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天を仰ぐように

 スマートフォンを手に取ってみる。指は自然とSNSのアイコンを辿り、ホーム画面を開かせた。タイムラインを追う元気はない。つぶやくだけなら、まあなんとか。
 当たり障りのないつぶやきを数個落として、他人のつぶやきを見る間もなくすぐ閉じた。最近はずっとこうだ。だから、至くんがMANKAIカンパニーについて呟いていたことも実のところさっき知ったばかりで、もう少し早く気づいていたら何か違ったりしたのかな、なんて今更どうにもならない後悔を抱きながら、スマートフォンをベッドに放る。つられてあたしもふかふかのシーツに飛び込んでみるものの、この間のような微睡みはまったく訪れてこなかった。綴くんには――MANKAIカンパニーには、人を安心させるような不思議な力があるのかもしれない。
 広いベッドに仰向けになって、特に意味もなく目を閉じて考える。随分有名になったものだなあ、となんとなく侘しい気持ちになりながら、詰まる呼吸でなんとか深呼吸をした。
 至くんに憧れて、彼に近づきたい下心を胸に秘め、実況動画を投稿し始めた。なまえはゲームもうまいし、センスあるし、声もよく通るからきっと良いものが出来ると思うよ、そんなことを言ってもらえて、もう嬉しくてたまらなかった。高校に入ってすぐ活動を開始して、初めこそ再生数2桁と伸び悩んでいたけれど、日の目を見るようになったのは確か、ナイランのとある縛り実況をあげてからだ。それからはもううなぎ登りというか、「プロのドM」なんて言われるくらいのそこそこの縛りプレイ実況として、大手に近い人気は出てきているのだと思う。SNSのフォロワーは先日5桁を越えたところで、動画の再生数も時折ながら6桁を記録するほどになった。
 至くんは、あたしの夢だってずっと応援してくれた。歌を歌うのが好きだった。いつか歌手としてデビューして、大好きなゲームの主題歌を歌うのがあたしの密かな夢。お父さんにも、お母さんにも、お姉ちゃんにも言ってない、至くんしか知らない夢。幼なじみの手解きを受けて始めた歌い手としての活動もそれなりになってきたようで、エゴサの結果も毎日変わるようになってきている。順風満帆とはまさにこのことかもしれない。
 ――本当に、至くんのおかげなんだな。彼との出会いで全部変わった。もう4年も前のはずなのに、その転機というやつはまるで昨日のことのように思い出せる。あれは確か、新作ゲームを買いに出掛けた春のことだった。
 中学校に入学して、ソシャゲも解禁、月々のお小遣いも増えるなど、他にもたくさんのウキウキがあたしを包んでいた頃。去年よりもいっぱいゲームが買えるって、気になってたシリーズにも手を出せるって、スキップ混じりにお出かけしていた。そうして、ごきげんなまま行きつけのゲームショップへ行く途中、ふと通りがかったカフェにお姉ちゃんの姿を見つけたのだ。そのとき一緒にいた人こそが至くんである。
 2人は窓際の席に向かい合って座っていて、窓に顔を向けているお姉ちゃんがひどくにこやかにしていることから、おそらく2人は仲が良くて、話も弾んでいるのだろうことがわかった。至くんはこちらに背を向けていたけれど、背格好がなんとなくお姉ちゃんより若く見えていたから、大学の後輩なのだということも同じように理解した。ぼーっと2人を見ていると、あたしを見つけたらしいお姉ちゃんに手招きされる。緊張して足が強張ったけれど、両足を叩くようにしてあたしは店内へ入った。からん、というベルの音が心地良くて、穏やかなBGMもあってかひどく落ちつく雰囲気のカフェは、実は今でもたまに立ち寄る場所であったりする。
「いらっしゃい、なまえ。あなたもこちらに座りなさいな」
 お姉ちゃんに手を引かれ、隣の席に座らされる。お気に入りのリュックを膝に抱えて顔を上げると、至くんはあたしを見ながら優しく微笑んだ。そのときの衝撃だって、あたしはすぐに思い出せる。
「初めまして、茅ヶ崎至です。お姉さんには大学でお世話になってるんだ」
 ふわり。風が吹いた気がした。ミルクティーみたいな甘ったるい色の髪の毛は毛先にメッシュが入っていて、ふわふわの髪質も相まってひどく柔らかそうな印象を受ける。白くてきめ細やかな肌に埋め込まれたふたつの瞳はローズピンク。それが、あたしに向かって細められている。胸が激しく高鳴って、かっと体温が上がった気がした。
 水色のシャツと白いカーディガンもあってか、そのとき脳裏によぎったのは、大好きなゲームの主人公だ。
「ら、ランスロット……」
「は?」
「あっ、えっ、ち、違います! ご、ごめんなさいっ」
 急いで頭を下げると、至くんはくすくす笑いながら気にしないで、と言ってくれた。どこか落ちつかないように目を逸らされたのは、おそらくあたしがナイランを知っているのではないかと疑惑を抱いたからなのだろうけど、このときのあたしにはただ呆れられたとしか思えなかった。恥ずかしい。今すぐ消えたい。ちゃんとした挨拶も出来ないままうつむいて泣きそうになっていると、お姉ちゃんたちが会話を再開する。
「ちょっと、もう、茅ヶ崎くんったら。うちの妹をいじめないでちょうだい」
「ええ、俺が悪いんですか?」
「当たり前でしょ。わたしの大事な妹なんだから」
「あはは……そうですね。これから長い付き合いになるかもしれませんし」
 冗談交じりに言うその声が、なんだかひどく仲睦まじく感じた。まるで、そう、2人が恋人同士であるのではないかと、会話の端々から親密な空気が伝わる。お似合いだと思った。
 お姉ちゃんは妹のあたしから見てもすごく美人で、周囲の人気も集めまくっていたと思う。すらりとしたスレンダーボディは華奢な印象を与えていて、艶のあるくるくるの黒髪は、緑がかっているおかげで重たい印象を和らげているし、すれ違うたびに良い匂いがする。あたしと同じ色のはずの碧眼も、奥まで覗けそうなくらい透き通って見えた。もちろん見た目だけじゃない、文武両道を地で行くお姉ちゃんはやらないことこそあれど出来ないことは何にもなくて、それは妹であるあたしに重たい劣等感を抱かせるには充分すぎるほどだった。
 そういう、何もかもに恵まれていて、神様に愛されたような人こそ至くんにはお似合いなんだと、ぶっちゃけると今でもそう思っている。あたしなんかじゃ相応しくないって何度も思っては泣いたけれど、それではいそうですかと諦めきれるほど安い恋ではなかったし、お姉ちゃんにだけは絶対に渡したくはなかった。
 そういえばこの頃のお姉ちゃん、最近恋人が出来たって言ってたな。びっくりするくらい良い人で、一緒にいると落ちつけるんだと嬉しそうに話していた。そして、今まさにお姉ちゃんは、ひどく幸せそうに、安らいだような顔をしているように見える。
 ――ああ、そうか、そういうこと。途方もない、そして残酷なことをぐるぐる考えているうちに、あたしの口は自然と開く。
「あの、茅ヶ崎さんはお姉ちゃんの恋人さんなんですか……?」
 はたり。あたしの問いかけに2人は談笑を中断して、視線をあたしに集めてきた。真顔になった4つの目があたしのことをじっと見ている。正直なところすんごく怖くて、いきなり出過ぎたことを言ったかなとまた泣きそうになっていると、2人は同時に吹き出して笑った。
「くく、そうか、俺たちそんなふうに見えちゃうんですね」
「本当にびっくりだわ、ふふ。違うわよ、茅ヶ崎くんは同じ学部の後輩ってだけだもの」
「そうそう。今日だって、そこでばったり会っただけだよ」
 ――ただのあたしの勘違い。今にも顔から火が出そうだ。ちょっとでもつつかれたら泣いてしまいそうな涙腺をなんとか抑えて、あたしは両手で顔を覆った。ごめんなさい、と謝ると、気にしないでいいんだよ、って2人同時に言われた。
 至くんは優しかった。お姉ちゃんと話していてもたまにあたしに話を振ってくれるし、置いてけぼりにならないよう説明だってしてくれるし、際どい話になりそうなときはお姉ちゃんを止めてくれる。視野が広くて気配り上手な外面はこの頃から健在なようで、至くんの奢ってくれたクリームソーダは、いつもよりしゅわしゅわも優しく感じた。
 そうして弾んだ話が落ち着いた頃、お姉ちゃんがお手洗いで席を外してしまった。いくら話せていたとはいえどそこにはお姉ちゃんという共通の知り合いがいてくれたからで、初対面で年上のお兄さんと2人きりになるのはさすがに気まずさが拭えない。男子大学生の喜びそうな話題なんかあたしは持ってないし、そもそも至くんの趣味なんてこのときのあたしにはわからなかったし、どうしよう、と手持ち無沙汰なまま、あたしはポケットに忍ばせていたスマートフォンに手を伸ばした。なんとなく手元に視線を感じた気がしたのは気のせいなんかじゃない。
 手帳カバーを開き、パスワードを入力して、スリープさせていた画面を明るくさせる。通知バーを降ろして出てきたLP回復のお知らせをスライドして消した、つもりだったのだけれど――
『えまーるげーむすぷろじぇくとっ! からふるあいどりあっ!』
 消した、つもりで。誤タップでゲームを開き、あまつさえ大音量でアプリのタイトルコールを誤爆してしまったのだ。
 途端、頭がフリーズする。何が起きたのかわからなくって、呼吸を忘れるほどだった。
 穴があったら入りたい。むしろ掘らせてほしい。早く死にたい。そんな思いがぐるぐると巡った。しいんと静まり返った座席の向こう側、至くんも完全に動きを止めて、何か考え込むような、探るような目であたしを見ている。
「あっ、ちが、違うんです! これ、その、茅ヶ崎さんもご存知かもしれませんけどっ、うちの会社が作ってるので、その、テストプレイみたいな感じで――」
 嘘。本当は寝る間も惜しむくらいにドハマりしている。年齢が年齢なので課金はしていなかったのだけれど、貯め込んだ石でまわした10連ガチャでお目当てのキャラを出したとき、嬉しすぎてベッドから落ちてしまった程度にはこのゲームに入れ込んでいる。
 あたしのしどろもどろでみっともない言い訳を黙って聞いてくれていた至くんが、やっとおもむろに動き出した。そしてポケットから同じようにスマートフォンを取り出して、あたしに見せるようにその画面を向けてくる。顔を上げて見てみると、そこにあったのは見慣れたタイトル画面だった。
 はた、と数度目を瞬かせて至くんを見る。困ったように、けれども昂ぶりを隠せないような面持ちで笑いながら、至くんは口を開いた。
「なまえちゃん、結構ゲームやるタイプでしょ」
「へ……?」
「今日の俺の服装見てランスロットルックって見抜くとか相当。かなりのナイランオタクと見た」
 さっきまでとは打って変わった顔をする至くんを見て、このときのあたしは瞬時に理解したのだ。――彼が同類であるということを。
 ただ、ひとつ言わせてもらうならさっきのランスロット発言は至くんのビジュアルや空気感を見て直感的にそう思っただけなのだけれど、まあその話はこの際置いていこう。あたしは自社のものという繋がりからこのアプリを始めていたけれど、この癖のあるゲームを自発的に、そして継続的にプレイしているとなれば、おそらく至くんが自分に程近い趣味を持っているだろうことはわかった。
 目を合わせて頷きあう。どちらからともなく連絡先を交換して、気に入っているキャラクターの話を始めようとした矢先に、お姉ちゃんが帰ってきた。どうやら今度は本物の恋人さんに呼び出しを食らったらしい。
「わたしが席を外してる間に、なんだかとっても仲良くなっちゃったみたいね」
 あたしたちを交互に見ながらそうひと言だけ言い残して、お姉ちゃんはカフェを出て行った。あんまり遅くなっちゃダメよ、ともっともらしいことだけ言って。
 2人きりになったらもうゲームのトークが止まらなくなって、他にやってるアプリはあるのかとか、お互いのオススメゲームのダイマとか、来季に出る新作はどれが狙い目だとか、クソゲーバカゲーの話とか、いくら話しても話し足りないくらい。さすが大人というべきか、至くんはあたしが知らないようなゲームのタイトルや裏話をたくさん教えてくれたのだけれど、まさか中学生の女の子がここまで話について来れるなんて思ってもみなかったというのは、それから2年ほど経った頃に聞いた話だ。
 結局その後は2人で行きつけのゲームショップまで行くことになり――まさか至くんも常連だったとは思わなかったけれど――至くんはこれ俺の好きなやつだからなまえちゃんもやってみて、とさくっと数本のゲームをあたしに買ってくれた。もちろんそれらは何十周もしてやり込んで、シリーズもずっと追っているし、パッケージ自体も部屋の神棚に飾ってある。
 本当に、いま思い出しても眩暈がするほど劇的で、あたしにとっては運命的な出会いだった。それまで色をなくしていたようなあたしの人生は、至くんと出会ったことでたくさんの色がつき、毎日が薔薇色に煌めくようになった。至くんがいてくれるから今のあたしがあって、至くんと出会わせてくれたからこそゲームがもっと大好きになって、そして、この間のあの冷たい目が痛くて――それでも嫌いになんかなれない。
 あと、一度だけ。往生際が悪いって、しつこいってわかってる。それでも諦めきれなかった。これで最後にするからなんて子供じみた免罪符を引っさげながら、あたしは再び目を開いて、傍らに沈むスマートフォンを取る。
 検索したのはMANKAIカンパニーの公式サイト。新生春組旗上げ公演、ロミオとジュリアスの千秋楽のチケットを買うためだ。

20180722
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