を出る。ようやっと涙が収まってきて、なんとか外に出れる程度にはまともな顔になったからだ。
 けれどもやはりあの感動はどんどん胸の奥から溢れてきて、少しでも気を抜けばまた声をあげて泣いてしまいそうになる。これじゃあダメかもしれない、まっすぐ家に帰れないかも、そう思ってあたしは踵を返し、ロビーの隅に座らせてもらった。自販機で適当なジュースを買い、カバンからスマートフォンを取り出してマナーモードを解除しようと画面を点灯させると、LIMEのメッセージが入っているのが見えた。差出人は至くんだ。
『どうせまだ帰れてないでしょ。来れそうなら楽屋においで』
 ――変わらないな、と思った。どこか逃げているような、こちらに選択肢を残させる言い方を、至くんはよく使うのだ。
 既読だけつけて立ち上がり、スタッフさんに声をかけて楽屋への道を教えてもらう。大丈夫かな、とは思ったけれど、本人に確認を取ってもらって構いませんと言えば、快く案内してくれた。
 楽屋の前に立ち、こん、と小さくノックをする。返事を確認してから扉を開けると、咲也くんたちが晴れやかな笑顔で迎えてくれた。中には見知らぬ女の子やお兄さんもいて、場違いかなと思いつつも入っていく。至くんは奥のほうの椅子に座り、紙コップでお茶を飲みながらあたしを見る。そして、いつもみたいに、優しい顔で笑ってくれた。
 それだけであたしの緩んだ涙腺は涙を流してしまい、両手で顔を覆いながらまたみっともなく泣きじゃくる。ぎょっとしたような咲也くんたちと打って変わって、至くんはどこか安心したような顔を見せた。
「おまえ、本当に感動屋だよな」
「だ、だって……っ」
「舞台から見えてたよ、おまえのこと。すげえ真剣な顔してたのも、途中からずっと泣いてたのも丸見え」
 くすくすと笑いながら、あたしの傍へ歩いてくる至くん。衣装の襟元を少し崩したリラックスした様は、なんとなく二次元と三次元の狭間にいるような錯覚を起こさせた。
 ぽす、ぽす、頭を撫でられて、また涙が溢れてくる。鼻水までジュルジュルの泣きっぷりにさすがに心配になったらしい監督さんがティッシュを箱ごと渡してくれて、無様な声でお礼を言いながら受け取ると慌てたようにあたしの背中をさすってくれた。感極まって監督さんに縋りつきながら泣くと、監督さんも目に涙を浮かべながらあたしのことを抱き返してくれる。ロミジュリの舞台も、また笑ってくれた至くんも、あたたかいみんなも、何もかもがあたしに涙を流させた。これは嬉しいときの涙だ。
「ごめん」
 そして、出し抜けに至くんはあたしに向かって頭を下げる。思わぬ事態に涙が引っ込みかけた。
「……その、すごく、子供じみたことしたなって、色々。あんな顔させたかったわけじゃないのに」
「いたるくん、」
「っと……あー、おまえとは、ケンカ別れとか、したくないし、」
 きょろきょろと視線を彷徨わせる至くんは、初めて出会ったときに見た王子様とは全然違った。干物オタクで、ゲーマーで、本人曰くコミュ障な、ありのままの至くんのすがた。
 あたしが一番好きな至くんだ。
「――あっ、あだ、あだじも……っ」
「こ、なまえちゃん! その顔はダメ! 鼻水が――」
「あだじもごめんなざい〜〜〜!」
「ちょっと! オレの作った衣装汚さないでくれる!?」
 耐えきれずに至くんにしがみつくと、頭上で至くんが安堵したように息を吐くのがわかった。腕の中をすり抜けられた監督さんはあたしの顔を隠すようにティッシュを貼りつけてくれて、見知らぬ女の子には衣装を汚すなと怒鳴られる。何もリアクションをしてこない辺り、おそらく咲也くんたちは気まずい気持ちになっているんだろう。――ごめんなさい、本当に。
「正直、もう終わりかなって思ってた。おまえとゲームするの、俺なりに楽しみにしてたんだけど」
 なんとなく。何か、過去を思い出すような調子で至くんは言う。確かにあたしに伝えられている言葉のはずなのに、なぜだか別の誰かがチラつくような気がした。それが誰かはわからないし、わかりたくもないし、むしろそんな直感は信じたくない。至くんの感情という感情は、すべてあたしに向けていてほしいから。
「でも、おまえは追いかけてきてくれたから。こいつらもいてくれたしね」
 至くんの手は優しくあたしの背中に添えられて、何度も何度もあやすように滑っていく。そういえば昔もそうだった。あたしが泣きすぎて過呼吸を起こしたときも、落ちつくまで面倒を見てくれていたっけ。面倒見は良いほうじゃないんだけどな、って照れたように言っていた顔をよく覚えている。
「週末、うちに泊まりにおいで。アレの新作買ったしさ、やっぱおまえとやんなきゃつまんないわ」
「アレ」とはそう、あたしたちが出会ったあの日、至くんに買ってもらったゲームのことだ。つい先週に新作が発売したばかりなのだけれど、至くんがいないとなんとなく気分が乗らなくて、パッケージを開けてもいない。それでなくても、このところどうにも詰みゲーが増えてしまっている。
 そのことを至くんに伝えると、俺もそうだと頷いてくれる。その事実ですら嬉しかった。
「ハイハイハイハイ、いちゃつくのは終わり! さっさと着替え! 準備しろっつーの!」
「え、なに綴妬いてんの?」
「んなわけないでしょーが! こっちのメンタルがやべーっつってんすよ」
「心配しなくても、俺となまえはそんなんじゃないから安心しろよ。前にも言っただろ」
 至くんと綴くんの掛け合いに我に返ったあたしは、光の速さで至くんから離れてみんなに頭を下げる。咲也くんはとんでもない! と言ってくれたけれど、碓氷くんはあたしたちのこれが許されるなら、って監督さんに迫り出したし、シトロンさんはこれが静粛というやつネ……となんだかよくわからないことを言っている。見知らぬ女の子にはじとりとした目で見られて、チャラそうなお兄さんはにんまりと笑って何某かをまくしたててきた。シトロンさんとは別の意味で、ちょっとよくわからなかったけれど。
 改めて、MANKAIカンパニーという団体はひどくあたたかくて、優しい場所だと思った。あたしがずっと求めていたものがここにある気がして、強く強く胸を締めつけられる。何かが始まりを告げたような感覚すら覚えた。
「あのっ、ロミオとジュリアスすっごく良かったです! みんな役に入り込んでたっていうか、あたしまでヴェローナに居たみたいな気分になれました……!」
 あたしがそう言うと、監督さんは涙ぐみながら笑う。きっと、舞台でのあの感動を思い出しているのだろう。詳しいことはわからないままであるけれど、総監督として、役者とは別の方面で険しい道のりだったことには違いない。
「夏組公演も楽しみにしてます! もちろん秋組も、冬組もっ、絶対に何回だって見に来てみせますから!」
 監督さんの手をとって笑うと、監督さんは何度も頷いて応えてくれた。この手のひらから、言葉以上のこの気持ちも伝わったらいいのにな。


 そして、その週末。あたしは約束通りMANKAI寮の103号室に泊まりに来ていた。前から度々やっていた、夜通しゲームをやるための合宿みたいなものだ。
 けれども今は至くんのひとり暮らしではないし、部屋にこもっていてもなんとなく気分的に賑やかだった。たまに咲也くんが見に来たり、綴くんがお夜食を持ってきてくれたりして、家でひとりきりでいるときとは比べ物にならないくらい幸せで、何倍も早く時間が過ぎてゆく。
 数週間ぶりであっても別に気まずさなんかはなくて、この距離感がひどく心地良いと思う。ゲームをする横顔も、昼間のすがたからは想像も出来ないような暴言も、2人で謎を解いたときの快感も、どうしようもないくらいに好きだな、嬉しいな、って何回だって思った。
「やっぱり、至くんとやるゲームが一番楽しい」
 そう言ったときの至くんの笑顔もまた、あたしは一生忘れないだろうと思う。


とりあえずこれで一段落です。次からは夏のお話になって、姉のほうがログインしてきます
20180726
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